オウイエ! アトミックボぉんぉぉぉぉム!
直径数百メートルか、数千メートルにも膨れあがった光球は、核爆発の第一段階を連想させた。原子核からちぎれ飛んだエネルギーや、それに加熱された物質がプラズマ化して瞬時に形成される、輝く球体の破壊領域だ。
小型の豪華客船 文綾丸の船尾ラウンジを強烈な閃光がおおったのは、彼が光球を視界の端に捉え、目の前にいた遮蔽材をつかみよせ、座席のあいだへ飛びこんだ直後だった。
瞼と手で、つまり数センチメートルの厚さしかない骨肉で防護はしてみたが、まばゆい万色の光は眼球内を荒れ狂った。
核爆弾の破壊力は絶大で、原子が励起されているのであろう爆心域でそのエネルギーを喰らえば、あらゆる生物は確実に死ぬ。反射的に防御行動をとった彼にも、それはわかっていた。
文綾丸の六階船尾ラウンジは展望のために、外壁面の多くが窓になっている。窓の素材がガラスであれアクリルであれ、ガンマ線などの電磁波を遮蔽することはできない。この船室は数万レムか数十万レムか、どれほどにせよ致死的な放射線を浴びているだろう。
一秒か二秒後に光が消失し、暗黒に包まれ、彼は眼球や視神経が焼け切れたのだと感じた。
核爆発の熱線は、文綾丸の外面を数秒で三〇〇〇℃か四〇〇〇℃にも加熱する。内部は熱線が多少はさえぎられるものの、この船尾ラウンジは生物を焦がすには充分な温度になる。
浮遊感と横方向への強い加速に体を揺さぶられ、とっさに彼は固定されているソファをつかんだ。メガトン級の爆発は、〇.〇一六メガトンの重量しかない文綾丸を、海水もろとも吹き飛ばすことができる。
閃光は音もなく広がったが、文綾丸に加わった運動力がラウンジに騒音と悲鳴をおこした。
多数の陶器、ガラス、プラスチックの破砕音。より柔軟な肉体や布製品の衝突音。女の絶叫といった音が、まわりの暗黒にひびいた。これらは文綾丸が、超音速の衝撃波で宙を舞っているならば聞こえるはずがない音だった。
一メートル平方あたり何百トンにもなる圧力は窓を木っ端微塵に破壊し、さらにラウンジ内のなにもかもを一掃するからだ。文綾丸が核爆発の火球に触れるほどの近距離にいたならば、既に自分たちはバラバラになって、何キロメートルかむこうを涅槃気分で吹っ飛んでいるだろう。
着水したらしい轟音を聞き、瞼のむこうに光が戻っていることを知覚した彼は、まだ存在している手を動かし降ってきたボストンバッグを打ち払った。
開けた目には残像現象で、チラつく多色の光が輝いていた。まぶしいほどの残像ごしに見た手は、焼け焦げていない。横から吹きこんでくる水でワイシャツの袖がズブ濡れになっていた。
破損した窓の外には、青緑色の海水が大量に動いていた。ラウンジの喧騒を、なだれ落ちる海水の低い轟きが圧した。
爆風に巻きあげられた濁った水ではない。ほぼ澄んだ状態の水塊が、文綾丸の下方へ崩れ落ちてゆく。
肩にソファの金具が強く押し当たり、彼は遮蔽材にしていた洞院 礼佳の腰から片腕を離し、上半身を起こした。
文綾丸は船首方向へ、巨大な波を下るように突っ走っている。その加速が、彼と礼佳をソファの脚部分に押しつけたのだった。
文綾丸の下降を感じながら、「これは核爆発ではない」と彼は気づいていた。
まだ中性子線やガンマ線で即死したり、熱線で黒焦げになったり、爆風で粉々になったりしていないことから、それは確かだ。
船体が前後に大きく揺れ、下降感が消え、ふたたび船首側のソファに彼らは押しつけられた。文綾丸が減速し、船首方向への慣性が体に残ったのだ。その船の動きは、速度がより遅い、下方にある水塊へ突っこんだせいであるように感じられた。
海水が窓の下に去り、水平線が見えた。
