夫の愛人が妊娠しました。私の子の父親も、夫とは限りません
※不倫、浮気、妊娠などの重い恋愛表現があります。苦手な方はご注意ください。
夫に愛人がいると知ったのは、結婚して五年目の冬だった。
けれど、本当はもっと前から気づいていた。
帰りが遅くなった。知らない香水の匂いがした。仕事だと言って出かけた日に、王宮では会議がなかったこともあった。
それでも私は聞かなかった。
聞けば、答えまで聞かなければならないからだ。
「ルシアン」
ある夜、夕食の席で夫を呼んだ。
「何だ?」
「ノーラ・ベルン夫人をご存じ?」
夫の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
「知っている」
「そう」
私は肉を切った。
「どのくらいのお付き合いなの?」
「エレナ」
「怒鳴りませんから」
「そういう問題じゃない」
「では、どんな問題?」
夫はしばらく黙った。
「半年だ」
「半年」
「ああ」
「月に何回?」
「そこまで聞くのか」
「知りたいから」
「知ってどうする」
私は少し笑った。
「あなたは全部知っているでしょう?」
「何を」
「いつ会って、どこで会って、何を話して、どのくらい彼女を好きなのか。知らないのは私だけです」
ルシアンは目をそらした。
それだけで分かった。
「愛しているの?」
「エレナ」
「答えて」
夫は長く息を吐いた。
「……愛している」
胸の奥が冷たくなった。
でも泣かなかった。
「そう」
「君と離婚するつもりはない」
今度は私が夫を見た。
「なぜ?」
「なぜって」
「彼女を愛しているのでしょう?」
「それとこれは別だ」
「どう違うの?」
「君は妻だ」
「知っています」
「リリアの母親でもある」
「それも知っています」
「侯爵家には君が必要だ」
私は笑ってしまった。
「便利ですものね」
「そんな言い方をするな」
「では、どう言えば?」
「俺は君も大切にしている」
「愛してはいないけれど?」
「……」
答えはなかった。
私たちは家同士が決めた結婚だった。
それでも、私はルシアンを愛していた。
たぶん夫も、最初は私を愛していたと思う。
新婚のころはよく二人で出かけた。私が風邪をひけば仕事を休もうとした。娘のリリアが生まれた日には、夫の方が先に泣いた。
だから私は、自分たちは幸せな夫婦なのだと思っていた。
いつから違ったのかは分からない。
「離婚はしません」
私が言うと、夫は少し驚いた。
「……いいのか」
「良くはありません」
「なら」
「でも、離婚したら困るでしょう」
私の父の伯爵家には借金があった。
夫との結婚で大きな支援を受け、ようやく立て直したばかりだった。
それに娘もいる。
「一つだけ約束してください」
「何だ」
「彼女をこの屋敷へ入れないで」
「ああ」
「リリアには会わせないで」
「分かった」
「それから、嘘をつかないで」
夫の眉が動いた。
「会いに行くなら、そう言ってください」
「そんなことを聞きたいのか?」
「聞きたくありません」
「なら」
「仕事だと言われて、あとから嘘だったと知る方が嫌です」
ルシアンは黙った。
「分かった」
その日から、私たちは奇妙な夫婦になった。
「今夜は帰らない」
「ノーラ様のところ?」
「ああ」
「そう」
夫はもう嘘をつかなくなった。
私は止めなかった。
最初は、その方が楽だった。
少なくとも馬鹿にはされていない気がした。
けれど、夫が愛人のところへ行く夜。
私は一人で大きな寝室にいた。
時計の音だけが聞こえる。
昔は夫と同じベッドで眠っていた。
今はルシアンは隣の部屋で寝ている。
夫が帰ってこない夜、私は眠れない。
朝方に帰宅する足音を聞く。
次の日。
「おはよう」
「おはようございます」
それだけだった。
そんな生活が一年近く続いた。
そして私はフェリクスと再会した。
