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夫の愛人が妊娠しました。私の子の父親も、夫とは限りません

作者: みき
掲載日:2026/08/29

※不倫、浮気、妊娠などの重い恋愛表現があります。苦手な方はご注意ください。

 夫に愛人がいると知ったのは、結婚して五年目の冬だった。


 けれど、本当はもっと前から気づいていた。


 帰りが遅くなった。知らない香水の匂いがした。仕事だと言って出かけた日に、王宮では会議がなかったこともあった。


 それでも私は聞かなかった。


 聞けば、答えまで聞かなければならないからだ。


「ルシアン」


 ある夜、夕食の席で夫を呼んだ。


「何だ?」


「ノーラ・ベルン夫人をご存じ?」


 夫の手が止まった。


 ほんの一瞬だった。


「知っている」


「そう」


 私は肉を切った。


「どのくらいのお付き合いなの?」


「エレナ」


「怒鳴りませんから」


「そういう問題じゃない」


「では、どんな問題?」


 夫はしばらく黙った。


「半年だ」


「半年」


「ああ」


「月に何回?」


「そこまで聞くのか」


「知りたいから」


「知ってどうする」


 私は少し笑った。


「あなたは全部知っているでしょう?」


「何を」


「いつ会って、どこで会って、何を話して、どのくらい彼女を好きなのか。知らないのは私だけです」


 ルシアンは目をそらした。


 それだけで分かった。


「愛しているの?」


「エレナ」


「答えて」


 夫は長く息を吐いた。


「……愛している」


 胸の奥が冷たくなった。


 でも泣かなかった。


「そう」


「君と離婚するつもりはない」


 今度は私が夫を見た。


「なぜ?」


「なぜって」


「彼女を愛しているのでしょう?」


「それとこれは別だ」


「どう違うの?」


「君は妻だ」


「知っています」


「リリアの母親でもある」


「それも知っています」


「侯爵家には君が必要だ」


 私は笑ってしまった。


「便利ですものね」


「そんな言い方をするな」


「では、どう言えば?」


「俺は君も大切にしている」


「愛してはいないけれど?」


「……」


 答えはなかった。


 私たちは家同士が決めた結婚だった。


 それでも、私はルシアンを愛していた。


 たぶん夫も、最初は私を愛していたと思う。


 新婚のころはよく二人で出かけた。私が風邪をひけば仕事を休もうとした。娘のリリアが生まれた日には、夫の方が先に泣いた。


 だから私は、自分たちは幸せな夫婦なのだと思っていた。


 いつから違ったのかは分からない。


「離婚はしません」


 私が言うと、夫は少し驚いた。


「……いいのか」


「良くはありません」


「なら」


「でも、離婚したら困るでしょう」


 私の父の伯爵家には借金があった。


 夫との結婚で大きな支援を受け、ようやく立て直したばかりだった。


 それに娘もいる。


「一つだけ約束してください」


「何だ」


「彼女をこの屋敷へ入れないで」


「ああ」


「リリアには会わせないで」


「分かった」


「それから、嘘をつかないで」


 夫の眉が動いた。


「会いに行くなら、そう言ってください」


「そんなことを聞きたいのか?」


「聞きたくありません」


「なら」


「仕事だと言われて、あとから嘘だったと知る方が嫌です」


 ルシアンは黙った。


「分かった」


 その日から、私たちは奇妙な夫婦になった。


     


