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本日二話目の投稿です。
一話目をお読みになっていない方は、そちらからよろしくお願いします。
少しばかり開けた窓から、夜気が忍びこんでくる。
昼間こそ初夏らしく暖かな陽気だが、夜は涼しく室内でも過ごしやすい。窓際に置かれた寝台に寝転がっていたティウは、夜気の運ぶ涼風にあたりながら、チコやダーイ、イングの民のことを思っていた。
ダーイは知っている。ティウが自制心をもって、周囲の憎悪から無表情でいることを。決して、ティウの心が無傷でないのを知っている。
事実、チコの仇という言葉は、ティウの自制心をひどく揺さぶった。
わかっていたつもりだ。チコだけではない。きっと他にもティウを仇と考える者が、少なからずいるだろう。
それでもまっすぐ悪意をぶつけられれば、そのぶん傷も深くなる。陰口や当てこすり程度の嫌がらせに対する自制心は鍛えられていても、純粋な憎悪に対応する胆力はまだ不十分だ。
ティウは、苦く嗤う。自分の心中がどんな状態であれ構わないが、それが表情に出るのはよろしくない。本当は、ダーイにだって見抜かれたくない痛みだけに。
憎まれ役は、自分一人で十分だからだ。
ダーイは紫の瞳でこそないが、長にふさわしい人物である。以前から、ティウの父である前長に準ずる実力者と讃えられ、少しばかり破天荒なところが年輩者には煙たがられたようだが、人望は厚い。彼なら、二年前の災禍で解体しかかった組織をまとめあげることができるだろう。
だからティウを気にせず、長として組織運営に力をそそいでほしかった。ティウを心にかけるだけ、彼に対する風当たりが強くなるばかりだ。
だが、父の右腕だったダーイは、同時に父の親友でもあった。親友が命がけで守ったティウを次代の長にすることが、ダーイのできる唯一の餞だったのかもしれない。そのために、二人は平行線をたどる。
「……頑固なのは、ダーイの方だよ」
呟いて、吐息が洩れる。
あと一月あまりで、十六歳になる。この西域での仕事中に迎えることになるだろうか。
仕事の困難さを思いめぐらして、ティウは目を閉じる。
「戻ってこられないかもしれないな……」
―――生きて。
姉の最期の言葉が、脳裡に響いた。
優しくて儚いささやきなのに叱咤されているようで、哀しく笑う。
生きて、生きて、生きぬいて、その先に何があるというのだろう。
帰る場所は、もうない。
誇りに思っていた父も、いつまでも少女めいていたが頼りになった母も、しっかり者で優しかった姉も、皆ティウを守るために命を落とした。
洋燈の灯りのもと、手のひらを掲げてみる。濃く陰影が浮かぶのを見つめてから、おもむろに拳をつくった。
この手は、武器なのだ。手だけではない。《魔物使い》として鍛錬してきた全身が、人の形をした武器なのだ。災禍が起こるまでは、家族を、故郷を守るための力だった。だがこれから、この武器をどう使えばいいのか。
「復讐したいのなら……」
ハッとなって口を閉ざす。脳裏に一瞬よぎった紫瞳と言葉を、首をふって追いはらった。
チコのことで感傷的になりすぎている。ティウは自分を戒め、気持ちを仕事に切り換えようとした。
明日は早い。灯りを消すために、洋燈に手をのばす。
異界へとつづく扉、そしてそこから想起させられる面影を、ティウは灯りを落とすことで闇にぬりこめた。
* * *
同じ夜、王と賢者は月明かりを頼りにして杯を交わしていた。
テラスに続く大窓を開け放って、二人は直に床に腰を下ろしている。さすがに王宮の床敷きは毛足が長くやわらかいので、座り心地がいい。慣れた様子で、王は束ねたカーテンにもたれかかって足を投げ出し、賢者はあぐらをかいていた。
「次から次へと、面倒なことが起こるものだな……」
賢者がグラスを傾ける手をとめる。
「珍しいな、ディード。弱音か」
「国の危機なんでね。愚痴りたくもなる。まったく、因果な商売を始めた自分に呆れるよ」
「それは後押しした俺に対する嫌味か?」
王はふっと笑み、月光に彩られた外の光景から視線を外す。向かいに座る賢者は低く笑った。
リド・アレアディードは庶出の王であり、戴冠式に至るまでには苦難を極めた。そのとき、最も力強い後見だったのが聖刻印の賢者なのだ。
しかし玉座に就いてからも、問題は山積していた。
先々代の王は侵略によって広げた領土がよく治まらないうちに、さらに無為な侵攻を行ってきた。そのために、巨大になった王国は裡に火種を抱えてしまった。
先代王は国境線を守ることに腐心してきたが、ディードは平定した南方一体の施政にも力を入れている。それは、目が行き届きにくい地方での反乱を防ぐ意味合いが濃い。
賢者の後見を得たとはいえ、庶出であるディードの敵は身内にも多い。南方を他国に売り渡してでも、ディードを追い落とそうとする輩がいるほどだ。
そして今、南はきな臭い。国境にあるセルイナ地方の領主が、ゲルランド王国と通じているという情報をつかんでいるのだ。
「よりによって、この時期に最果ての凶事が重なるとはね。南に争乱の兆しがある以上、西域に兵力を分散するわけにはいかない」
「災禍が広がり知れわたれば、ゲルランドが出てくるぞ」
