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一 漠北

私のシリーズの企画「遊牧史」を元にこれは長編化されました。ご興味があれば、ぜひ作者マイページから「遊牧史Ⅰ 匈奴敗走す」もご覧ください。

※ネタバレの必要性にはご注意ください。

なお、設定をいくつか変更しているところがございます。

「昔、匈奴の単于に二人の娘あり。その美貌、人にあらず。単于曰く、これを人に嫁がすべからず。天に捧ぐべし、と。荒野に高塔を築き、娘を置きて去る。数年の後、老狼来たりて塔下に住み、遠吠えやまず。妹、これを天の使いと為し、塔を降りて狼の妻となる」-「魏書」高車伝より



紀元前2000年頃、モンゴル高原。


セチェンゲレルは、塔の上から地平線を眺めていた。もう、何年になるだろう。三年か、四年か。季節が巡るたびに、数えるのをやめた。

「姉上、今日は風が強いですね」隣で、妹のオユンナが言った。

「ああ」セチェンゲレルは短く答えた。

二人きりの生活だった。父が建てたこの塔には、階段さえなかった。食料は、時折、部族の者が下から投げ上げてくれる。水は、雨水を溜める。

「天が迎えに来る」父はそう言った。しかし、天は来ない。来るのは、風と、雨と、雪だけだった。

「姉上は、怒っていますか」オユンナが聞いた。

「何を」

「父上に」

セチェンゲレルは答えなかった。怒り。もう、そんな感情すら薄れていた。ただ、空虚だった。

「私は、怒っていません」オユンナが続けた。「父上は、私たちを愛していたから、こうしたのだと思います」

「愛、か」セチェンゲレルは苦笑した。愛とは、娘を塔に閉じ込めることなのか。

「姉上」

「なんだ」

「あれを見てください」オユンナが指さした。

塔の下に、一頭の狼がいた。老いた、灰色の狼だった。狼は塔を見上げていた。そして、遠吠えをした。

「アオォォォン...」

悲しげな、しかし力強い声だった。

「また来たのか」セチェンゲレルは言った。あの狼は、昨日も、一昨日も来ていた。塔の下に、洞穴を掘り始めていた。

「姉上、あれは」

「獣だ。気にするな」セチェンゲレルは背を向けた。しかし、オユンナは狼を見つめ続けていた。


数ヶ月が経った。狼は、毎日来た。雨の日も、雪の日も。塔の下で、遠吠えをし続けた。オユンナは、毎日狼を見ていた。

「姉上」ある日、オユンナが言った。「私、あの狼のところへ行きます」

セチェンゲレルは振り向いた。「何を言っている」

「父上は、私たちを天に捧げると言いました」

「そうだ」

「ならば、あの狼は、天が遣わした使いです」

「あれは獣だ」セチェンゲレルは叫んだ。「一族を汚すつもりか!」

「汚す」オユンナが笑った。「姉上、私たちはもう何年もここにいます。誰も迎えに来ません。このまま、朽ちていくだけです」

「...」

「私は、生きたい」オユンナの目が、真っ直ぐだった。「あの狼は、毎日来てくれます。雨の日も、雪の日も。それは、愛ではないですか」

「オユンナ...」

「姉上は、ここに残ってください」オユンナは塔の縁に立った。「私は、降ります」

「待て!死ぬぞ!」

「大丈夫です」オユンナは微笑んだ。そして、跳んだ。


セチェンゲレルは、息を呑んだ。しかし、オユンナは——狼が、受け止めていた。まるで、待っていたかのように。オユンナは狼の背に乗り、笑っていた。

「姉上!私、生きています!」

セチェンゲレルは、涙が溢れるのを感じた。妹は、自由になったのだ。


それから数年後。オユンナは、狼との間に子を成した。四人の息子と、三人の娘が生まれた。子供たちは、人の姿をしていたが、瞳には狼の光が宿っていた。走るのが速く、遠吠えのような歌を歌った。

オユンナは幸せだった。塔の上のセチェンゲレルに、時折手を振った。セチェンゲレルも、手を振り返した。


ある冬の日、狼が死んだ。老い衰えてだった。オユンナは三日三晩、狼の亡骸を抱いて泣いた。

「ありがとう」オユンナは言った。「あなたは、私を自由にしてくれた」

子供たちは、父である狼を葬った。洞穴の奥深くに、丁寧に。そして、遠吠えをした。父の魂を、天に送るために。


セチェンゲレルは、塔の上からその様子を見ていた。妹は、幸せだったのだろうか。塔に閉じ込められた自分より、ずっと。

「姉上!」オユンナが叫んだ。「降りてきてください!一緒に暮らしましょう!」

セチェンゲレルは首を横に振った。「私は、ここにいる」

「なぜですか!」

「私は、天を待つ」セチェンゲレルは答えた。「それが、私の使命だ」

オユンナは悲しそうに頷いた。「わかりました。でも、姉上。私の子供たちが、いつか姉上を迎えに行きます」

「ああ」セチェンゲレルは微笑んだ。「待っている」


オユンナの子供たちは、草原に散っていった。ある者は北へ、ある者は西へ。彼らは、天と狼の血を引く者として、各地で新しい部族を築いた。

セチェンゲレルは、塔の上で老いた。誰も迎えに来なかった。天も、人も。ただ、風だけが、彼女の傍にいた。


ある日、セチェンゲレルは塔の縁に立った。もう、立っているのも辛かった。

「オユンナ」彼女は呟いた。「お前は、正しかった」

そして、セチェンゲレルは塔から身を投げた。風が、彼女を抱いた。まるで、天が迎えに来たかのように。



それから千年以上が経ち、オユンナの子孫たちは「高車」と呼ばれる部族となった。彼らは、祖先である狼を敬い、遠吠えのような歌を歌い続けた。

そして、さらに時が流れ——匈奴という名の、新しい民が草原に現れた。彼らもまた、天と狼の血を引くと語った。


それが、オユンナの血なのか、誰も知らない。しかし、草原の民は皆、同じ空を見上げ、同じ風を感じていた。

オユンナの末子の名は、ボルテ・チノと伝えられている。「蒼き狼」という意味だ。この名は、遥か後の時代、モンゴル帝国の始祖伝説にも現れる。


偶然か、それとも——

天と狼の血は、草原の民すべてに流れているのかもしれない。


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