4-2
本日、投稿2話目です。
前話をお読みでない方は、4-1からよろしくお願いします。
「イヤアァァ――――!」
悲鳴に度肝を抜かれてふりかえった面々は、そこにわなわなと立ちつくすエルハを見つけた。
絶句する皆をよそに、エルハは蹌踉とした足どりでティウのそばに来ると、その手を両手で包みこんだ。
「ひどい、ひどいわ。どうしてリィナにはキスして、あたしにはしてくれないのっ」
泣きそうな勢いで目が潤んでいる。
それを初めて見たリィナはしばらく硬直していたが、やがて隣のカナルに視線を送る。
「ありえないわ。エルハはいったい、なんの病気?」
あえてエルハを直視しないよう目を逸らしていたカナルは、声をひそめて耳打ちした。
「ティウに対してだけ症状がでる病だよ」
女の勘でピンときたらしいリィナは、
「それは喜ばしい、と言えない状況ね。あれじゃ誤解の大量生産じゃないかしら」
と冷静に考察し、友であるゼウジスにいたっては、
「人とは、ときに予測不能な生き物だと思っていたが……エルハ殿はちょっと会わぬ間に予想外に変わられたな」
で、すませた。
当の本人はいまだ正気にもどらず、ティウをかき口説いている。
「会ったばかりのリィナにだけなんて、ずるいわ。あたしたち、もう知りあって一週間になるのに。どうして? 公平じゃないわよう」
ティウは、なぜ祝福を熱心に求められるのか訝しみながら、ごく正直に答える。
「それは、リィナがイングの血を引いているからです。イングでは、目上の者が祝福をして一人前と認められるんですよ。儀式としては略式に過ぎますし、私ごときが祝福を授けるのはおこがましいですが、これでリィナはイングの共同体でも自立した存在とされるんです。彼女はもう大人として、自分の責任でもって行動することを許されました。もし、他の者がリィナをイングに連れ帰ろうとしても、それはリィナの同意がないかぎり許されることではありません」
リィナとカナルが、ハッとする。祝福の意味を正確に知って、彼女たちは再び自然と頭をさげた。
あいにくエルハに迫られていたティウは、それを見逃した。まずエルハをどうにかしないことには、ずっと手を握られ拝みたおされそうだったからだ。
「だから、エルハには全然祝福の効力はありませんし、必要のないものですよ」
エルハは、がくーっと肩を落とした。
「そういう意味じゃなくって…………あああああ、違うのにぃ―――――!」
もどかしげに身をよじる。
さすがに放っておくことに良心がとがめたリィナとカナルが、二人の間に絶妙のタイミングで割りこんだ。
「エルハ、お久しぶり。ずっと音沙汰なしだったから心配していたのよ?」
「ほら、エルハ。中で落ちついて話そうよ。時間はないけど、もちろんリィナに近況ぐらいは話してくれるんだろ」
強引にエルハの手をもぎ取ったカナルが、無理やり家の中へと引きずっていく。
「えっ、ちょ、ちょっと!」
もがくエルハが連れ去られていく。
一人残されたティウに向かって、エルハの両脇をかためる二人がそっと目くばせした。
ティウはああと納得して、途端に気がぬけた。三人が玄関の奥に消えるのを見送ると、桶を持ち直しながら呟く。
「水汲みに行かなきゃ」
「……つきあおう」
気の毒に思ったらしいゼウジスが、沢に向かうティウにつきそうのだった。
* * *
野原のただなかに、人影が見えた。
それに気づいたゼウジスが速度を落とす。緩やかに走る彼の背から、ティウは無造作に飛び降りた。
「ゼウジス。案内、ありがとう」
「この程度、礼には及ばんよ」
彼女たちはそのまま併走しながら、大小ふたつの人影に近づいていく。
「お疲れさまです、昼食を持ってきました」
背後から声をかけると、ふりむいたカナルが微笑しながら唇に人さし指をあてた。
「ありがとう。だけど、しばらく静かに見守ってくれるかな。珍しく生徒が熱心なんだ」
リィナが帰るとすぐに、エルハは譲り受けた札を調整するために、山の広い空き地へ出かけていった。その札の力の解放・調整が教本にちょうどいいと、カナルはタオをともなって見学していたのだ。
カナルの視線の先では、ティウの声にも気づかなかったタオが、食い入るように双眸を見開いている。
タオにつられて前方を見たティウは、息をのむ。
目前には、老師宅ほどの大きさの結界がはってある。結界の中から、歌うような声が流れてきた。
「火の精霊。火の粉のごとき、灯火のごとき、篝火のごとき」
淡く輝く結界の中心でたたずむのは、エルハだ。彼が言葉を発するたびに、結界の中で事態が変わっていく。火の精霊の札を掲げれば、言葉のままに無数の火の粉が現れてエルハの周囲を舞い、どんどん火勢を増す。
「柱となれ。渦巻け。壁となれ。――退け」
炎の柱が立ったかと思うと竜巻になり、炎が結界ぎりぎりまで迫ると、そのまま火炎結界を創りあげる。一連の動きにためらいはなく、しかも大きく育った炎は「退け」の一言で瞬時に消え失せた。