「今夜は帰らない」


「ノーラ様のところ?」


「ああ」


「そう」


 夫はもう嘘をつかなくなった。


 私は止めなかった。


 最初は、その方が楽だった。


 少なくとも馬鹿にはされていない気がした。


 けれど、夫が愛人のところへ行く夜。


 私は一人で大きな寝室にいた。


 時計の音だけが聞こえる。


 昔は夫と同じベッドで眠っていた。


 今はルシアンは隣の部屋で寝ている。


 夫が帰ってこない夜、私は眠れない。


 朝方に帰宅する足音を聞く。


 次の日。


「おはよう」


「おはようございます」


 それだけだった。


 そんな生活が一年近く続いた。


 そして私はフェリクスと再会した。


 兄の友人だった男だ。


 昔、何度か我が家へ遊びに来たことがある。


 王宮の廊下ですれ違った。


「エレナ?」


「まあ。フェリクス様」


「久しぶりだな」


「八年くらいでしょうか」


「そんなになる?」


 少し話した。


 次に会ったのは二週間後。


 その次は一週間後。


 四度目からは、たぶん偶然ではなかった。


「お茶でも飲まない?」


「わたくし、人妻ですけれど」


「知ってる」


「ではなぜ?」


「人妻はお茶を飲んではいけないのか?」


 笑ってしまった。


 それが始まりだった。


 最初は本当に、お茶だけだった。


 娘のこと。


 兄のこと。


 昔の話。


 夫の話はしなかった。


 フェリクスも聞かなかった。


 ある日だけ、彼は言った。


「昔より笑わなくなったな」


 その一言で泣いた。


 夫の愛人を知った夜にも泣かなかったのに。


 私は店の隅で泣いた。


 フェリクスは何も聞かなかった。


 ただ、泣き止むまでそばにいた。


 その日から、会う理由が変わった。


     


「やめた方がいい」


 最初にそう言ったのはフェリクスだった。


 その日は雨が降っていた。


 馬車を待つ間、誰もいない廊下で私たちは並んで立っていた。


 私の指が、彼の手に触れた。


 離そうと思えば離せた。


 でも離さなかった。


「そうでしょうね」


「君は結婚してる」


「知っています」


「俺も」


 私は顔を上げた。


「……何?」


「俺にも妻がいる」


 手を離した。


「聞いていません」


「聞かれなかった」


 腹が立った。


「最低」


「ああ」


「最初から言うべきでしょう」


「言ったら会ってくれなかっただろ」


「当たり前です」


「だから言えなかった」


「それを卑怯と言うんです」


「知ってる」


 フェリクスは笑わなかった。


「帰るわ」


「うん」


 三歩歩いた。


 止まった。


「奥様を愛しているの?」


 自分でも、なぜ聞いたのか分からなかった。


「分からない」


「便利な答えね」


「君は夫を愛してる?」


 今度は私が答えられなかった。


「ほら」


「同じにしないで」


「同じだよ」


 腹が立った。


 それでも次の週、私はまた彼に会った。


 最低だと思った。


 彼も。


 私も。


     


 最初に口づけたのは、どちらだったのか覚えていない。


 たぶん私だった。


 夫が私の誕生日を忘れた夜だった。


 その日は夫が帰らなかった。


「今日は何の日か知っています?」


 夕方、出かけようとする夫に聞いた。


「何の日?」


 本当に分かっていない顔だった。


「いいえ。何でもありません」


 その夜、ノーラの誕生日を祝うために夫が出かけたと知った。


 私はフェリクスへ手紙を書いた。


『今から会えますか』


 返事はすぐに来た。


 その夜だけのつもりだった。


 でも一度だけで終わらなかった。


 私は自分に言い訳をした。


 夫にも愛人がいる。


 だから私にも許される。


 夫は私を裏切った。


 だから私が何をしても同じだ。


 でも、本当は違う。


 私は選んだ。


 誰かに傷つけられたからといって、自分も誰かを傷つけるしかなかったわけではない。


 それでもやめなかった。


「愛してる」


 半年ほどたったころ、フェリクスが言った。


 私は答えられなかった。


「ごめんなさい」


「夫をまだ愛してる?」


「……分かりません」


「俺は?」


「好きです」


「好きか」


「はい」


「それだけ?」


 何も言えなかった。


 フェリクスは苦しそうに笑った。


「俺も最低だけど、君も結構ひどいな」


「知っています」


     


