8-1
本日8章は、隻手通常の投稿セオリーを破って、前半2話分だけを投稿します。
申し訳ありません。
最後まで加筆修正していたら、間違いなく朝を迎えてしまうので……。
とりあえず、10万文字突破を先にクリアさせておかせてください。
暗い血色の闇の中を、チコは漂っていた。
夢をみていたのだろうか。
ずっとずっと待っていた人が、やっと助けにきてくれた。
そう思ったのに、いまチコのそばには誰もいない。
過去と現在が混沌としていた。
駐屯地を逃げだしてグリーセンの森へ足を踏み入れたところまでは、時間は確かに連続していたはずだ。けれどいつからか、人買いにさらわれて以降の地獄のような日々が現在の時間にまぎれこんで、チコを混乱させるのだ。
どうして、と思う。
幼いながらイングの《魔物使い》の誇りを持っていたチコは、売られた先でどんな洗脳を受けても、全身全霊で抗ってきた。反抗的なチコは数えきれないぐらい折檻を受けた。飯抜きなどは優しい罰で、鞭でひどく打たれたり牢屋に何日も入れらるのは当たり前だった。それでも意志は曲げなかった。いつか必ず、ティウが迎えにきてくれると信じていたからだ。
長の娘ティ・ルウクは、わずか八歳で異界の神と誓約した。いずれイングとイングリドの長となる運命を表す紫水晶の瞳をも手に入れた。
その器の大きさに村中が期待をよせたものだ。けれど当人はいたって平常心で驕り高ぶることはなく、黙々と《魔物使い》の修行をこなしていた。期待以上の成果を上げる彼女を周囲は褒めそやしたが、やはりティウは浮かれることなく鍛錬をつづけたのだった。
それが子供心にもかっこよく思え、チコはティウに憧れたのだ。ティウはぶっきらぼうではあるが、後輩の面倒をよく見たし、厳しいなかにも優しさがあった。孤児だったチコはティウを姉のように慕い、同期の仲間に対するよりもよほど親しみを抱いていた。
いつかは長になったティウの片腕となれるような、強い《魔物使い》になることがチコの目標だった。ティウは誰よりも強く高潔な戦士で、理想そのものだったのだ。優しく強い彼女が、苦境にあるチコを助けにこないはずはないと信じていられるほどに。
されど、いくら待ってもティウは来ない。
(どうして。あんなヤツを助けたのに、オレを助けてくれないの……)
折檻を受ける苦痛より、その事実の方が辛い。待って待って待ちくたびれて、このまま壊れていくのだろうか。
いやだ。そんな惨めな生はいやだ。ここから逃げなければ。そして――。
(許さない。オレをこんな場所に置き去りにして、見捨てた。誰よりも強いくせに、オレひとりだけを見捨てた)
裏切りだとチコは呟く。悔しさと悲しみのにじんだ声で。
もうチコには過去も現在もなかった。ただティウへの憎しみだけが、脳裡に残る。
ロック、と呼びかけて手をさしのべる。手のひらに濡れた鼻面の感触がふれた。ロックの額を撫で、ささやく。
行こう、と。
* * *
「さて。無事に古森までたどりついたはいいが、異界の扉がどこにあるかだな」
「無事、だって?」
賢者が首をひねるのを、エルハが半眼で糺す。
荒野を駆けて四日目の昼、彼らは最果ての地のさらに果てにある古森にたどりついた。
しかしここに至るまで、何度妖魔を避けて迂回したことか。そして回り道のなんと険しかったことか。枯れた峡谷を駆けていれば鉄砲水が出て追われたり、垂直の崖を落下の勢いで下ったり、底が見えない地割れを飛びこえて向こう岸へ渡ったりと、心臓に悪い道のりだった。救いは戦闘にならなかったことのみだ。
だが、エルハの言及は悪路のことではない。古森に至って、いまだティウと合流できていないことにだった。
「しようがないだろうが。俺らもだが、ティウの方も大きく迂回せざるをえなくなったんだ。古森の南と北で両極端から突入することになったんだから、合流しようがない」
ピリピリしているエルハを、賢者は軽くいなす。
三日目まで順調だったティウの道程は、四日目で迂回しなければならなくなった。古森の東部を目指していたのが、妖魔の気配が密集していたために、北西へとっていた進路をいったん南西へ変えて回りこむことになったのである。賢者たちも同様で、合流地点から遠く離れた北寄りから古森へ踏み入った。
遠目には荒野のオアシスと見えた古森は、森の中では明らかに異質な空気が漂っていた。
黒く繁茂する巨木の群れと、大蛇のようにうねる根におおいつくされた土壌。特異な力にあふれた大気は張りつめて、耳に痛いほどの静寂で満たされている。生命の息吹が激しく渦巻いているようにも、逆にいっさいが死に絶えているようでもあった。人の世界とは言いがたい、存在を押しつぶすような圧迫感がある。
森へ分け入ったばかりの場所で、賢者たちは今後の進路を定めるために留まっていた。
エルハがなにやら愚痴っているが、賢者は無視して森の奥を見はるかす。すぐに低くうなる声が洩れた。
「古森の発する気と妖気が強すぎて、ここからじゃ異界の扉の位置が読めん。俺は探知能力はからっきしだからな。ユーリィ、すまんが扉の場所を教えてくれないか」
「目はいいのに、探知は苦手か。ずいぶん個々の能力にばらつきがある。聖刻印の使い手としては珍しいな」
ユーリィが興味深げに賢者へ視線をやる。賢者は肩をすくめた。
