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本日、4章も3話で投稿します。
聖アウレッタ山の朝は、まるで汚れを流し落としたかのように清い。もともと清浄な大気と地に恵まれた山だが、特に早朝はしんとした静けさとひやりと澄みきった空気が聖域のごとき場をつくりだす。
その静謐を破って、獣が山道を駆けていた。
狼に似た獣だ。金色の体毛は、四肢が躍動するたび朝日にきらめいている。
狼に似ているといっても大きさは倍もあった。いわゆる魔物に分類される――魔獣である。
その背に横乗りに腰かけているのは、年頃の娘だ。
およそ魔獣に似つかわしくない、華奢な体にエプロンドレスを身につけた村娘である。ありきたりでないと思わせるのは、いきいきと輝く碧の瞳だろうか。鳶色の髪を風になびかせながら、娘の瞳はまっすぐに《札創り》の家を目指していた。
ちょうどその娘に出くわしたのは、裏戸から桶を持って出てきたティウだった。宿泊のお礼がてら手伝いを申し出たら、水汲みを頼まれたのである。
《魔物使い》の感覚が、馴染んだ気配を拾った。裏戸から出たにもかかわらず、玄関にまわったのはそのせいだ。
「あら。おはよう! もしかして、あなたは昨夜遅くに着いたというお客さまかしら」
魔獣の背からゆっくりと飛び降りた娘が、元気よく挨拶する。
ティウは一瞬あっけにとられたが、持ち直して挨拶を返した。
「おはようございます。おっしゃるとおり、私は昨晩からここでやっかいになっています。カナルにご用ですか?」
「カナルにというよりは、お客さまの方にかしらね。少しの間、ここで待っててもらえる? 一応、家の人に一言挨拶してくるから」
茶目っ気を含んで瞳をまばたいた娘は、ティウが了承すると、魔獣を残して玄関の中へ消える。
ティウはその場から動かないで、魔獣をじっと見つめた。
魔獣は深い目をして、視線を返す。
金色の魔獣は、フォードと呼ばれる種だ。高い知性を持ち、ふだんはおとなしい性質の魔物である。しかしひとたび敵と見なした相手には容赦をしない、苛烈な一面もそなえている。
(私はティ・ルウク。あなたは?)
心中で呼びかけると、フォードはピクリと耳を動かした。
(ゼウジス)
同様に直接心に話しかけてくる。
だが短い答えは、名前以上の何をもうかがわせない。山の大気に通じる静けさで黙然としている。
けれどティウは、それが擬装だと看破した。大気を装いながら、魔獣の四肢はいつでも飛びだせるよう、たわんだ枝のような緊張感をまとっている。
(あの人は……)
「リィナ!?」
問いかけたところで、現実の大音声がティウと魔獣の意識を奪った。
仰天声はカナルのものだ。すると、リィナと呼ばれたのはあの娘のことだろう。
まもなく足音をたててカナルが現れた。玄関を開けはなって現状を見てとるなり、頭を抱えてその場に座りこんでしまう。
彼の後ろから顔を出したリィナは、ばつが悪そうな表情でカナルを覗きこむ。
「カナル……」
「ああもうなんだってこんなときに……。リィナ、自重しろといつも言ってるだろ?」
どうにか気を取りなおしたカナルが、強く懸念を表してティウを見る。
ティウはそれを受け、次にリィナ、ゼウジスへとゆっくり視線を巡らした。
「カナル。あなたが昨夜見せた不安は、このためだったんですか」
いまさら隠しだてしても意味がないのは明らかだ。
カナルは立ちあがると、観念したようにうなずいた。
「君に、リィナのことを知られたくなかった……」
ティウはリィナに優しい、けれど悲しいような眼差しを向ける。
「リィナ。あなたは私の同胞ですね」
リィナは目を瞠る。思わずといったように、ゼウジスへ問いかける視線を送った。
「彼は自分の名前以外は、何も教えてくれませんでしたよ。私はイングのティ・ルウク。同じイングの血を引く者の見分けぐらいはつくんです」
「そうなの。わたしも、あなたがイングの民だと知っていたのよ。といっても、これはゼウジスの受け売りなんだけど。彼は昨晩、あなたたち一行を山の中で見たのよ。懐かしい人たちと、そう、それにイングの《魔物使い》を加えた旅行者をね。だから、私はこんな早朝に押しかけたの」
確信犯的な台詞に、カナルがうめく。
「リィナ、どういうつもりだ」
「カナルの不安を取り除いてあげるわ」
不敵に微笑んで、リィナはティウに近づく。すっと顔を引き締め、真正面からティウの眼差しをとらえる。
「イングのティ・ルウク。あなたは、イングリドの管轄下にないわたしを、連れ帰るのかしら?」
ティウは黙って、リィナの瞳から真意を探った。
もしかして、彼らはずっと危惧していたのではないだろうか。傭兵組織イングリドでは、成年に達しない能力者や未熟な能力者はもちろん、独り立ちした《魔物使い》でさえ本部の監視のもとにある。《魔物使い》の力に目覚めたリィナが、組織のことを少しでも知っていたならば、いつかイングリドに身柄を引き取られるのではと、容易に想像できたことだろう。
ティウは噤んでいた口を開き、問いに質問で返す。
「リィナは、イングの民として生きたいんですか?」
驚いたように、リィナは双眸を瞠る。意志を聞かれたのが意外だったらしい。