 夫に知られたのは、その三か月後だった。


「フェリクス・オルトと会っているそうだな」


 夕食中だった。


「はい」


「認めるのか?」


「あなたも認めましたでしょう?」


 ルシアンの顔が変わった。


「俺と君は違う」


「どう違うの?」


「俺は男だ」


 一瞬、意味が分からなかった。


「もう一度言ってください」


「そういう意味じゃ」


「男なら許されるという意味?」


「世間の話だ」


「世間?」


「俺に愛人がいても、家の名にはそれほど傷がつかない。でも侯爵夫人である君に男がいれば」


「なるほど」


 私は笑った。


「あなたはわたくしが傷つくことより、家の名の方が大事なのね」


「違う」


「では何?」


「フェリクスと別れろ」


「嫌です」


「エレナ」


「では、ノーラ様と別れてください」


「それは」


「別の話?」


 夫は黙った。


「どうしてあなたは良くて、わたくしは駄目なの?」


「妻だからだ」


「あなたも夫でしょう?」


 ルシアンが机を叩いた。


「俺はお前を大切にしている!」


「どこが?」


「生活に困らせたことはない!」


「それは愛?」


「リリアの母として尊重している!」


「それは家族でしょう?」


「同じだ!」


「違います!」


 初めて私も声を上げた。


「あなたはノーラ様には花を贈るでしょう?」


 夫の顔が止まった。


「……何の話だ」


「白い花」


「誰に聞いた」


「知っています」


「エレナ」


「昔、わたくしには赤い花ばかりでしたね」


「何が言いたい」


「何も」


 本当は、そこが一番痛かった。


 他の女と寝ていることよりも。


 私にしなくなったことを、彼女にはしていること。


「わたくしの誕生日は忘れました」


「それは謝った」


「ノーラ様の誕生日は忘れなかった」


「……」


「彼女の好きな花も知っている」


「やめろ」


「彼女がどんな菓子を好きかも知っている」


「やめろ!」


「わたくしの好きな物、今でも言えます?」


 夫は黙った。


 その沈黙だけで十分だった。


「フェリクスは知っています」


「その名前を俺の前で出すな!」


「あなたはノーラ様の名前を何度も出しました」


「同じにするな!」


「同じです!」


 夫が立ち上がった。


 殴られるかと思った。


 でもルシアンは何もしなかった。


 ただ私を見ていた。


「嫌なの?」


「当たり前だ!」


「わたくしも嫌でした」


 夫は何も言えなかった。


     


 その日から、ルシアンはノーラのもとへ行かなくなった。


 少なくとも、そう見えた。


 私はフェリクスと会い続けた。


「離婚する?」


 彼に聞かれた。


「しません」


「どうして」


「娘がいるから」


「それだけ?」


「家もあります」


「それだけ?」


 私は黙った。


「夫を失いたくないんだろ」


「違う」


「本当に?」


「違います」


「じゃあ離婚しろよ」


「簡単に言わないで!」


「俺だって簡単に待ってるわけじゃない!」


 初めてフェリクスと怒鳴り合った。


「俺はいつまで君の空いてる日に会えばいいんだ?」


「あなたにも妻がいるでしょう!」


「ああ!」


「なら同じでしょう!」


「妻とはもう終わってる!」


「でも離婚していない!」


「君だって!」


 言葉が止まった。


 私たちはしばらく見つめ合った。


「最低ね」


「ああ」


「あなたも」


「君も」


 それでも別れなかった。


     


 フェリクスの妻が私を訪ねてきたのは、その少し後だった。


「エレナ侯爵夫人でしょうか」


「はい」


「私はアリシア・オルトです」


 すぐに分かった。


 フェリクスの妻。


 とても普通の女性だった。


 派手でもない。


 冷たそうでもない。


 泣きはらした目をしていた。


「夫を返してください」


 最初の言葉がそれだった。


「……申し訳ありません」


「謝ってほしいわけではありません」


「では」


「別れてください」


 私は答えられなかった。


「あなたには夫がいるでしょう」


「はい」


「娘も」


「はい」


「家もある」


「はい」


「でも私には、フェリクスしかいません」


「そんなこと」


「ないと言えます?」


 言えなかった。


「夫が悪いのは分かっています」


 アリシアは言った。


「でもあなたも悪い」


「はい」


「夫に愛人がいるから、自分もしていいと思ったの?」


 私は息を止めた。


「そんなこと」


「違う?」


 違うと言いたかった。


 でも違わない。


「あなた、被害者みたいな顔をしている」


「……」


「私から見れば、あなたは愛人ですよ」


 胸に刺さった。


 ノーラ。


 私はずっと、彼女を夫の愛人と呼んでいた。


 でも私はフェリクスの愛人だった。


「夫と別れてください」


 アリシアはもう一度言った。


「……できません」


「なぜ?」


 答えが出なかった。


 フェリクスを愛しているから。


 そう言えなかった。


「分かりました」


 彼女は立ち上がった。


「では、私も離婚しません」


「え?」


「あなたのために、どうして私が夫を手放さなければならないの」


 冷たい声だった。


「夫が帰ってくる家は、私の家です」


 そのまま帰っていった。


 私は何も言えなかった。


     