「俺はもともと、ただのしがない一剣士だったからな。魔法なんざ縁がなかったのさ」
瞬きしたユーリィは吐息をつく。
聖刻印の賢者は強大な神力を受け継ぐだけに、前身は力の使い方を知る優秀な魔法使いであることが多い。というより歴代の中で剣士から賢者になったのは、この男ぐらいだろう。ふつうなら聖刻印が絶対に選ぶはずがない人材なのである。レン・ガシュナーという男はその点で、とんでもなく変な経歴の持ち主だった。
そんな冗談のような経歴をさらっと披露され、ユーリィはあきれ果てたのか諦めきったのか、それ以上の追求はしなかった。かわりに、首をまっすぐ森の奥へ向ける。
「ちょうど中心だ。そこに隻手の門がある」
「なるほど。やはり前回と場所は変わらないな。位置が固定されてるわけだ」
(隻手の門、ね)
心配のあまり、ありとあらゆる祈りの言葉を呟いていたエルハが、異界の扉の名を聞いてちょっと我にかえった。胡散くさげに賢者をちらりと見る。
荒野でその名がでたときの賢者は、少々様子がおかしかった。なにか言いたげだったユーリィを制して、あからさまに話を逸らしたのだ。だが彼は本気で隠したいことなら、もっとうまく話題を変えるはずである。
わざとらしい話題転換は、あえて予告をふったのだと考えられる。隻手の門と呼ばれる異界の扉が目的地であるかぎり、エルハは実物に直面することになる。あの場では避けられた話は、隻手の門を目の当たりにすることで推し量れるのだろう。
情報の断片から推測するに大地神がらみの、エルハの神経を逆なでする話の内容だったに違いない。あのとき、ユーリィの言動によって情緒不安定だったエルハに、賢者はそれ以上刺激を与えないよう配慮したのだろう。いずれ知れることだからと、先延ばしにしたわけだ。
(もう、子どもじゃないっていうのに)
舌打ちしたい気分で顔を背ける。
祖国を出たときの自分は、確かに幼かった。年齢のことではなく中身がだ。生きる術を持たなかったし、常識は知らなかったし、心は荒んでいて他人を寄せつけなかった。己の内に巣くう憎しみと哀しさだけしか見えてなかった。周囲のことなど、なにひとつ――。
保護者であり監視者でもあった賢者は、エルハがまた神力を暴走させないよう細心の注意をはらっていたはずだ。たとえ扱い自体はぞんざいだったにしても、彼の為してきたことで、エルハは人として生きることを思い出したのだから。
そのことに感謝はしているものの、エルハはいまだその関係から抜けだせていないことに納得がいかない。今回の同行だって、国の大事なのに二つ返事で承諾されてしまった。賢者の脳裡で、なんらかの思惑が働いたに違いない。きっと、エルハを禍つ神にしないための手なのだろう。結局、エルハはいつまで経っても賢者の庇護の下にある。
おもしろくない気分で古森の奥を睨めつけていたエルハを、その賢者が呼ばわった。
「おい、エルハ。人手が足りないんでな、少しは手伝ってもらうぞ」
言いながら、腰のバッグからナイフを五本取りだす。
抜き身のナイフは金の柄と金剛石の刀身をしており、全体に紋様が描かれていた。きらびやかなナイフはとても実用に耐えない風情だ。それもそのはず、これは術に用いる最高位の魔法具だった。
「異界の扉へ近づいたら、二手に別れる。おまえには三本、こいつを託す。簡易だが、これで五芒星の魔法陣を敷くんだ。妖魔に気配を悟られるなよ。設置後は、俺の護衛を頼む。たぶん妖霊との門の主導権争いで、俺は手一杯になるだろうからな。他は構っていられん。まあ、ティウが合流するまでの辛抱だ。ティウが来たら、おまえの思い通りにしろ」
少しどころか、こきつかわれている。しかもティウは賢者の護衛をするのだから、ティウを守るエルハもまた賢者の周囲の露払いをすることになるのだ。これは周到に状況を見越して出された指示に違いなかった。
ますますおもしろくなくなってきたエルハだが、ナイフは素直に受け取る。この悪状況下で力を合わせないことの愚かさは、明白にすぎる。それぐらいの判断力や理性は、賢者と過ごしたころに養われていた。
少しの躊躇もなくナイフを受け取ったエルハに、賢者は目をすがめて笑みかける。
「任せたぞ。じゃあ、出発するか」
「了解」
エルハたちは隻手の門を目指して、気配を殺して駆けだす。
古森は人の足ではひろくとも、荒野やグリーセン森林の広大さに較べれば小島程度の大きさだ。ユーリィの足にかかれば、ほんの一刻で中心部のほど近くに到着した。
目的地に近づいた賢者組は速度を落とす。並足程度で進めながら、賢者とエルハは視線を交わした。賢者の手がすっと南西を指し示す。エルハはうなずくと、無言でそちらへ馬首を向けた。
その背に賢者が声をかける。
「ティウを守るということがどういうことか、よく考えろよ」
エルハはちょっと目を瞠った。
異界の扉周辺は妖魔の気配が濃厚だ。エルハたちは目隠しの結界を張ってあったが、力の強い妖魔には見破られる可能性が高い。
薄暗い森の巨木に隠れ、地をつたう根の影に潜み、妖気を避けながら慎重に慎重を重ねて、これまで古森を駆けてきたのだ。ひそめていたとはいえ、賢者が声をだしたのは意外だった。
肩ごしにふりかえると、賢者はすでに背を向けている。その後ろ姿から、言葉の意図を知るのはもう無理だった。
2話目は、一時間後に予約投稿してあります。