兄の友人だった男だ。
昔、何度か我が家へ遊びに来たことがある。
王宮の廊下ですれ違った。
「エレナ?」
「まあ。フェリクス様」
「久しぶりだな」
「八年くらいでしょうか」
「そんなになる?」
少し話した。
次に会ったのは二週間後。
その次は一週間後。
四度目からは、たぶん偶然ではなかった。
「お茶でも飲まない?」
「わたくし、人妻ですけれど」
「知ってる」
「ではなぜ?」
「人妻はお茶を飲んではいけないのか?」
笑ってしまった。
それが始まりだった。
最初は本当に、お茶だけだった。
娘のこと。
兄のこと。
昔の話。
夫の話はしなかった。
フェリクスも聞かなかった。
ある日だけ、彼は言った。
「昔より笑わなくなったな」
その一言で泣いた。
夫の愛人を知った夜にも泣かなかったのに。
私は店の隅で泣いた。
フェリクスは何も聞かなかった。
ただ、泣き止むまでそばにいた。
その日から、会う理由が変わった。
「やめた方がいい」
最初にそう言ったのはフェリクスだった。
その日は雨が降っていた。
馬車を待つ間、誰もいない廊下で私たちは並んで立っていた。
私の指が、彼の手に触れた。
離そうと思えば離せた。
でも離さなかった。
「そうでしょうね」
「君は結婚してる」
「知っています」
「俺も」
私は顔を上げた。
「……何?」
「俺にも妻がいる」
手を離した。
「聞いていません」
「聞かれなかった」
腹が立った。
「最低」
「ああ」
「最初から言うべきでしょう」
「言ったら会ってくれなかっただろ」
「当たり前です」
「だから言えなかった」
「それを卑怯と言うんです」
「知ってる」
フェリクスは笑わなかった。
「帰るわ」
「うん」
三歩歩いた。
止まった。
「奥様を愛しているの?」
自分でも、なぜ聞いたのか分からなかった。
「分からない」
「便利な答えね」
「君は夫を愛してる?」
今度は私が答えられなかった。
「ほら」
「同じにしないで」
「同じだよ」
腹が立った。
それでも次の週、私はまた彼に会った。
最低だと思った。
彼も。
私も。
最初に口づけたのは、どちらだったのか覚えていない。
たぶん私だった。
夫が私の誕生日を忘れた夜だった。
その日は夫が帰らなかった。
「今日は何の日か知っています?」
夕方、出かけようとする夫に聞いた。
「何の日?」
本当に分かっていない顔だった。
「いいえ。何でもありません」
その夜、ノーラの誕生日を祝うために夫が出かけたと知った。
私はフェリクスへ手紙を書いた。
『今から会えますか』
返事はすぐに来た。
その夜だけのつもりだった。
でも一度だけで終わらなかった。
私は自分に言い訳をした。
夫にも愛人がいる。
だから私にも許される。
夫は私を裏切った。
だから私が何をしても同じだ。
でも、本当は違う。
私は選んだ。
誰かに傷つけられたからといって、自分も誰かを傷つけるしかなかったわけではない。
それでもやめなかった。
「愛してる」
半年ほどたったころ、フェリクスが言った。
私は答えられなかった。
「ごめんなさい」
「夫をまだ愛してる?」
「……分かりません」
「俺は?」
「好きです」
「好きか」
「はい」
「それだけ?」
何も言えなかった。
フェリクスは苦しそうに笑った。
「俺も最低だけど、君も結構ひどいな」
「知っています」
夫に知られたのは、その三か月後だった。
「フェリクス・オルトと会っているそうだな」
夕食中だった。
「はい」
「認めるのか?」
「あなたも認めましたでしょう?」
ルシアンの顔が変わった。
「俺と君は違う」
「どう違うの?」
「俺は男だ」
一瞬、意味が分からなかった。
「もう一度言ってください」
「そういう意味じゃ」
「男なら許されるという意味?」
「世間の話だ」
「世間?」
「俺に愛人がいても、家の名にはそれほど傷がつかない。でも侯爵夫人である君に男がいれば」
