未知のエリア! 第五節
「びっくりしたあ……。なに? 今の効果音」
「衝突音だ」
礼佳が海図机に置いたままにした懐中電灯をつかみ、有馬は窓に近づいた。
「こっちから聞こえました」
礼佳に示された左舷へ、有馬は電灯の光を走らせた。どうにか甲板を照らすことができるまでに、霧の濃度は減っている。文綾丸の高い乾舷の横に、転覆した小型船の腹が見えた。
「カッターか? ……木造の漕ぎ船だと?」
「帆もありますね。これはまたレトロな。クリンカー・ビルトですよ」
有馬が光を当てている小型船を双眼鏡で見て、礼佳が言った。
ゴムボートがしぼんだまま文綾丸から落ちたのかと有馬が思ったものは、くすんだ色の帆布だった。
小型船には折れた帆柱、樽らしき容器、数本の櫂がまだ綱で結ばれ、水面を漂っていた。
「渦竜島の自家用船に、あんなものがあるのか」
「沖縄や九州へ出かけるはずですから、エンジン付が普通でしょう。手製の釣り船?」
「それにしては大きい。あのオールは両手漕ぎだ。……船体からみて、二〇人漕ぎというところか」
木造の小型船がひっくりかえっているのは、文綾丸と衝突したせいではなさそうだった。
文綾丸前甲板との比較で、小型船の塗装されていない船体は喫水線長が一五メートル、全幅が三メートルはあった。それだけの大きさのものが既にほぼ水没してしまっている。浸水は数十分前から始まっており、今は木の浮力分だけが水面の上にあるといった状態だった。
「観光客用のアトラクションで、島の有志がつくった。推理その一」
「太鼓でも積んできたか? 送迎のボートが別に来ると思うが……帰りはダイビング屋に送ってもらうと、志賀松が言っていたな」
「偏執長、水には浮くけど……。いくらオットセイ体型でも、あの大波じゃ……人間がいませんね。流されたのか」
左舷ウィング部へ移動すると、前甲板の乾舷にさえぎられず小型船を見ることができた。
船体に工業製品としての合成樹脂は、まったく使われていない。日曜大工的な工作精度の金属部品や、化学繊維の索具といったものも見あたらなかった。舵には銅か銅合金らしい板が張られているが、ほぼ完全に木製の船だった。
「完全ハンドメイドっぽい。こだわりの島の有志がつくった」
衝突の反動で文綾丸から離れてゆく小型船を、双眼鏡で追っている礼佳がつぶやいた。
「あれを手づくりとなると、腕利きの船大工が必要だろうな。素人が見てくれだけ再現したものではなさそうだ」
「そうですね、本体は壊れてないし。あのボートが転覆したのは、さっきのウォータースライダーのせいでしょう」
「そうだと思う。しかし、この船のほうが大きく波に流されているはずだ。水を呑んで転覆した状態になれば、小さな船でも、まだ正常に浮いているこちらより急激に減速する」
「あのボートは〝爆心地〟にはいなかった、と?」
有馬は数十分前に見た、巨大な光球と、それが消えると同時になぜか空中に浮きあがっていた水塊を思いかえした。
「水もろとも浮いた範囲には、いなかっただろう。転覆して文綾丸と並走はできない。同じ速度で、同じ方向へ動くことは無理だ」
船舷を見やすいようにか床の近くまでガラス窓になっているウィングの縁に、礼佳は思案する表情でしゃがみこんだ。
「あれは最初、ハチソン効果の外側にいて、まわりに崩れ落ちた水が広がったせいで呑みこまれた。転覆して漂っていたところを流されてきた文綾丸とぶつかった」
妥当になった礼佳の推理に、有馬は同意のうなづきを返した。
「文綾丸は、さっき何秒も落下していましたね」
「はっきりと下降を感じたのは、四秒か五秒だった」
「ウォータースライダーと違って、摩擦で減速はしませんから自由落下と同じでしょう」
礼佳は立ちあがると、スカートのポケットから硬貨を出した。そして頭の上にあげた手から、一枚だけ十円硬貨を落とした。
「いつの間にか、わたしたちは海面から一〇〇メートルも上昇していた」
「そうだ。上への強い加速は感じなかった。光に包まれていた時間も数秒だ。ゆっくりと上昇している暇はない。我々の意識が、タイムスリップしたとでもいうのでなければな」
もう一枚、礼佳は硬貨を落とした。
