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二 北辺

紀元前1600年 - 陽城


煙臭さで目が覚めた。

宮殿が燃えている。

夜襲か。

「淳維様、淳維様!」

扉を叩く音がする。従者の声だ。

「入れ」

朱林が飛び込んできた。顔に煤がついている。

「殷軍です。もう、城内に」

「父上は」

「わかりません」

淳維は剣を手に取った。まだ十四歳だが、一振りしか剣は持っていない。

廊下に出ると、遠くで悲鳴が聞こえる。

宮殿の柱が崩れ落ちた。

火の粉が舞っている。

「李俊はどこだ」

「厩にいるはずです」

走る。

煙で前が見えない。目が痛い。

喉も、焼けるように痛い。

「淳維よ」

老人の声がした。

煙の向こうに、一人の男が立っている。

「桀の子か」

淳維は剣を構えた。

「そうだ」

「剣を下ろせ。殺しはせん」

男が近づいてくる。

歳は六十を超えているだろうが、背筋が伸びている。

「お前が、湯か」

「そうだ」

淳維は剣を下ろさなかった。

「殺さないなら、何だ」

「北へ行け」

「は?」

「二度と中華に戻るな。それが条件だ」

淳維は唇を噛んだ。

屈辱だ。

しかし、ここで死ぬわけにはいかない。

「...わかった」

剣を下ろす。

湯が頷いた。

「賢い選択だ」

「湯」

「なんだ」

「必ず、俺の子孫がお前か、お前の子孫を殺す」

湯の目に、束の間、光が宿った。

口元が、わずかに笑っている。

「やってみろ、小僧」

淳維は踵を返した。



厩に向かう途中、宮殿の中庭で父を見つけた。

桀王が、胡座で座っている。

周りを殷の兵が囲んでいるが、手を出していない。

湯の命令だろう。

「淳維よ」

父が呼んだ。

淳維は、父の前に跪いた。

「介錯しろ」

その言葉に、淳維は顔を上げた。

「父上」

「わしは、もう終わった男だ」

父の顔を、初めてまともに見た気がした。

いつも酒に溺れ、女に溺れ、政をしなかった父。

今、その目には、何か違うものがある。

「李俊に頼め」

「ならん。淳維がやれ」

父の声が、初めて強かった。

淳維は剣を抜いた。

手が震える。

父の首を斬る。

そんなことが、果たしてできるのか。

「淳維」

「...はい」

「北へ行き、覇者になれ」

「言われなくとも」

「ならいい」

父が微笑んだ。

「湯を討て」

「御意」

淳維は剣を振り上げた。

目を瞑った。

振り下ろす。

抵抗がある。

そして、何かが地面に落ちる音。

淳維は目を開けた。

父の首が、転がっている。

体が、ゆっくりと倒れる。

血が、地面を染めていく。

淳維の手が、震えていた。

剣が、血で濡れている。

「殿下」

朱林が声をかけた。

「行きましょう」

淳維は、父の体を見た。

もう、何も言わない。

動かない。

初めて、父を殺したと実感した。

吐き気がする。

しかし、吐くものもない。

「殿下」

「...ああ」

淳維は立ち上がった。

後ろを振り返らずに、厩へ向かった。



厩には、李俊がいた。

「殿下!」

「李俊、馬を」

「もう用意してあります」

三人で馬に乗る。

李俊が先頭を走る。

宮殿の裏門から出た。

殷の兵はいない。

湯が、わざと逃がしているのだろう。

「北へ」

淳維が言った。

三人は、夜の闇を駆けた。

陽城が、背後で燃えている。

父が死んだ場所が。

淳維は、一度だけ振り返った。

炎が、空を赤く染めている。

「さらば」

小さく呟いた。

馬を走らせる。

風が、頬を叩く。

冷たいが、生きている。

淳維は、前を向いた。



三日後、黄河に着いた。

濁流が、目の前にある。

「渡れるか」

李俊が聞いた。

「渡るしかない」

淳維は馬を進めた。

水が、足に触れる。

冷たい。

馬が嫌がる。

「大丈夫だ」

撫でる。

ゆっくりと、水に入る。

流れが速い。

馬が流されそうになる。

「殿下!」

朱林が叫んだ。

淳維は必死に馬にしがみついた。

体が水に浸かる。

息ができない。

馬が必死に泳いでいる。

どれくらい経ったのか。

ようやく、対岸に這い上がった。

「ゴホッ、ゴホッ」

淳維は吐いた。

水を吐き出す。

「殿下、大丈夫ですか」

朱林が背中を叩いてくれる。

「...ああ」

李俊も、対岸に着いた。

三人とも濡れぼそっている。

「これで、中華とは縁が切れたな」

淳維は後ろを振り返った。

もう、陽城は見えない。



さらに三日が経った。

食料がない。