「なるほど」
私は笑った。
「あなたはわたくしが傷つくことより、家の名の方が大事なのね」
「違う」
「では何?」
「フェリクスと別れろ」
「嫌です」
「エレナ」
「では、ノーラ様と別れてください」
「それは」
「別の話?」
夫は黙った。
「どうしてあなたは良くて、わたくしは駄目なの?」
「妻だからだ」
「あなたも夫でしょう?」
ルシアンが机を叩いた。
「俺はお前を大切にしている!」
「どこが?」
「生活に困らせたことはない!」
「それは愛?」
「リリアの母として尊重している!」
「それは家族でしょう?」
「同じだ!」
「違います!」
初めて私も声を上げた。
「あなたはノーラ様には花を贈るでしょう?」
夫の顔が止まった。
「……何の話だ」
「白い花」
「誰に聞いた」
「知っています」
「エレナ」
「昔、わたくしには赤い花ばかりでしたね」
「何が言いたい」
「何も」
本当は、そこが一番痛かった。
他の女と寝ていることよりも。
私にしなくなったことを、彼女にはしていること。
「わたくしの誕生日は忘れました」
「それは謝った」
「ノーラ様の誕生日は忘れなかった」
「……」
「彼女の好きな花も知っている」
「やめろ」
「彼女がどんな菓子を好きかも知っている」
「やめろ!」
「わたくしの好きな物、今でも言えます?」
夫は黙った。
その沈黙だけで十分だった。
「フェリクスは知っています」
「その名前を俺の前で出すな!」
「あなたはノーラ様の名前を何度も出しました」
「同じにするな!」
「同じです!」
夫が立ち上がった。
殴られるかと思った。
でもルシアンは何もしなかった。
ただ私を見ていた。
「嫌なの?」
「当たり前だ!」
「わたくしも嫌でした」
夫は何も言えなかった。
その日から、ルシアンはノーラのもとへ行かなくなった。
少なくとも、そう見えた。
私はフェリクスと会い続けた。
「離婚する?」
彼に聞かれた。
「しません」
「どうして」
「娘がいるから」
「それだけ?」
「家もあります」
「それだけ?」
私は黙った。
「夫を失いたくないんだろ」
「違う」
「本当に?」
「違います」
「じゃあ離婚しろよ」
「簡単に言わないで!」
「俺だって簡単に待ってるわけじゃない!」
初めてフェリクスと怒鳴り合った。
「俺はいつまで君の空いてる日に会えばいいんだ?」
「あなたにも妻がいるでしょう!」
「ああ!」
「なら同じでしょう!」
「妻とはもう終わってる!」
「でも離婚していない!」
「君だって!」
言葉が止まった。
私たちはしばらく見つめ合った。
「最低ね」
「ああ」
「あなたも」
「君も」
それでも別れなかった。
フェリクスの妻が私を訪ねてきたのは、その少し後だった。
「エレナ侯爵夫人でしょうか」
「はい」
「私はアリシア・オルトです」
すぐに分かった。
フェリクスの妻。
とても普通の女性だった。
派手でもない。
冷たそうでもない。
泣きはらした目をしていた。
「夫を返してください」
最初の言葉がそれだった。
「……申し訳ありません」
「謝ってほしいわけではありません」
「では」
「別れてください」
私は答えられなかった。
「あなたには夫がいるでしょう」
「はい」
「娘も」
「はい」
「家もある」
「はい」
「でも私には、フェリクスしかいません」
「そんなこと」
「ないと言えます?」
言えなかった。
「夫が悪いのは分かっています」
アリシアは言った。
「でもあなたも悪い」
「はい」
「夫に愛人がいるから、自分もしていいと思ったの?」
私は息を止めた。
「そんなこと」
「違う?」
違うと言いたかった。
でも違わない。
「あなた、被害者みたいな顔をしている」
「……」
「私から見れば、あなたは愛人ですよ」
胸に刺さった。
ノーラ。