「ああ、妖魔とゲルランドの挟み撃ちだな。ありがたくない事態だ」
妖魔の災いありと知れた時点で、間違いなくゲルランドは戦の準備を始める。最果ての凶事を秘すのは、国民の混乱を防ぐためと、最悪の事態に備えて少しでも時間稼ぎになるよう配慮した結果であった。
「最悪の事態など考えたくもないが、どうだ、ガッシュ。本当に少人数で、異界の扉を封印できるのか」
酒精では追い払えない憂いを宿した双眸を、王は向けた。
葡萄酒を飲み干した賢者は、無造作に手酌しながら答える。
「少数といっても精鋭だからな、目的地にはたどりつけるだろうよ。それ以上は、行ってみないとわからん」
そっけない返答に、ディードは苦笑する。
西域への旅に関して隠密行動を頼んだのは自分だが、あっさりと引き受けた賢者は護衛は二、三人でよい、と耳を疑うような返事を寄こした。下手に大人数で移動するより目立たないし、距離も稼げると言うのだ。
ただし、賢者の健脚についてこられる者で、妖魔の大集団を目前にしても怯まない強者、という厳しい注文もつけ加えられた。うち一人は妖魔と対抗できる《魔物使い》を、なのだから無茶苦茶である。
いったいぜんたい、そんな《魔物使い》が存在するのか危ぶみながら、信頼できるイングリドに問い合わせて派遣されてきたのが、ティ・ルウクだった。
十五歳の少女だったのには驚かされたが、イングリドの長が国王の依頼によって推薦した者だ。心配はしていない。
むしろ心配なのは――――
「精鋭ねえ……アレは役に立つのかな?」
アレが誰をさすのか察した賢者は、大仰に肩をすくめた。
「エルハか。《札使い》としての力は確かだぞ。あいつ自身が護符がわりになるだろうしな」
「……大地神トゥラエルファンの御力か」
世界の大地を創り育んだ神トゥラエルファンは、中央大陸で最も古い国とされるエルファンの国神である。この国へ亡命してきたエルハが王とさえ対等といえる賓客待遇なのは、彼が大地神と深い関わりがあるからだった。
レイディアナにおいて最高機密であるエルハの出自を反芻する王に、賢者は軽くうなずく。
「まあな。……ただ、ちょっとあの醜態はどうかと思うが」
微妙に顔をしかめて、ちびりと酒をなめる。
昼間のことを思い出し、ディードは笑いをかみ殺す。普段のエルハとは大違いだった。
彼はここにきた当初から、王である自分に対してさえ不遜で笑顔を見せたことはない。いつも冷ややかな視線で、他人との間に距離をおいていた。
その態度が多少軟化したのは、王室御用達の服飾家ロイ・シオンジルアに師事してからだ。仕立屋だって客商売なのだから、無愛想なままではやっていられないだろう。
それを差し引いて鑑みても、オネエ言葉のエルハが夢幻でないのが摩訶不思議で、おかしくなってしまうのだ。
「あの冷淡な男が、ああも変わるとはな。ティ・ルウクはどんな魔法を使ったんだか」
賢者はディードに微笑で返し、杯を重ねながら目を伏せて思索に沈む。
邪魔せぬよう再び眼差しを外に向けた王は、グラスを弄びながら最果ての地に思いを馳せる。
酒盛りは遅くまで終わる気配を見せなかった。
* * *
また、その夜更け、王都の高級店が並ぶ通りに店を構える仕立て屋『シオンジルア』で、エルハは待っていた。多忙な店主、ロイ・シオンジルアが工房へ帰ってくるのを。
ロイは王室御用達の服飾家だけあって、老境に差し掛かりながら年齢を言い訳にせず、身につける衣装や装飾品に一切妥協を許さない洒落ものだ。体つきも中年太りなど寄せつけず、かといって細すぎないで、ほどよく均整がとれているため、衣装をこのうえなく引き立てつつ纏ってみせる。派手ではないが品よく整った顔立ちと紳士然とした物腰のロイは、シオンジルア製の衣装を着て歩くだけで宣伝になる男なのである。彼自身の装いが、店の広告塔のひとつでもあるのだ。
そうした理由含みでとある貴族の催した夜会の招待を受け、営業に勤しんで店へ戻ってきたロイは、一人残って仕事を進める人影を見つけて眉をひそめた。
「……誰かと思ったら、エルハか。どうした、こんな遅くまで。急ぎの仕事でもあったか?」
エルハは手を止め立ち上がると、ロイの前まで行き、深く頭を下げる。
「店を、シオンジルアを、今日付けで辞めさせてください」
しばし沈黙したロイは、特に動揺した様子も見せずに淡々と尋ねた。
「理由を伺ってもよろしいですか?」
慇懃な口調が店に勤める以前の態度を表しており、エルハは緊張で強張っていた顔をわずかに歪ませる。
辞めたくない。
しかし、期間のわからない長期休暇をとるのは、もっと難しい。病気などではない限り、馘首を言い渡されるのが当然だろう。
だから、夕方までに自らが手掛けていた仕事を他の針子に申し送りをし、辞職を願い出た。
辞めたくはないのだ。だが、決心はすでについていた。意志は揺らがない。
服飾家として尊敬するロイと親しく話すことは最後となるかもしれないがゆえに、エルハは正直に心情を打ち明けた。機密となる事情は語れないことだときちんと断り、質問に答えながら、語り合う。
最後に、ロイは言った。
「いいだろう。行ってこい」
了承をいつもの砕けた言葉づかいで告げられ、エルハは再び深く頭を下げた。
《魔物使い》やらキーワードに魔物と記入しているにしては、
二章に入っても魔物が出てこない罠……。