三 原牙
紀元前4世紀 - モンゴル高原
バータルは馬を駆っていた。
風が、頬を撫でる。
草原が、どこまでも続いている。
ここは、匈奴の土地だ。
始祖・淳維が北へ逃れてから、千年以上が経つ。
その間、匈奴は生き延びてきた。
小さな部族の集まりだったが、今は違う。
十九の部族が、バータルの下に結集している。
バータルは、単于だった。
李俊の血を引く。
父から聞いた話では、淳維に仕えた李俊が、追っ手を食い止めて死んだが、子孫が実はいた。
その血が、今も流れている。
だから、バータルは戦うことを恐れない。
「バータル様」
部下のオロンが追いついてきた。
「燕の使者が来ています」
「燕、か」
バータルは馬を止めた。
中華の七つの国の一つだ。
北の国で、匈奴と国境を接している。
「何の用だ」
「貢物を持ってきたようです」
「ほう」
バータルは微笑んだ。
燕は、匈奴を恐れている。
毎年のように、匈奴が南下して略奪する。
燕は、それを止められない。
だから、貢物を送って和平を乞う。
「会おう」
バータルは天幕に戻った。
使者は、背の低い男だった。
絹や穀物を、山のように持ってきている。
「単于様、これは燕王からの贈り物です」
男が頭を下げた。
「受け取ろう」
バータルは頷いた。
「ただし、条件がある」
「何でしょうか」
「来年は、一割増やして持ってこい」
男の顔が強ばった。
「それは...」
「嫌なら、また略奪に行くだけだ」
バータルは笑った。
男は、何も言えなかった。
「わかりました」
頭を下げて、去っていく。
オロンが言った。
「燕は、弱いですな」
「ああ。だが、それでいい」
バータルは絹を手に取った。
滑らかだ。
中華の品は、草原では作れない。
だから、奪う。
それが、匈奴の生き方だ。
数年後、趙からも使者が来た。
秦からも来た。
みな、同じだ。
貢物を持ってきて、和平を乞う。
バータルは、全て受け入れた。
そして、条件をつける。
毎年、一割増やして持ってこい、と。
中華の国々は、匈奴を恐れている。
それが、誇らしかった。
「バータル様」
ある日、オロンが血相を変えて来た。
「どうした」
「燕が、長城を築き始めたようです」
「長城?」
「匈奴の侵入を防ぐための、城壁です」
バータルは立ち上がった。
「見に行くぞ」
馬に乗る。
オロンと共に、南へ向かった。
燕の国境に着くと、そこには巨大な城壁が築かれていた。
石と土で作られた、長い壁だ。
「これは...」
バータルは、言葉を失った。
こんなものを、作るのか。
匈奴を恐れて。
「趙も秦も、築き始めたようです」
オロンが言った。
バータルは、城壁を見上げた。
高い。
馬では、越えられない。
「...そうか」
バータルは、馬を反転させた。
中華は、本気で匈奴を拒んでいる。
もう、簡単には略奪できない。
時代が、変わろうとしている。
それから十年が経った。
バータルは、五十歳になっていた。
長城は、どんどん延びていった。
燕、趙、秦。
三国とも、匈奴を締め出すために壁を築いた。
バータルは、もう南下を諦めつつあった。
代わりに、東の東胡や西の月氏と小競り合いをするようになった。
草原の中で、奪い合う。
それが、新しい生き方だった。
「バータル様」
オロンが来た。
もう白髪が目立つ。
二人とも、歳を取った。
「秦が、また強くなっているようです」
「秦、か」
「商鞅という男が、法を変えたとか」
バータルは、興味がなかった。
中華のことは、もうどうでもいい。
長城がある限り、匈奴は南下できない。
「わかった」
オロンが去る。
バータルは、天幕の外に出た。
草原を見る。
ここは、匈奴の土地だ。
しかし、狭くなっていく気がした。
東には東胡。
西には月氏。
南には長城。
匈奴は、囲まれている。
バータルは、ため息をついた。
「淳維殿よ」
始祖に語りかける。
「あなたが誓った、『いつか中華を討ち破る』は、叶うのでしょうか」
風が吹いた。
答えは、ない。
バータルは、空を見上げた。
息子に、単于の座を譲る時が来たかもしれない。
自分の代では、もう何もできない。
次の世代に、託すしかない。
バータルは、息子を呼んだ。
名は、テムル。
二十五歳になっていた。
「テムル」
「父上」
「お前に、単于の座を譲る」
テムルは、驚いた顔をした。
「まだ早いのでは」
「いや。もう、時だ」
バータルは、息子の肩に手を置いた。
「匈奴は、今、囲まれている」
「...はい」
「しかし、諦めるな」
バータルは、南を見た。
長城が、遠くに見える。
「いつか、あれを越える日が来る」
「本当に、来るでしょうか」
「来る。必ず」
バータルは、息子を見た。
「淳維殿が誓ったのだ。その血を引く我らが、諦めてどうする」
テムルが頷いた。
「...わかりました」
「よし」
バータルは微笑んだ。
自分の代は、守るだけで精一杯だった。
しかし、次の世代は違うかもしれない。
その次の世代は。
いつか、匈奴が中華を討ち破る日が来る。
バータルは、それを信じていた。
数年後、バータルは死んだ。
草原に葬られた。
テムルが、新しい単于となった。
そして、その息子、孫へと、単于の座は受け継がれていった。
長城は、そびえ立ち続けた。
しかし、匈奴も生き延び続けた。
草原で、耐え忍びながら。
そして、ある日。
トゥメンという単于が現れる。
その息子、ボグドが。
長城を越える日が、やがて来る。
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