私はずっと、彼女を夫の愛人と呼んでいた。
でも私はフェリクスの愛人だった。
「夫と別れてください」
アリシアはもう一度言った。
「……できません」
「なぜ?」
答えが出なかった。
フェリクスを愛しているから。
そう言えなかった。
「分かりました」
彼女は立ち上がった。
「では、私も離婚しません」
「え?」
「あなたのために、どうして私が夫を手放さなければならないの」
冷たい声だった。
「夫が帰ってくる家は、私の家です」
そのまま帰っていった。
私は何も言えなかった。
その一週間後。
今度はノーラが来た。
嫌な予感がした。
「奥様」
彼女は青い顔をしていた。
「どうぞ」
「……子どもができました」
分かっていたはずなのに、頭が真っ白になった。
「ルシアン様の子です」
「そう」
それしか言えなかった。
「奥様は」
ノーラの声が震える。
「怒らないのですか?」
「怒っています」
「見えません」
「怒りすぎると、何も出てこなくなるものです」
彼女は泣いた。
「私は、あの人の子を産みたい」
「産めばいいと思います」
「いいのですか?」
「子どもに罪はありません」
「では、離婚してくださいますか」
初めてノーラの目をまっすぐ見た。
「それはしません」
「どうして!」
「したくないからです」
「あなたには別の男がいるでしょう!」
私は驚いた。
「ご存じなのね」
「ルシアン様から聞きました」
夫は話したのだ。
私のことを。
「なら、なぜ夫に聞かないの?」
「何を?」
「わたくしと離婚したら、あなたと結婚するのか」
ノーラの顔が止まった。
「……」
「聞いていないのね」
「当然でしょう」
「どうして?」
「だって」
声が小さくなった。
「聞いて、嫌だと言われたら」
それ以上は言えなかった。
私は少しだけ彼女がかわいそうになった。
「わたくしも同じです」
「何が?」
「全部捨ててフェリクスを選んで、それでも彼とうまくいかなかったらと思うと怖い」
ノーラは黙った。
「あなたも怖いのでしょう?」
彼女は泣きながら頷いた。
変なものだった。
夫を取り合っている二人なのに。
その瞬間だけは、よく分かった。
「産みます」
「はい」
「この子は、あの人の子です」
「はい」
「認めてもらいます」
「当然です」
「奥様」
「何でしょう」
「あなたが嫌いです」
私は少し笑った。
「わたくしも、あなたが嫌いです」
それでもお茶だけは飲んだ。
問題は、それで終わらなかった。
二か月後。
私も妊娠していることが分かった。
医師から告げられた瞬間、何も聞こえなくなった。
「奥様?」
「……はい」
「二か月ほどでしょう」
二か月。
頭の中で日を数えた。
そのころ。
夫とも関係を持っていた。
フェリクスとも。
夫と大げんかした夜。
ルシアンは私の部屋へ来た。
泣いていた私を抱いた。
私は拒まなかった。
次の日。
夫は何もなかったように仕事へ行った。
私は自分が嫌になった。
その夜、フェリクスに会った。
だから。
分からない。
どちらの子か。
「子どもができた」
夫に言うと、ルシアンの顔が明るくなった。
「本当か?」
「はい」
「俺たちの?」
その一言で胸が痛んだ。
「……分かりません」
夫の笑顔が消えた。
「何?」
「時期が」
「エレナ」
「あなたかもしれない。フェリクスかもしれない」
ルシアンは何も言わなかった。
顔が白くなった。
「いつ」
「あなたと関係を持った翌日、彼にも会いました」
「翌日?」
「はい」
「……」
「ごめんなさい」
夫は立ち上がった。
部屋を出ていった。
その夜は帰ってこなかった。
ノーラのところへ行ったのかと思った。
でも違った。
朝まで酒場にいたらしい。
三日間、夫とは話さなかった。
四日目。
「産むのか」
「はい」
「フェリクスには?」
「まだ言っていません」
「言うな」
私は顔を上げた。