軽い一円硬貨は、音もなく絨毯に落ちた。それは変哲もない地球の自然現象に見えた。
「あるいは高低差が生じるようなテレポートをしたのでなければ……ここが、もし別の天体なら、ものすごい運動力が移動した瞬間にかかるはずでしょう。自転も公転方向も、恒星系が動いてる方向も、地球とは違うところに出るんだから」
「ああ、そのはずだ。移動先が火星でも、この船は大陸間弾道弾のような勢いで地表にぶつかるだろう。――そこも不可解だ」
「一つわかったことは、重力はほぼ一G」
礼佳は九ミリパラベラムの弾頭重量に近い重さの、五百円硬貨を放った。小さな金属円盤は見慣れた放物線を描き、数メートル離れた床に落ちた。
「渦竜島のアトラクション・ボートじゃなく、こちら側でまきこまれた船だとすると……推理その二、ここは一九世紀。あれは捕鯨船の搭載艇」
「その推理には無理がある」
「見た感じは、そこそこ似てるんですが」
「一九世紀の捕鯨ボートにか?」
「ええ、帆船模型の」
「帆船模型か」
「木のプラモ。一九世紀の捕鯨ボートを忠実に再現した組立てキットが、なんと二万円から」
「いや、帆船模型は知っている。タイムスリップ説主張の理由は?」
「海もボートも、地球のものにクリソツだから。あのボートを火星人やプレデ○ーがつくったとは思えません。重力が一G、気圧も船内とほぼ同じなら、ここは地球だと考えるのは妥当です」
船尾へ流れる霧を透過して、外光が海面をきらめかせた。有馬は後ろをふりかえり、西側の窓を確認した。あの怪奇な、暗雲に隠れた輝く球体が気になった。
文綾丸の後方に、あの光球があらわれた〝爆心地〟は、まだ見えなかった。
「――日の光だ。やはり日没前か」
左舷ウィングの外扉からつづく後部通路は、明るくなり始めていた。操舵室中央の灯光よりも、後ろ側の窓からさしこむ外光のほうが強くなっている。三〇メートルむこうの右舷ウィング内にも、夕日の赤燈色が届き、闇に沈んでいた細部を浮かびあがらせた。
有馬はウィングの操縦装置にあった、汽笛のボタンを押した。霧が晴れ、まわりから視認できる状態になるならば、積極的に存在を知らせても不利ではないという判断だった。文綾丸が前進しているのか後進しているのかわからないため、短音を四~五回、適当に鳴らした。
「むしろ、どうしてここが別の星だと思うんですか?」
「タイムスリップとテレポートが同時に発生したとするよりは、不自然さが少ないからだ。超自然さと言うべきか」
礼佳の問いに、有馬は後方を向いたまま答えた。
「地球は一つしかないし、過去の地球は存在しない。しかし宇宙には無数の星がある。距離を無視すれば、無限にあるといってよかろう。この銀河系だけでも、恒星が二〇〇〇億もあるそうだ」
「むう……、地球とそっくりの回転や宇宙飛行をしてる星は、この宇宙のどこかには無限に高い確率で存在する。だから距離無限のテレポートを認めれば、タイムスリップは必要ないし、慣性にブチのめされることもないというわけですか」
「そんなところだ」
ここがまったく未知の天体だという仮説は受け入れがたいのか、礼佳は「む~~~ん」と唸った。
転覆している小型船をつくった者は、一九世紀の地球人であると考えたい礼佳の心情は、わからなくもなかった。
いくらかなりとも文明を有しているらしい『原住生物』が、歴史的モルモットとして研究されている過去の蛮族ならば、こちらは未来の知識を用いて、たやすく有利な立場を得られるだろう。
「推理その三。我々はテレポートをしていない。文綾丸はドラゴン・トライアングル名物の、時間停滞フィールドにさっきまで囚われていた……、……ん~~、……マンゲツ」
「なに?」
「あそこ……満月。ちょっと模様が違うような気がするけど、それはきっと緯度のせい」
礼佳が指で、前方の窓の外を示した。水平に近い角度だった。
ブリッジの前方には晴れた空が戻っていた。燃える暗雲から噴き出した汐霧が拡散した範囲を、文綾丸が抜けたのだ。
夕闇のなかに影が見えていた渦竜島はない。
水平線の少し上に、赤く小さな満月が浮かんでいた。
舞台の時刻設定から「それはきっと異星のもぽではない」は、断腸の思いで割愛した