2月○日 臨月
もうすぐ卒業式だ。3年生はもう、ほとんど学校にも出ていない。
「ひっひっふ~~」
私はたまに、聖君とラマーズ法を家で練習している。大学も春休みだから、聖君がバイトに出る時間までは、2人で過ごせるのが嬉しい。
「聖君。ちょっとトイレに行ってくる」
「え?また?」
すたこら。大きなお腹を支えながらトイレに入った。
そうなんだよね。なんだかお腹のふくらみが下に来てて、多分、膀胱を圧迫してトイレが近いと思うんだよね。
「ふ~~」
ほんと、お腹が重くて歩くのも大変…。
私がよたよたとリビングに戻ると、チャイムが鳴った。
「こんにちは」
エステのお客様が来た。
「あ、いらっしゃい。どうぞ、どうぞ」
母が和室に案内した。
「桃子ちゃん、お腹、大きくなったわね。もう臨月?」
「はい。10か月に入りました」
「楽しみねえ。あら。今日は旦那さんもいるの?」
「大学、もう春休みなんです。あとでコーヒーでも入れましょうか?」
「まあ、ありがとう。おほほほ」
聖君は、エステのお客様にも大人気。たまに休みで家にいる時、聖君はコーヒーを入れてあげたりしている。それも、ちゃんと豆から挽いた本格的なのを。
「は~~~」
息を吐きながら、ソファーに座った。
「大丈夫?」
「うん。でも、卒業式出れるかな」
「…無理はしないんだよ?」
「うん」
だけど、出たい。ちゃんと卒業式で卒業証書をもらいたいよ。
「そういえば、小百合ちゃんはどうしてるの?」
コーヒー豆を挽きながら、聖君は聞いてきた。
「メールが来たけど、まだまだ生まれそうもないって。でも、私と同じで、お腹大きくて大変みたい」
「そうなんだ。卒業式は?」
「うん。出れるって」
「そっか。よかったね」
「うん」
「桃子ちゃんも何か飲む?」
「トイレにまた行きたくなるからいい」
本当に大変だ。妊婦って。最近腰も痛い時があるし、寝てて足がつった時もあった。あの時は聖君が優しく、足をさすってくれたっけ。
私、絶対に聖君がそばにいてくれなかったら、乗り越えられなかったんじゃないかなって思っちゃうよ。
お腹がここまで大きいと、車に乗るのも大変で、しばらく、れいんどろっぷすにも行ってない。クリスマスの日以来、桐太にも会ってないし、麦さんは一回お店の手伝いに来てて会ったけど、それっきりだな。
検診の日には、聖君はいつもついてきてくれている。エコーで見る凪の写真は、もう骨格もしっかりあって、聖君はそれを見て感動していた。
そして、聖君は必ずその写真を、れいんどろっぷすに持って行く。杏樹ちゃんも、聖君のご両親も、すごく喜んで見ているらしい。
「凪、どっちかな」
「う~~ん。男の子か、女の子か、わかんないみたいだよね」
エコーで見ても、わかっていない。
「生まれてからの、お楽しみだね」
「うん」
「あ~~。もうすぐ会えるね!凪」
聖君が私のお腹に顔を近づけ、そう言った。
聖君は大学が休みになってから、ほとんどバイトの時間までうちにいることが多い。友達とどこかに行くとか、買い物に行くとかすればいいのになって思うんだけど、一時でも離れるのが嫌みたいだ。
私とではなくて、凪と…。
あ~~。生まれたら、どんなになっちゃうのかな。もし女の子だったら、完全に私をそっちのけにして、凪ばかりをかわいがりそうだ。
凪への日記は3冊。ほとんど毎日のように聖君は、早く凪に会いたいよって書いてある。
生まれたら、海に行こう。水族館に行こう。動物園に行こう。いつか、海に潜りに行こう。
そんなことがいっぱい、書いてある。
最初の頃は、パパはママと仲良しなんだとか、今日もデートをしたよとか、そんな内容だった。でも、いつごろからかな。凪に当てた、ラブレターのようになっちゃっている。
う。ちょっと妬ける。私なんて、最近、メールもくれなくなったのに。
あ、そんなこともないか。バイトに行ってると、帰る前に、
>これから帰るね。桃子ちゃん、体の具合は大丈夫?
というメールを毎日のようにくれてたっけ。でも、それだけで、特にラブラブなメールってわけじゃないし。
私はたまに、ハートをつけてみたり、たま~~にだけど、会いたいとか、早く帰って来てねとか、寂しいとか、メールをするんだけど、聖君、仕事終わるまでメールしてくれないし、来ても、
>早めに帰るね。
だけなんだもん。
もしかして、前に蘭と菜摘が言ってた、倦怠期っていうやつかしら。
お風呂に入っても、聖君はお腹に触って凪に話しかけてばかりいる。
私って、もうあきられちゃってるの?