「なぜ?」
「俺の子だ」
「分からないでしょう」
「俺の子だ」
「ルシアン」
「調べる必要もない」
「でも」
「俺の妻が産む。俺の家で育つ。なら俺の子だ」
それが愛なのか。
意地なのか。
家の名を守るためなのか。
私には分からなかった。
「ノーラ様の子は?」
夫の顔が固くなった。
「認知する」
「結婚は?」
「しない」
やはり。
「彼女を愛しているのでしょう?」
「……分からなくなった」
「便利な言葉ですね」
「そうだな」
フェリクスにも伝えた。
「俺の子かもしれない?」
「はい」
「夫は?」
「自分の子として育てると」
フェリクスは長く黙った。
「じゃあ、俺は?」
またその言葉だった。
「分かりません」
「いつもそれだな」
「ごめんなさい」
「もし俺の子だったら?」
「……」
「俺に父親になる権利は?」
「分かりません」
「エレナ」
「だって、本当に分からないの!」
泣いた。
「離婚してあなたと一緒になればいいの? あなたは奥様と離婚できるの? 本当に? 子どもがあなたの子じゃなかったら? それでもわたくしと暮らせる?」
フェリクスは答えなかった。
「ほら」
「……」
「あなたも分からないでしょう?」
「そうだな」
彼は笑った。
とても疲れた顔だった。
「俺たち、何してるんだろうな」
「知りません」
「俺も」
それが、私たちが最後に二人きりで会った日になった。
ノーラは男の子を産んだ。
夫は認知した。
名前も与えた。
ただし、ノーラとは結婚しなかった。
彼女は王都を離れた。
「もう待てません」
最後にそう言ったらしい。
ルシアンは止めなかった。
私は女の子を産んだ。
夫は泣いた。
最初の娘が生まれた日と同じように。
「名前は?」
「あなたが決める?」
私が聞くと、夫は首を振った。
「二人で決めよう」
その言葉だけで少し泣いた。
娘はセシリアと名づけた。
父親が誰なのかは調べなかった。
夫も言わなかった。
フェリクスも何も言ってこなかった。
その後、彼は妻との間に子どもをもうけたと聞いた。
アリシアは離婚しなかった。
年月が過ぎた。
リリアが十二歳になったころ。
夕食中、突然こう言った。
「お母様」
「何?」
「お父様と離婚しないの?」
食卓が止まった。
「どうしてそんなことを聞くの?」
「だって仲が悪いでしょう?」
「そんなこと」
「私、知ってるよ」
ルシアンの顔が変わった。
「何を?」
「ノーラさん」
息が止まった。
「セシリアのお父様が、本当は誰か分からないことも」
「リリア!」
夫が立ち上がった。
「どうして怒るの?」
「誰に聞いた!」
「使用人は何も言ってないよ」
娘は静かだった。
「聞こえるの」
「何が?」
「夜、お父様とお母様が話してるの」
私は何も言えなかった。
「私がいるから離婚しないの?」
「違います」
「本当に?」
「ええ」
「じゃあ、私を理由にしないでね」
十二歳の娘にそう言われた。
胸が痛かった。
「私、お父様もお母様も好き。でも二人が一緒にいて苦しいなら、私のためとか言わないで」
ルシアンは座った。
「ごめん」
娘に謝った。
私も、
「ごめんなさい」
と言った。
「私にじゃなくて」
リリアは言った。
「自分たちに言えば?」
その日は誰も食事を最後まで食べられなかった。
それでも私たちは離婚しなかった。
愛しているからではない。
少なくとも、それだけではない。
家。
子ども。
領地。
家族。
長く一緒に暮らした時間。
いまさら壊すには大きすぎるものが増えすぎた。
夫にまた愛人ができたのかは知らない。
聞かなくなった。
私にはもう恋人はいない。
フェリクスとは一度だけ夜会で会った。
隣にはアリシアがいた。
二人の間には男の子がいた。
目が合った。
フェリクスは何も言わなかった。
私も会釈だけした。
帰宅してから泣いた。