 その一週間後。


 今度はノーラが来た。


 嫌な予感がした。


「奥様」


 彼女は青い顔をしていた。


「どうぞ」


「……子どもができました」


 分かっていたはずなのに、頭が真っ白になった。


「ルシアン様の子です」


「そう」


 それしか言えなかった。


「奥様は」


 ノーラの声が震える。


「怒らないのですか?」


「怒っています」


「見えません」


「怒りすぎると、何も出てこなくなるものです」


 彼女は泣いた。


「私は、あの人の子を産みたい」


「産めばいいと思います」


「いいのですか?」


「子どもに罪はありません」


「では、離婚してくださいますか」


 初めてノーラの目をまっすぐ見た。


「それはしません」


「どうして!」


「したくないからです」


「あなたには別の男がいるでしょう!」


 私は驚いた。


「ご存じなのね」


「ルシアン様から聞きました」


 夫は話したのだ。


 私のことを。


「なら、なぜ夫に聞かないの?」


「何を?」


「わたくしと離婚したら、あなたと結婚するのか」


 ノーラの顔が止まった。


「……」


「聞いていないのね」


「当然でしょう」


「どうして?」


「だって」


 声が小さくなった。


「聞いて、嫌だと言われたら」


 それ以上は言えなかった。


 私は少しだけ彼女がかわいそうになった。


「わたくしも同じです」


「何が?」


「全部捨ててフェリクスを選んで、それでも彼とうまくいかなかったらと思うと怖い」


 ノーラは黙った。


「あなたも怖いのでしょう?」


 彼女は泣きながら頷いた。


 変なものだった。


 夫を取り合っている二人なのに。


 その瞬間だけは、よく分かった。


「産みます」


「はい」


「この子は、あの人の子です」


「はい」


「認めてもらいます」


「当然です」


「奥様」


「何でしょう」


「あなたが嫌いです」


 私は少し笑った。


「わたくしも、あなたが嫌いです」


 それでもお茶だけは飲んだ。


     


 問題は、それで終わらなかった。


 二か月後。


 私も妊娠していることが分かった。


 医師から告げられた瞬間、何も聞こえなくなった。


「奥様?」


「……はい」


「二か月ほどでしょう」


 二か月。


 頭の中で日を数えた。


 そのころ。


 夫とも関係を持っていた。


 フェリクスとも。


 夫と大げんかした夜。


 ルシアンは私の部屋へ来た。


 泣いていた私を抱いた。


 私は拒まなかった。


 次の日。


 夫は何もなかったように仕事へ行った。


 私は自分が嫌になった。


 その夜、フェリクスに会った。


 だから。


 分からない。


 どちらの子か。


     


「子どもができた」


 夫に言うと、ルシアンの顔が明るくなった。


「本当か?」


「はい」


「俺たちの?」


 その一言で胸が痛んだ。


「……分かりません」


 夫の笑顔が消えた。


「何?」


「時期が」


「エレナ」


「あなたかもしれない。フェリクスかもしれない」


 ルシアンは何も言わなかった。


 顔が白くなった。


「いつ」


「あなたと関係を持った翌日、彼にも会いました」


「翌日?」


「はい」


「……」


「ごめんなさい」


 夫は立ち上がった。


 部屋を出ていった。


 その夜は帰ってこなかった。


 ノーラのところへ行ったのかと思った。


 でも違った。


 朝まで酒場にいたらしい。


 三日間、夫とは話さなかった。


 四日目。


「産むのか」


「はい」


「フェリクスには?」


「まだ言っていません」


「言うな」


 私は顔を上げた。


「なぜ?」


「俺の子だ」


「分からないでしょう」


「俺の子だ」


「ルシアン」


「調べる必要もない」


「でも」


「俺の妻が産む。俺の家で育つ。なら俺の子だ」


 それが愛なのか。


 意地なのか。


 家の名を守るためなのか。


 私には分からなかった。


「ノーラ様の子は?」


 夫の顔が固くなった。


「認知する」


「結婚は?」


「しない」


 やはり。


「彼女を愛しているのでしょう?」


「……分からなくなった」


「便利な言葉ですね」


「そうだな」


     