ティウは傭兵という仕事柄、《札使い》の技を幾度か見たことがある。だが、エルハほど自由自在に使いこなす者はいなかった。驚嘆を通りこして、寒気すら覚える腕前だ。
「……すごいですね」
思わず洩れでた呟きに、カナルが困ったような笑顔を浮かべる。
「あれでも、まだ力を抑えてるんだけどね。札の調整は、微妙な力加減を測ることにあるから。まあ、うまくやっているように見えるけど……ちょっと扱いにくそうかな」
とてもそうは見えない。ほとんど呆れた心境で、ティウは首を横にふった。こんな指摘をするカナルもまた、《札使い》として高い資質を持っているのだろう。
ふ、と息をついたティウは、結界を注視するカナルのごくそばに並んだ。ほとんど聞き取れない声音で話しかける。
「カナル。リィナのことで、少しいいですか」
一瞬、カナルの視線がティウに投げかけられたが、すぐにもとへもどる。
「ここで話してもいいのなら、どうぞ」
声をひそめたのは、エルハやタオの集中を乱さない配慮もあった。そして十分に声量を抑えれば、夢中になっているタオには聞き取れないだろうし、近辺に他に人気がないここならば、無関係な者に話が聞かれる心配はない。あまり公にしたくない性質を持つ話題であるため、人の気配についてはゼウジスにも確認済みだ。
ティウも視線をエルハに向け、話しはじめた。
「これはゼウジスにもすでに心得てもらっていることなんですが、私が贈った祝福の印は必ずしも有効とは言えないのです」
「……どういう意味?」
「いま、私は一族の中でとても微妙な立場にあります。もうすぐ成年を迎えますが、もしかしたらその後、一族の総意で追放になるかもしれない……」
おだやかならぬ状況に、カナルの喉が上下する。
「そうなれば、私の祝福は無効と解釈することもできます。――二年前の災禍以来、イングリドの戦力は激減しています。その力を少しでも取り戻すために、イングリドを離れ一介の自由戦士となった者たちを組織に引き戻そうとする案が、最近議会に提出されました。さらに過激な意見では、たとえ力がなくともイングの血脈に連なる混血児を問答無用で集め、次代に能力者を期待しようという声まで挙がっているそうです」
固い声の根底に、嫌悪と怒りがにじむ。
過激派の意見は道を外れている。それはもう個の人間に対する扱いではない。家畜同然だ。
カナルもまた嫌悪感を隠さず舌打ちする。
「胸くそ悪い意見だ」
「ええ、イングリドの《魔物使い》として、恥ずかしいかぎりです。けれどこの意見が通れば、能力者であるリィナは特に危険です。……いままでリィナの存在は、あなたたちの手によってイングリドの目から隠されつづけてきたのでしょう? どうか、これまでどおりに彼女を守ってください」
「……ああ、当然だ」
うなるように発された承諾を確かめると、ティウは厳しい表情のままで話をつづけた。
「私も打てるだけの手は打っておきます。
まずは、イングリドの長には仕事の中間報告として、このことを記して書簡を出しました。今回の依頼は機密性が高いので、報告書は長以外の目にはふれません。彼が事実関係を押さえてくれていれば、後で問題が起きても、うまく采配してくれるでしょう。
現在の長は人望が厚く、度量のひろい方です。彼が長であるかぎり、過激派の意見を通す可能性はない。けれど、彼もまた私を庇うことで自らの足許を危うくしています。この先はどう転がるかわかりません。ですから最終的には、あなたがた自身にリィナの安全をゆだねるしかないのです」
「そこまで、こっちを心配してもらわなくても大丈夫。君の立場の方が、よっぽど危なく思えるしね」
逆に心配になったのだろう。カナルが空気をやわらげて笑んだ。
それにつられて、ティウの険しい表情もすっとゆるむ。
「これまで話した危険性は、いまだ起こっていない、たんなる予測に過ぎません。しかも最悪の場合のことです。けれども、あらゆる事態を想定しておいてほしかったのです。……おそらく、この瞳の色があるかぎり、祝福は決定的なものになると思うのですが。用心に越したことはありませんから」
楽観視ではないかと不安を覚え、ティウは紫瞳を確かめるように手をあてた。
一方、カナルは意味がわからずにキョトンとする。
「瞳の色?」
問い返されてティウが躊躇した瞬間、ゴウッと音をたてて風がうずまいた。
野原をかきまわす暴風は、結界に吸い寄せられるように走る。だが、その結界に弾き飛ばされ、風はなお立ち向かおうとして乱気流が生じた。結界の中でも風が荒れ狂い、膨れあがろうとしている。
大気に、耳鳴りのような高い音が響いた。
結界の壁が、奇妙にねじれる。
夢中でエルハを見ていたタオが、異変を目の当たりにして尻餅をついた。
「せ、先生――っ、ヤバイよお!」
生徒に呼ばれたカナルは、すばやく札を取りだしてかざした。