し~~~ん。お風呂から出て、部屋に行き、私は黙ってベッドに座っていた。聖君はるんるんで、凪に日記を書いている。
私が、暗いのにも気づいてくれない。お風呂でも、私、ほとんど話さなかったのにな。
「桃子ちゃん」
「…え?」
「父さんと母さんが、会いたがってたよ」
「…そう」
「杏樹も、いろいろと桃子ちゃんと話がしたいとか、ひまわりちゃんにも会いたがってた」
「ひまわりとも、杏樹ちゃん、全然会ってないもんね」
「生まれる前に、こっちに遊びに来たいって言ってたけど」
「杏樹ちゃんが?」
「母さんも父さんも」
「…うん。いいよ。お母さんもひまわりも喜ぶんじゃないかな」
「桃子ちゃんは?」
「私?うん。もちろん、嬉しいけど」
「そう?」
聖君はちらっと私を見ると、また凪に日記を書きだした。そんなに、いったい何を書くことがあるんだろうって、のぞいてみたら、イラストを描いているようだった。
「そう言えば、今日の歌番組見た?」
「見たよ。花ちゃんから、メール来たもん」
「藤也、とうとうテレビに出だしたね」
「うん」
「テレビで見ると、ちょっと雰囲気変わるね」
「すごくかっこよかった」
「え?」
「藤也君、かっこよかったよね」
「…」
聖君は顔をあげ、私をじっと見ている。
「な、なあに?」
「藤也にまさか、惚れた?」
「え?私が?まさか」
「だよね。ちょっと今、びびった」
え~~?なんで?
「桃子ちゃんが俺以外の男、褒めたことってないし」
え~~?そうだったっけ?
「私、藤也君もだけど、桐太もかっこいいと思うし、基樹君や、葉君だって、素敵な人たちだなって思ってるよ」
「ふ、ふうん」
聖君はちょっと引きつって笑ってから、また日記に絵を描きだした。
「それに、先生も」
「先生って?」
「新任の先生。前の体育の先生がいきなり、田舎に帰っちゃって、新しく入ってきた先生がいるの」
「男?」
聖君が顔をあげた。
「うん。若い先生。確か24だっけな」
「…か、かっこいいやつなの?」
「うん。すごくモテてる」
「桃子ちゃんもかっこいいって思うの?」
ううん。聖君のほうが全然かっこいい。っていつもなら言ってるけど、最近、凪にしか興味を持ってくれないし、ちょこっと意地悪してもいいかな。
「かっこいいって思うよ」
「………」
聖君がペンを置いて、私の隣に座ってきた。
「えっと。一応言っておくけど、桃子ちゃんは人妻なんだからね?」
「うん。それが?」
「それがって、だから、そんな若い男の先生が来たって、かっこいいなんて思ってたら駄目なんだからね?」
「なんで?」
「……も、桃子ちゃん?」
聖君の顔が引きつってる。
「それにね、優しかったよ。体育の時間に小百合ちゃんと見学してたら、椅子やひざ掛けを持ってきてくれたんだ」
「え?」
「体育館は冷えるから、お腹冷やさないようにって」
「……」
「それにね、体育履きのひもがほどけちゃって、それを結びなおしてくれたんだよね。なかなか、そんなことまでしてくれないよね?」
「え?」
聖君、顔、青くなった。
「…そんなことまで、してくれるの?」
「うん。だって、絶対にしゃがめないし、靴ひもなんて一人で結べないし」
「…だよね。そりゃそうだ。うん」
聖君はそう言ってから、下を向いた。
「…それで、桃子ちゃん、優しいって喜んでたの?」
聖君の声、ちょっと怖いかも。
「小百合ちゃんと、優しい先生だねって言ってたけど」
「そ、そうなんだ。小百合ちゃんまでが」
「うん」
「……」
聖君はしばらく黙り込んだ。
それから、おもむろに私を見ると、
「浮気は絶対に、駄目だからね!桃子ちゃん」
とすごく真剣な目で訴えてきた。
「浮気?」
何言ってるの?かっこいいって言っただけじゃん。
「っていうか、っていうかさ。え?なんで?いつもなら、聖君しかかっこいい人なんていないとか、聖君だけだからね、とか、言ってるよね?なんでその先生のことは、そんなに褒めるわけ?」
「…」
ありゃ、怒りだしちゃった。ちょっと言い過ぎたかな。
「まさか、そいつに惚れたわけじゃ」
「違うよ。そんなんじゃないから」
「そ、そんなんじゃなかったら、どんな?」
「……だから、えっと」
困ったぞ。
「なに?なんで口ごもってるの?なんで?」