なぜ泣いたのか、自分でも分からなかった。
さらに十年が過ぎた。
リリアが結婚した。
結婚式で娘は、
「生涯、あなたを愛します」
と誓った。
その言葉を聞きながら、私は隣にいるルシアンを見た。
夫も私を見ていた。
帰りの馬車。
長い沈黙のあと、夫が言った。
「俺たちも言ったな」
「何を?」
「ずっと愛するって」
「言いましたね」
「嘘だったのかな」
私は窓の外を見た。
「いいえ」
「そう?」
「そのときは本当だったのでしょう」
夫は黙った。
私も黙った。
「エレナ」
「はい」
「もし、全部やり直せるなら」
「はい」
「また俺と結婚する?」
ずいぶん残酷な質問だと思った。
二十一歳のころ。
ノーラも知らない。
フェリクスも知らない。
裏切られることも。
自分が裏切ることも。
子どもの父親が分からなくなる夜が来ることも知らない。
あのころに戻れるなら。
「分かりません」
「そうか」
「あなたは?」
ルシアンも長く考えた。
「……分からない」
私は少し笑った。
「同じですね」
「ああ」
馬車は家へ向かって進む。
「セシリアは今夜帰っています?」
「ああ。友達の家に泊まるって」
「そう」
セシリアはもう十九歳だった。
ルシアンに少し似ている。
フェリクスにも、似ているような気がする。
結局、誰も確かめなかった。
夫が本当は知りたいのかも聞いたことはない。
「調べなくてよかったの?」
初めて聞いた。
ルシアンは少し驚いた。
「何を?」
「セシリアの父親」
夫はしばらく黙った。
「知りたいと思ったことはある」
「そう」
「何度も」
「ではなぜ?」
「知ってどうする」
昔、夫に言われた言葉だった。
「もし俺の子じゃなかったら、父親をやめるのか?」
「……」
「できない」
ルシアンは窓の外を見た。
「生まれた日から俺の娘だから」
「そう」
「だから、もういい」
私は夫を見た。
この人を許したのか。
今も愛しているのか。
分からない。
たぶん夫も同じだ。
「エレナ」
「何です?」
「明日の朝、早い?」
「いいえ」
「じゃあ、一緒に朝食を食べよう」
「毎日食べていますでしょう?」
「そうだった」
少し笑った。
家へ着いた。
夫が先に馬車を降り、私へ手を差し出した。
昔からの癖だった。
私はその手を取った。
若いころの私は、愛している人と結婚すれば幸せになれると思っていた。
その後は、愛がなくなれば別れるものだと思った。
どちらも、私にはできなかった。
人は愛していても裏切る。
傷つけられても嫌いになれない。
他の誰かを好きになっても、今までの人生を全部捨てられるとは限らない。
許していない相手と朝食を食べることもある。
嫌いな相手が病気になれば心配することもある。
もう愛していないと思っていた人の手を、何十年もたったあとに自然に取ることもある。
私たちが夫婦であり続けたことが正しかったのか、今でも分からない。
たぶん死ぬまで分からない。
ただ明日の朝も、ルシアンは私より先に起きる。
そしていつものように、私の紅茶に砂糖を一つ入れる。
昔から、私がそうして飲むことを知っているから。
私はそれを飲む。
きっと何も言わずに。
私たちは、そういう夫婦になった。
大人になるにつれて、純粋な恋愛がなくなっている気がします。
高校生のころの恋愛と、今の恋愛はやっぱり違う。
なんで大人の恋愛って、こんなにグロいんでしょうね。
性のことばかり考える人もいる。浮気する人もいる。好きなだけではどうにもならないこともある。
子どものころの恋愛の方が、ずっと幸せだった気がします。
大人になった今では、恋愛一つにもいろいろ考えてしまいますね。
いつか僕も、本当に好きになれて、好きになってもらえる人に出会えるのでしょうか。
それとも、もう無理なのでしょうか。
たまに、大人になりたくなかったなと思います。