苦い野草を食べた。

川の水を飲み、腹を下した。

馬も、弱ってきている。

「殿下、後ろです」

李俊が振り返った。

遠くに、馬の群れが見える。

十数騎だ。

「追っ手か」

「湯の兵です」

李俊が言った。

「逃げるぞ」

馬腹を蹴った。

しかし、馬はもう走れない。

追っ手が、近づいてくる。

「殿下」

李俊が馬を止めた。

「ここは俺が」

「何を言っている」

「朱林が殿下を守ります。俺は、時間を稼ぎます」

李俊が剣を抜いた。

「李俊」

「殿下、生きてください」

李俊が笑った。

いつもの、飄々とした笑みだ。

「俺は、殿下の従者でいられて幸せでした」

「李俊!」

李俊が馬を反転させた。

追っ手に向かって駆け出す。

「行ってください!」

朱林が淳維の馬を引いた。

淳維は、後ろを見た。

李俊が、一人で十数人に向かっていく。

剣を振るう。

三人、倒した。

しかし、数が違いすぎた。

囲まれる。

李俊の雄叫びが聞こえた。

そして、静寂。

淳維は、歯を食いしばった。

「李俊...」

涙が出そうになる。

しかし、止めた。

泣いている場合ではない。

李俊の死を、無駄にはできない。

「朱林、行くぞ」

「はい」

二人は、前を向いた。



それから二日。

食料は、相変わらずない。

朱林が倒れそうになった。

「朱林」

「大丈夫です」

嘘だ。

顔色が悪い。

「殿下、あれを」

朱林が指さした。

遠くに、煙が上がっている。

人がいる。

「行くぞ」

二人は、最後の力を振り絞って馬を進めた。

小さな集落があった。

天幕が、二十ほど並んでいる。

人々が出てきた。

槍を構えている。

「待て」

淳維は手を上げた。

「我らは、敵ではない」

「華人か」

一人の老人が前に出た。

「そうだ。しかし、もう中華には戻らない」

老人は、淳維を見つめた。

長い沈黙があった。

淳維は、倒れそうになった。

視界が、揺れる。

「...入れ」

老人の声が、遠くから聞こえた。

淳維の意識が、途切れた。



目が覚めると、天幕の中にいた。

朱林が、隣で眠っている。

「起きたか」

老人が、水を差し出した。

「飲め」

淳維は、水を飲んだ。

喉が、潤う。

生き返る気がした。

「ありがとう」

「礼はいらん」

老人が羊の肉を差し出した。

「食え」

淳維は、貪るように食べた。

何日ぶりの、まともな食事だろう。

涙が出そうになった。

「お前は、何者だ」

老人が聞いた。

「夏の末裔だ。殷に追われ、ここまで来た」

「夏、か」

老人が頷いた。

「なぜ、北へ」

「新しく、始めるために」

「ほう」

老人が興味深そうに見る。

「我らは、狼の子孫だ」

「狼?」

「昔、一頭の狼が天の娘を娶った。その子孫が、我らだ」

不思議な話だ。

しかし、嘘ではない気がした。

その時、天幕の奥から、娘が現れた。

黒い髪。

鋭い瞳。

狼のような、しかし美しい娘だった。

「ボルテ・チノ」

老人が言った。

「わしの孫娘だ」

娘は、淳維を見た。

「華人」

「ああ」

「なぜ、ここに」

「逃げてきた。そして、新しく始めるために」

ボルテ・チノの目が、光った。

「面白い」

娘が微笑んだ。

淳維は、初めて心が軽くなる気がした。

李俊を失い、父を殺し、全てを失った。

しかし、ここには希望がある気がした。

「俺と、来るか」

「どこへ」

「まだ、わからない。でも、新しい国を築く」

ボルテ・チノは、しばらく淳維を見ていた。

そして、頷いた。

「行こう」

淳維は、娘の手を取った。

温かい。

生きている。

ここから、始まる。



三ヶ月が経った。

淳維は、集落で暮らしていた。

馬の扱いを学び、弓を射ることを覚えた。

朱林も、草原の生活に慣れてきた。

そして、ボルテ・チノを妻に迎えた。

老人が、二人を祝福した。

集落の者たちも、歓声を上げた。

淳維は、朱林に言った。

「ここから、始める」

「はい」

「李俊の分まで、生きる」

「はい」

淳維は北を見た。

広大な草原が、どこまでも続いている。

ここに、匈奴は生まれた。

中華の血と、天と狼の血が混ざり合って。

風が吹いた。

世界を変える、風が。

淳維は、ボルテ・チノの手を強く握った。

「いつか、湯の子孫を討つ」

「その時まで、生きよう」

ボルテ・チノが微笑んだ。

二人は、草原を見つめていた。

新しい歴史が、ここから始まる。

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