五 逃避
三千が、北へ向かった。
東胡の勢力圏を避け、月氏の草原を迂回し、誰も来ないような枯れ野を選んで歩いた。
目的地はなかった。ただ、李牧から離れた。
トゥメンは先頭を行かなかった。
誰かが先頭に立てば、それが次の単于になる。まだ、その気がなかった。あるいは、その器かどうかわからなかった。
チュルンが隣を走った。右腕は布で巻いてあった。矢は抜いたが、膿んでいた。
「腐るかもしれん」
チュルンは自分の腕を見て言った。怖がっている様子はなかった。
「腐ったら切れ」
「切ったら弓が引けない」
「生きてれば引ける」
チュルンは少し笑った。笑えるうちは大丈夫だ、とトゥメンは思った。
十日後、草原の窪地に天幕を張った。
水が出る場所があった。それだけで十分だった。
三千のうち、女子供が八百いた。戦場から逃げてきた家族たちだった。男の戦士は二千と少し。馬は一頭に一人分もなかった。矢は乏しく、食料はさらに乏しかった。
会議が開かれた。
十人ほどの部族長が集まった。皆、オルダに仕えていた男たちだった。
年嵩のテムルが言った。
「東胡に降れ」
誰かが唾を吐いた。
「降伏するくらいなら死ぬ」
「なら死ね。儂は嫌だ」
「李牧に負けた今、東胡に行かなければどこへ行く」
「月氏のところへ行くか」
「月氏も同じだ。奴隷にされる」
話が堂々巡りになった。
トゥメンは黙って聞いていた。
チュルンが小声で言った。
「お前が何か言え」
「何を」
「何でもいい。黙ってるより増しだ」
トゥメンは立ち上がった。
部族長たちが振り向いた。トゥメンを見た。若い、まだ三十にもなっていない男だった。
「東胡に降れば奴隷になる。月氏に降れば家畜になる」
「ならどうする」
「ここに残る」
「ここで何をする」
「冬を越える」
沈黙が落ちた。
「冬を越えて、春が来たら」
「狩りをする。羊を増やす。馬を増やす。子を産む」
「それだけか」
「それだけだ」
テムルが鼻で笑った。
「単于でもない若造が何を言う。オルダ様のように率いてみせろ。それから話を聞く」
トゥメンは座った。
それ以上、何も言わなかった。
冬が来た。
草原に雪が降った。最初は薄く、次第に深くなった。
食料が足りなかった。
一日一食になった。それでも足りない日が続いた。
子供が三人、死んだ。老人が五人、死んだ。
チュルンの右腕は腐り始めた。
「切れ」とトゥメンは言った。
「嫌だ」とチュルンは言った。
翌日、チュルンは熱を出して倒れた。
トゥメンは刃を火で炙り、腕を切った。チュルンは意識を失った。三日後に目を覚ました。
「腕がない」
「生きてる」
「弓が引けない」
「左手で引け」
チュルンは天幕の天井を見ていた。
「右手で引いたら誰にも負けなかったのに」
「左手で引いても、お前には負けたくない」
チュルンは笑った。痩せて、頬が落ちていた。
一月が経ち、二月が経った。
雪が深くなった。馬が三頭、凍死した。それを食べた。
テムルが言った。
「やはり東胡へ行くべきだった」
誰も答えなかった。
答える元気がなかった。
トゥメンは毎日、外に出た。
罠を仕掛け、雪の中を歩き、兎を一匹でも二匹でも獲った。
子供に食わせた。次に女に。男は最後だった。
「何故そんなことをする」
テムルが聞いた。
「強い順に食えば、軍が保てる」
「子供が死ねば次の世代がない」
テムルは黙った。
「単于でもないくせに」
「単于になる気はない」
「なぜだ」
トゥメンは答えなかった。
空を見た。
雪が降っていた。
オルダは死に際、何も言わなかった。バヤンも何も言わなかった。二人とも、言葉より行動の男だった。
自分はまだ、何も成し遂げていなかった。
三月目の終わりに、兎が一匹も獲れない日が続いた。
子供がまた死んだ。今度は四人だった。
テムルがトゥメンのところへ来た。
「春になったら、どこへ行く」
「南へ」
「李牧がいる」
「李牧はいずれ死ぬ。人間だからだ」
「それまでに我らが全滅する」
「全滅しなければいい」
テムルは老いた顔でトゥメンを見た。
「お前は単于になるべきだ」
「なぜ」
「オルダ様が死ぬ前に言っていた。トゥメンを次にせよ、と」
トゥメンは驚かなかった。
「聞いていたのか、あの言葉を」
「聞いていた」
「なぜ今まで言わなかった」
「お前が嫌がると思っていたから」
「今も嫌だ」
テムルは笑った。皺が深くなった。
「だから頼む」
春が来た。
雪が溶け、草が芽吹いた。
三千のうち、二千三百七十二が死んでいた。子供が多かった。
トゥメンは単于になった。
儀式は簡単だった。生き残った部族長たちが集まり、弓を一本ずつ折った。それをトゥメンに渡した。
トゥメンは束ねた弓を持ち、空に向けて掲げた。
「天に誓う」
声は静かだった。
「匈奴を、再び立たせる」
天狼星は昼の空にあった。見えなかった。
しかし、そこにあることをトゥメンは知っていた。
チュルンが一本腕で馬に乗り、隣に並んだ。
「で、どうする」
「増やす。まず馬を。次に人を」
「何年かかる」
「十年」
「遅い」
「急げば死ぬ。死んだら終わりだ」
チュルンは空を見た。
「李牧が来たらどうする」
「逃げる」
「また逃げるのか」
「逃げて、生きて、増やす。それしかない」
チュルンは少しの間、黙っていた。
「そういう単于か」
「そうだ」
「地味だな」
「地味でいい」
草原に風が吹いた。南から来た風だった。
遠くで、鷹が鳴いた。
トゥメンは馬を進めた。
トゥメン(頭曼)が単于に即位した経緯は史料に残っていない。李牧が紀元前二百二十九年に趙の内部抗争で処刑された後、匈奴は再び南下を始めたとされる。その時、すでにトゥメンは単于の座にあった。
レビュー、評価、感想をしてくだされば嬉しいです!!!!!