少しの間、リィナの視線は自らの中の答えを探して揺れた。
エプロンが握りしめられる。そして、正しい言葉を選び取るようにして、リィナはゆっくりと語りだした。
「わたしは、七つのときにアウル村に移り住んだわ。ここは母の故郷だから。それまでだってシュトッセルの街で、母が女手ひとつで育ててくれていたの。わたしはイングの民だという父に会ったことはないし、十三の歳まで魔物と出逢ったこともなかったのよ。
……だけど、そうね。まわりは、わたしをふつうの子どもだと見なさなかった。イングの血を引いているから、大人は気味悪がって敬遠するし、同じ年頃の子どもにはよくいじめられたわ」
特別な代償を払わずに魔物を手なずけるイングの民は、人々から人魔の民と畏れられている。その特殊な力を、魔物の血を引くためだと口さがない者らは罵るのだ。
息をついて視線を落としたリィナは、自嘲するように唇をゆがめる。
「疎外感を感じるたび、自分はちっともイングの力なんか持ってないのに、イングの民じゃないのに、そう強く強く否定して悲しみや寂しさをまぎらわせた。でもゼウジスに出逢って、彼の声を聞いて、わかった。イングの力がどういうものか、けっして蔑まれるような卑しいものじゃなく、誇れるものだということを。わたしはイングの血を引いてるんだと、やっと認められたの」
瞳の光を取り戻し、唇は微笑を刻む。どこにも無理のない、ありのままの事実を語る口調だ。
「では、私とともに来ますか?」
生真面目に、ティウが尋ねる。それまでじっとリィナの話に聴き入っていたカナルが、息をのんでティウを見た。
一瞬、場が緊張に支配される。
それを破ったのは、リィナの「いいえ」という言葉だった。目を閉じて、ゆるやかに首をふる。
「違うのよ。血は引いていても、イングはわたしの帰る場所じゃない。あなたにはひどい言葉だと思うのだけど、イングの村が壊滅したと伝え聞いたとき、特別な感情は浮かばなかったの。悲しい事件だと思いはしても、わたしにはよその村のことでしかなかった。わたしの故郷は母と、嫌な顔ひとつせずに受けいれてくれた叔父さん、そして……」
リィナは目を細めて、愛しそうにカナルを見つめる。
「泣いている幼いわたしのそばに、ずっとついていてくれた、カナルのところだけなのよ」
「リィナ………」
カナルはよろめくように歩き、リィナのかたわらに立った。懇願の眼差しで、ティウを見つめる。
「彼女を、連れていかないでくれ」
それまで厳しいほど真摯な表情をしていたティウが、ふっと吐息をつく。
故郷をここだとはっきり言えるリィナが、力にふりまわされて己を失うことはないだろう。たとえ彼女を苦難が襲っても、受けいれてくれる人々がそばにいるなら、この大地に自らの両足で立つことができるはずだ。
ティウは帰る場所をもつリィナを羨ましく思う。それでも、やわらかな微笑はリィナの幸福を思って浮かんだものだった。
「連れていく権限なんて、私にはありませんよ。リィナは自らの居場所を思い定めているし、見たところ《魔物使い》の力は弱く、すでに安定もしています。ゼウジスという友がいるのなら、彼女の力が災いを呼ぶこともないでしょう。ですが、いつどこで他人が見ているとも限りません。リィナ、どうかゼウジスに乗って人の家を訪問するような行動は慎んでくださいね」
最後の釘をさす言葉に、太く低い笑い声が重なる。くぐもって聞こえるそれは、魔獣のものだった。
「さすがは、名高いイングの《魔物使い》殿だ。悪癖をよく見抜いていらっしゃる。リィナ、《魔物使い》殿のありがたい忠告を、とくと心するように」
揶揄をふくみながら諭すゼウジスに、リィナは舌を出す。それから神妙な表情で、ティウに深々とお辞儀した。
「わかってくれて、ありがとう。以後、気をつけるようにするわ」
「おれからも、ありがとう」
続いてカナルも頭をさげる。
そしていっしょに顔をあげた二人は、互いに横目で視線を交わしあい笑う。
「これで安心したでしょう、カナル」
「……ああ。だけど、心臓に悪すぎる。もっと穏やかな方法はなかったのか」
リィナは人さし指を口許に立てて、たくらみ顔になる。
「あら。それじゃあ本来の計画どおりだったら、カナルの心臓は止まってしまったわね。わたし、イングに絶縁状を叩きつけてやろうと思って、わざわざ派手に登場したんだもの。こんなに話のわかる人が来ていて、とても運が良かったわよね?」
一気に顔色が白くなったカナルである。
そんな二人を微笑ましく見つめながら、ティウはリィナに一歩近づいた。
「リィナ。大地に根ざすあなたに、祝福のあらんことを」
そう唱えながら、頬に軽く口づける。
年上であり初対面の相手でもあるリィナに、突然祝福を贈るのは礼儀に反するかとも案じたが、ティウは思いきって行動に移した。イングの者として彼女にできることは、それぐらいしかなかったからだ。
口づけを受けたリィナは、赤く頬をそめる。その様子に、カナルが少しうろたえた。
しかし、カナルの反応などかわいいものだった。
一呼吸おいて、開け放たれている玄関の奥から甲高い悲鳴があがったのである。
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