「だから、えっと」
「…まさか、まじで、その先生に」
「もう~~~!惚れるわけないじゃん。聖君だけだよ~~」
「…」
聖君が疑いの目で見た。
「本当に聖君だけだってば。聖君よりかっこいい人なんているわけないし」
「…本当に?」
ギュム。聖君の腕にひっついた。
「聖君、最近、凪のことばっかりで、私のことほっておくから、意地悪したくなっただけだもん」
「え?!」
「寂しかっただけだもん」
「…」
聖君が目を丸くした。それから、にへら~~って笑って、
「桃子ちゃん。かわいすぎ~~!」
と、私の髪に頬づりをして、おでこにチュってキスをした。
「もう、凪にまでやきもち妬いちゃうなんて、どんだけ、俺に惚れてるんだよ~~」
聖君はそう言って、まだにやついている。
なんだ。寂しい思いさせてごめんね、とか、これからは、もっと桃子ちゃんのことを見るようにする、とか、そういうセリフを期待したのに。
ムス…。
「あれ?なんで怒ってるの?」
「別に」
「…まだ、凪に嫉妬してるの?」
「別に~~」
「…桃子ちゃん?」
プイ。聖君と逆の方に向いた。
「あれ?怒ってるよね?」
「べ~~つ~~に~~」
「桃子ちゅわん」
聖君が後ろからそっと抱きしめてきた。
「愛してるよ」
「…」
「世界一愛してるから」
「…」
「だから、機嫌治して?」
「…」
「桃子ちゃんってば」
「…」
まだ黙って、そっぽを向いていると、聖君は私の顔を覗き込み、キスをしてきた。
「…」
うわ。長いキスだ。やばい~~。とろける~~。
「…機嫌治った?」
「もう…」
私は聖君の胸を手で軽く押して、怒ったふりをした。
でも、顔が赤くなってて、聖君には怒ってるふりをしてるのを見破られた。
チュ。また軽く聖君はキスをしてきて、
「愛してるよ」
ともう一回言った。
「私も…」
聖君の胸に顔をうずめた。
「桃子ちゃん。俺以外の男のこと、かっこいいなんてもう言わないでね?」
「妬けた?」
「思い切り」
聖君がそう言ってくれて、私は嬉しくなった。
聖君。私はなんだか、結婚してからどんどんわがままになってるのかもね。甘えん坊だし、聖君がそばにいてくれないと、寂しいし。
「聖君」
「ん?」
「大好き」
「俺も大好きだよ」
「聖君。愛してる」
「…うん。俺も愛してるよ」
ああ、聖君の胸、安心できる。
聖君にそっと抱きしめられ、私は夢心地になっていた。
もう臨月。いつ生まれてもいいような状態だ。でもまだまだ、私は凪を産む心の準備ができてなくって、新婚気分を味わっていた。
もうすぐ高校も卒業するのに、学生気分も全然抜けそうもない。こんなで、母親になれるんだろうか。
そして、2月もそろそろおしまいだ。3月に入ったら、すぐに卒業式だ。
学校とも、お別れなんだ。悲しいな。
いろんな思い出がいきなり、走馬灯のように私の頭をよぎっていった。
聖君と出会った、高校1年の夏。それからも、私の高校生活は、聖君との思い出がいっぱいつまっている。
それに、蘭や菜摘。そして妊娠しているとわかってから、いろいろと応援してくれたり、サポートしてくれたクラスメイト達。
もうすぐお別れなんだ。
しんみり。聖君は私の心の中を察したかのように、優しく髪をなでてくれる。
「聖君」
「ん?」
「卒業さみしいな」
「うん」
「でも、ちゃんと卒業できるのは、聖君のおかげだね」
「俺の?違うよ。桃子ちゃんの頑張りでしょ?」
「ううん。聖君、それに先生やクラスメイト達のおかげ」
「……みんな、応援してくれたんだもんね?」
「うん」
いろいろとあったけど、いつの間にか友達が増えていって、高校3年は、貴重な1年になったな。
「卒業式、泣きそうだね?桃子ちゃん」
「うん」
「俺、ハンドタオルたくさん持って行ってあげるよ」
「え?」
「はは。なんてね」
聖君は可愛い笑顔でそう笑って、また私のおでこに優しくキスをした。
「ありがとう」
聖君の笑顔を見たら、なんだか寂しいのも消えちゃった。
聖君。卒業式見ててね。そこでいろんなことから卒業して、これからは母親になるっていう自覚、ちゃんと持つからね。
聖君の奥さんなんだっていう自覚もしっかりと、持っていくからね。
そんな決心を心の中で、私はしていたのであった。まる。