踊らされたのは
彼女はいつも俺を笑っていた。
それがどんな笑みなのか俺には分からない。ただ彼女はいつも哲学的なことを言って俺を困らせ、笑っていたのだ。
彼女は病を抱えていた。医者に言わせると、不治の病だそうだ。ただそれでも、彼女は嘆き悲しむような素振りは見せなかった。
病室のベッドに横たわり、彼女は今日も俺を笑う。
「ねえ翼、知ってる? この世には事実と理想しかないの。でもね、均等じゃないの。事実の方が優先順位が上なのよ? どんなに夢見がちな人間も事実を一番に考えている。例えばそうねえ、ある男の子がある女の子を好きだとします。その男の子は女の子に振り向いてほしいと考えるけど、自分に振り向いてくれないのを分かってる。そんな感じかしら?」
「……難しいこと言われても分かんねえよ」
彼女がどんな簡単な例え話をしても、俺は毎度のことそう答える。分かったとしても、そう答える。俺が分かったなんて言った日にゃ、彼女は「つまんないわね」と言って一日中話をしてくれないからだ。
彼女は、俺が悩むのを愉しんでいる。
彼女は昔っから病弱で、病院の外を知らない。知ってるのは調子の良い日に限って出られる病院の庭だけだ。
俺と彼女は家族絡みの付き合いで、世間でいう幼馴染ってやつだ。俺は小さい時から病院に通いつめて、彼女に花やら絵やらを贈っていた。今はもう、しないけど。
「分かんないの? ううん、そうだなあ。もっと身近な例えにしましょうか」
彼女はくつくつと笑って、俺を人差し指で指した。
「翼は私があと何日生きられると思う?」
「っおい!」
勢い余って立ち上がる俺に、彼女はまたくつくつ笑って「冗談よ」と言う。俺は彼女に振り回されてばっかりで、情けない気がした。
「でもね、きっと私明日には死ぬわ」
「な、何言ってんだよ! お前は絶対治るんだ。治って、一緒に学校行くんだよ……」
「優しいのね、翼は」
俺は彼女の手を握った。誰でもない、俺の不安を掻き消すためにだ。悔しいけど、こんなことしても彼女は至って冷静。彼女の行動に俺は喜んだり悩んだりさせられるのに。
俺は彼女のために何ができる? 何をしてやれる?
当てもなく前だけを向いて全力疾走してきたつもりだ。彼女に尽くしてきたつもりだ。
でもどうだろう、振り返った時、そこには何も残っていない。
彼女のためだと思ってしてきたことは、俺の自己満足でしかない。
何度答えを追い求めても、それに手は届かない。
俺の道に在るのは、彼女の意地悪な笑顔の残像だけだ。
「翼、私ずっとあなたを振り回してきたけど、すごく楽しかったわ」
そんなこと言うなよ、まるで“最期”みたいじゃないか。
「あなたって見ていて飽きないんだもの。おかげで長生きできた」
ならまだ俺を見てろよ。俺が困る様を見て笑ってくれよ。
俺、まだお前に言いたいこと、いっぱいあるのに――――
「今日はもう帰りなさい。おばさん心配するでしょう?」
「……じゃあ、またな」
俺の言葉に頷いてくれるだけでも良かったのに、またねって返してくれれば良かったのに。
彼女はまた意地悪く、くつくつと笑うだけだった。
☆
その翌日、彼女は亡くなった。
最期に何を言うでもなく、看護婦さえも呼ばずに、病室で一人亡くなったそうだ。
誰にも看取られず死んだあいつは、何を思っていたんだろうか。
ずっと俺を笑っていたのか、はたまた己の体を恨んだのか。
俺にはあいつの考えていることが一つも分かりゃしない。ただの一つも、分からない。
俺や自分のことをどう思っていたかも、外をどう思っていたかも。
――もし、もしも。あいつが言っていたことが本当なら。そうだとしたら、事実とか理想とかひっくるめてこの世界が一番残酷だと俺は思う。
果たして、本当に振り回されていたのは。俺か、あいつか。