水平線が見えるということは、船が海面に開いた大穴へ落ちたわけではないことを意味していた。むしろ文綾丸は数秒前から、いかなる理由でかはわからないが空中にいたのではないかと思われた。未知の現象が作用して、瞬間移動したかのように文綾丸は高所へ浮き、暗黒が消失すると同時に大量の海水ごと、そこからなだれ落ちているように体感された。
床が右舷側へかなり傾き、そちら側の窓に激しく波打つ水面が近づいた。
窓から吹きつける水は、ラウンジのすぐ外では高速で後ろに流れていた。それは一〇〇メートル以上前方の、文綾丸の舳が切る水のしぶきだった。文綾丸は運動力の大半を、まっすぐ前方へ向けている。
横波をしのいだのか、床が左舷側へ大きく戻った。
船のなにかを破壊する音とともに、ひときわ大量の砕け波が飛びすぎていったが、急激な転覆の可能性は低そうだった。
疾走する船の外、燃える黒煙が噴きあがる低い空に、ありえない月が見えた。行動を急がねばならないと知った彼は、どうにか揺れが収まり始めたラウンジに礼佳を押しのけて立ちあがった。
ヘッドウェイ 六ノットで渦竜島の沖を遊覧していた文綾丸が停止したのは、不自然な落下から約二〇〇秒後のことだった。
船の停止を待たず、浅く水が溜まったラウンジを彼は大股に歩き、テーブルにベルトで引っかかっていた自分のドラムバッグを回収した。渦竜島で下船する準備は終わっていたため、自分の持ち物はこれに総て入っている。
船は停電したらしく照明が消えているが、行動に支障はなかった。あの光球が出現する前よりも、空は明るくなっている。長くはない亜熱帯の黄昏が、時を巻き戻したかのように消えていた。
南海の離島、渦竜島には住人が生活に使う、小型船のための港はあるとのことだった。しかし人口数百人のこの島に、大型船を受け入れられる港湾施設はない。上陸したい大型船の乗客は、島から迎えにくる渡し船を、沖で待つという段取りになっていた。
ラウンジで茶を飲んでいた客やプロムナードデッキに出ていた見物人は、多くがこの渡し船を待つ上陸予定者だった。
見たところ、ここに生存者は自分と礼佳しかいなかった。
半円形の広いラウンジにいた大多数の乗員・乗客は、どこかへ消え去ってしまっていた。破れた窓から、海へ投げ出されるところは見ていない。電気照明ではなく外光による明るさが戻ったときには、彼らはラウンジから姿を消していた。
まわりを闇がおおっていた時間は、ほんの数秒だった。視界が光から闇に変わった時点では確かにいた四〇人ほどの人間は、その数秒のあいだに暗黒へ溶けたかのごとく消えてしまった。半径おおよそ一〇メートルの室内には、散らかった物品と、少数の異様な死骸しか残っていない。
座席やカウンターのあいだに倒れこんでいる数体は、打ちつけられたゼラチン料理のごときものと化していた。融け崩れて変形し、着衣と絡まり調度類にへばりついている。
ガラスが砕けた窓辺には、なくなった壁掛けシャンデリアの替わりに人間の左半身が付着していた。壁にめりこんでしまったように見えている右半身と頭が、実際にはどうなったのかは判然としなかった。壁にも、残された人体にも、衝突による激しい損壊は見あたらなかった。
「か……核ミサイル……? 北の将軍が狂った?」
腰までめくれあがったスカートを整えながらつぶやく礼佳の声が、静まった室内で彼の耳に届いた。
バッグを肩に担いで戻ると、水浸しのラウンジを見まわし驚愕していた礼佳も、あわてて自分の荷物を探した。
どうなったかわからない探し物につきあっている時間はなかった。急いで外気から退避せねばならない。
彼は通りすがりに拾った誰かの旅行鞄を、立ちあがった礼佳に持たせた。
「だ――誰の? わたしのケースじゃありませんけど」
息を止めている彼は無言で、水平線からさほど離れていない高さにある月を、指で示した。それから礼佳の反応を待たず、彼女の腕をつかみ船内奥側の通路へ向かった。
窓辺を凝視したまま、なかば引きずられている礼佳が、うわずった声で「エルドリッジ……!」と小さく叫んだ。