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四 襲来

紀元前245年、モンゴル高原南部。


草原に風が吹いた。

チュルンは馬を止め、南の空を見た。

「トゥメン」

低い声で呼んだ。

「なんだ」

トゥメンは弓に矢をつがえたまま答えた。手はまだ小鹿を追っていた。

「趙の動きが、おかしい」

トゥメンは弓を下ろした。

「何が」

「国境沿いに、柵が増えた。それだけじゃない。補給の車が、いつもより多い」

チュルンは南を見続けていた。目は細い。風の読み方は、匈奴の中でも一番だった。

「李牧か」

「おそらく」

李牧。趙の将軍。

その名は、南から来る商人たちが恐れを顔に張り付けて語る名だった。百万の銭を与えても会いたくない男、と言う者もいた。

トゥメンは馬に跨った。

「バヤン将軍に知らせる」


バヤンは天幕の前で兵の訓練を見ていた。

五十を超えているはずだが、背筋は槍のように真っ直ぐだ。トゥメンは馬から降りながら、この男をいつも思う。草原で老いるとはこういうことか、と。

「チュルンが言うには、趙の補給が増えました」

トゥメンは報告した。

「単于様には」

「まだです。まずあなたに」

バヤンは黙っていた。しばらく、訓練する兵たちを見ていた。

「オルダ様に伝えろ。儂も行く」


オルダは天幕の中で食事をしていた。

羊の脚を齧りながら、トゥメンの報告を聞いた。

五十代の半ばだった。頭には白いものが混じり、顔には深い皺が刻まれていた。だが目だけは違う。黒く、鋭く、まだ若い。

「李牧か」

「可能性があります」

「可能性、か」

オルダは骨をぽいと放った。犬が飛びかかった。

「李牧は三年、匈奴に手を出さなかった」

「はい」

「なぜか、わかるか」

トゥメンは答えなかった。

バヤンが口を開いた。

「罠です。匈奴を油断させた」

「そうだ」

オルダは立ち上がった。思ったより大きな体だった。

「三年で、趙は何をしていた。兵を鍛え、糧秣を備え、戦術を練った。我らが南に慣れた頃に、来る」

「しかし」とトゥメンは言った。「我らにも準備があります。三年、あなたは――」

「足りぬ」

オルダは短く言った。

「騎兵の速さは誰にも負けない。しかし奴らは、その速さを潰す方法を考えた三年だ」

天幕が静まり返った。

「守るか、逃げるか」

チュルンが口を開いた。

「どちらもできません。守る城はなく、逃げれば東胡が待っています」

「わかっている」

オルダは天幕の外を見た。

草原が広がっていた。地平線まで。

「では、戦おう」


三月が経った。

李牧が来た。

最初は騎兵が見えた。それが大軍の前衛だとわかるまで、時間はかからなかった。その後ろに歩兵、その後ろに弩兵、さらにその後ろに補給の車列。

チュルンが言った声は静かだった。

「十万以上です」

トゥメンは数えるのをやめた。

匈奴の兵は一万五千だった。

「オルダ様」

バヤンが言った。

「わかっている」

「撤退を」

「まだだ」

オルダは馬上から動かなかった。

趙軍が展開していた。整然と、まるで城壁が歩いているように。弩兵が前に出た。その射程は、匈奴の弓より長い。それも、あの三年で研究されたことだった。

「右翼を突く」

オルダが言った。

「無理です」バヤンの声が初めて震えた。「奴らは罠を張っています。右翼の後ろに伏兵がいる」

「どこに」

「草の色が違う場所が三か所。人間が潜んでいます」

トゥメンは目を凝らした。言われれば、確かに草が不自然に揺れていた。

「では、左翼だ」

「そこも同じです」

オルダは黙った。

「正面は」

「弩兵が待っています。射程に入った瞬間に斉射される」

沈黙が落ちた。

鳥が鳴いた。草原の、のどかな声だった。

「なるほど」

オルダは静かに言った。その声に、怒りも絶望もなかった。

「完璧な包囲だ」

「はい」

「李牧という男は、本物だな」

誰も答えなかった。

トゥメンは横を見た。チュルンは馬の首を撫でていた。それだけだった。

「バヤン」

「はい」

「お前が突破口を開け。我らはその後から行く」

「私が囮ということですか」

「そうだ」

バヤンは少しの間、オルダを見た。

「わかりました」

それだけだった。長い付き合いだった。言葉はいらなかった。


バヤンの三千騎が左翼に向かった。

予想通り、伏兵が動いた。草の中から趙の騎兵が湧き出た。バヤンはそこへ突っ込んだ。散らばらず、まとまったまま。

「今だ」

オルダが叫んだ。

残りの一万二千が、右翼の間隙に向けて駆けた。

草原を蹄の音が叩いた。

しかし、趙の弩兵が向きを変えた。

速かった。信じられないほど速かった。

矢が来た。

前の三列が、馬ごと倒れた。

それでも止まらなかった。止まれば全滅だった。

矢の雨の中を、トゥメンは駆けた。右の男が落ちた。左の男が落ちた。

包囲の壁が破れた、と思った瞬間、また弩兵が現れた。

「逃げろ!」

誰かが叫んだ。

トゥメンは馬首を北に向けた。

北に、東胡がいる。

しかし南に李牧がいる。

草原のどこにも、もう逃げ場はなかった。


生き残ったのは三千だった。

オルダは死んだ。矢が三本、刺さっていた。それでもしばらく馬に乗り続けたと、後で聞いた。

バヤンも死んだ。左翼の伏兵の中で、最後まで剣を振っていたと言う者がいた。

チュルンは生きていた。右腕を矢で貫かれていたが、左手で手綱を握って逃げた。

トゥメンは傷一つなかった。

それが、なぜか一番辛かった。

草原に三千が集まった。夕暮れ時だった。空が赤かった。

誰も話さなかった。

泣く者もいなかった。

チュルンが言った。

「次の単于は、誰だ」

誰も答えなかった。

トゥメンは空を見ていた。

この空の下に、淳維が逃げてきた。

この空の下に、幾千人もの勇士が弓を引いた。

この空の下に、今日、一万二千という数が死んだ。

「トゥメン」

チュルンが呼んだ。

「今は、それどころじゃない」

トゥメンは答えた。

「まず、生き残ることを考える」

空が暗くなり始めた。

星が出た。

北の空に、北極星が輝いていた。

※ 李牧の匈奴討伐は紀元前二百四十五年頃とされ、史書には「十余万の騎兵を殲滅した」と記される。その後、李牧が健在のうち、匈奴は趙の北辺を侵さなかった。トゥメン(頭曼単于)の名が史料に現れるのは、それから三十年後のことである。

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