 フェリクスにも伝えた。


「俺の子かもしれない?」


「はい」


「夫は?」


「自分の子として育てると」


 フェリクスは長く黙った。


「じゃあ、俺は?」


 またその言葉だった。


「分かりません」


「いつもそれだな」


「ごめんなさい」


「もし俺の子だったら?」


「……」


「俺に父親になる権利は?」


「分かりません」


「エレナ」


「だって、本当に分からないの!」


 泣いた。


「離婚してあなたと一緒になればいいの? あなたは奥様と離婚できるの? 本当に? 子どもがあなたの子じゃなかったら? それでもわたくしと暮らせる?」


 フェリクスは答えなかった。


「ほら」


「……」


「あなたも分からないでしょう?」


「そうだな」


 彼は笑った。


 とても疲れた顔だった。


「俺たち、何してるんだろうな」


「知りません」


「俺も」


 それが、私たちが最後に二人きりで会った日になった。


     


 ノーラは男の子を産んだ。


 夫は認知した。


 名前も与えた。


 ただし、ノーラとは結婚しなかった。


 彼女は王都を離れた。


「もう待てません」


 最後にそう言ったらしい。


 ルシアンは止めなかった。


 私は女の子を産んだ。


 夫は泣いた。


 最初の娘が生まれた日と同じように。


「名前は?」


「あなたが決める?」


 私が聞くと、夫は首を振った。


「二人で決めよう」


 その言葉だけで少し泣いた。


 娘はセシリアと名づけた。


 父親が誰なのかは調べなかった。


 夫も言わなかった。


 フェリクスも何も言ってこなかった。


 その後、彼は妻との間に子どもをもうけたと聞いた。


 アリシアは離婚しなかった。


     


 年月が過ぎた。


 リリアが十二歳になったころ。


 夕食中、突然こう言った。


「お母様」


「何?」


「お父様と離婚しないの?」


 食卓が止まった。


「どうしてそんなことを聞くの?」


「だって仲が悪いでしょう?」


「そんなこと」


「私、知ってるよ」


 ルシアンの顔が変わった。


「何を?」


「ノーラさん」


 息が止まった。


「セシリアのお父様が、本当は誰か分からないことも」


「リリア!」


 夫が立ち上がった。


「どうして怒るの?」


「誰に聞いた!」


「使用人は何も言ってないよ」


 娘は静かだった。


「聞こえるの」


「何が?」


「夜、お父様とお母様が話してるの」


 私は何も言えなかった。


「私がいるから離婚しないの?」


「違います」


「本当に?」


「ええ」


「じゃあ、私を理由にしないでね」


 十二歳の娘にそう言われた。


 胸が痛かった。


「私、お父様もお母様も好き。でも二人が一緒にいて苦しいなら、私のためとか言わないで」


 ルシアンは座った。


「ごめん」


 娘に謝った。


 私も、


「ごめんなさい」


 と言った。


「私にじゃなくて」


 リリアは言った。


「自分たちに言えば?」


 その日は誰も食事を最後まで食べられなかった。


     


 それでも私たちは離婚しなかった。


 愛しているからではない。


 少なくとも、それだけではない。


 家。


 子ども。


 領地。


 家族。


 長く一緒に暮らした時間。


 いまさら壊すには大きすぎるものが増えすぎた。


 夫にまた愛人ができたのかは知らない。


 聞かなくなった。


 私にはもう恋人はいない。


 フェリクスとは一度だけ夜会で会った。


 隣にはアリシアがいた。


 二人の間には男の子がいた。


 目が合った。


 フェリクスは何も言わなかった。


 私も会釈だけした。


 帰宅してから泣いた。


 なぜ泣いたのか、自分でも分からなかった。


     


 さらに十年が過ぎた。


 リリアが結婚した。


 結婚式で娘は、


「生涯、あなたを愛します」


 と誓った。


 その言葉を聞きながら、私は隣にいるルシアンを見た。


 夫も私を見ていた。


 帰りの馬車。


 長い沈黙のあと、夫が言った。


「俺たちも言ったな」


「何を?」


「ずっと愛するって」


「言いましたね」


「嘘だったのかな」


 私は窓の外を見た。


「いいえ」


「そう?」


「そのときは本当だったのでしょう」


 夫は黙った。


 私も黙った。


「エレナ」


「はい」


「もし、全部やり直せるなら」


「はい」


「また俺と結婚する?」


 ずいぶん残酷な質問だと思った。


 二十一歳のころ。


 ノーラも知らない。


 フェリクスも知らない。


 裏切られることも。


 自分が裏切ることも。


 子どもの父親が分からなくなる夜が来ることも知らない。


 あのころに戻れるなら。


「分かりません」


「そうか」


「あなたは?」


 ルシアンも長く考えた。


「……分からない」


 私は少し笑った。


「同じですね」


「ああ」


 馬車は家へ向かって進む。


「セシリアは今夜帰っています?」


「ああ。友達の家に泊まるって」


「そう」


 セシリアはもう十九歳だった。


 ルシアンに少し似ている。


 フェリクスにも、似ているような気がする。


 結局、誰も確かめなかった。


 夫が本当は知りたいのかも聞いたことはない。


「調べなくてよかったの?」


 初めて聞いた。


 ルシアンは少し驚いた。


「何を?」


「セシリアの父親」


 夫はしばらく黙った。


「知りたいと思ったことはある」


「そう」


「何度も」


「ではなぜ?」


「知ってどうする」


 昔、夫に言われた言葉だった。


「もし俺の子じゃなかったら、父親をやめるのか?」


「……」


「できない」


 ルシアンは窓の外を見た。


「生まれた日から俺の娘だから」


「そう」


「だから、もういい」


 私は夫を見た。


 この人を許したのか。


 今も愛しているのか。


 分からない。


 たぶん夫も同じだ。


「エレナ」


「何です?」


「明日の朝、早い?」


「いいえ」


「じゃあ、一緒に朝食を食べよう」


「毎日食べていますでしょう?」


「そうだった」


 少し笑った。


 家へ着いた。


 夫が先に馬車を降り、私へ手を差し出した。


 昔からの癖だった。


 私はその手を取った。


 若いころの私は、愛している人と結婚すれば幸せになれると思っていた。


 その後は、愛がなくなれば別れるものだと思った。


 どちらも、私にはできなかった。


 人は愛していても裏切る。


 傷つけられても嫌いになれない。


 他の誰かを好きになっても、今までの人生を全部捨てられるとは限らない。


 許していない相手と朝食を食べることもある。


 嫌いな相手が病気になれば心配することもある。


 もう愛していないと思っていた人の手を、何十年もたったあとに自然に取ることもある。


 私たちが夫婦であり続けたことが正しかったのか、今でも分からない。


 たぶん死ぬまで分からない。


 ただ明日の朝も、ルシアンは私より先に起きる。


 そしていつものように、私の紅茶に砂糖を一つ入れる。


 昔から、私がそうして飲むことを知っているから。


 私はそれを飲む。


 きっと何も言わずに。


 私たちは、そういう夫婦になった。


大人になるにつれて、純粋な恋愛がなくなっている気がします。


高校生のころの恋愛と、今の恋愛はやっぱり違う。


なんで大人の恋愛って、こんなにグロいんでしょうね。


性のことばかり考える人もいる。浮気する人もいる。好きなだけではどうにもならないこともある。


子どものころの恋愛の方が、ずっと幸せだった気がします。


大人になった今では、恋愛一つにもいろいろ考えてしまいますね。


いつか僕も、本当に好きになれて、好きになってもらえる人に出会えるのでしょうか。


それとも、もう無理なのでしょうか。


たまに、大人になりたくなかったなと思います。


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