屋上の黄金の騎士
僕は知らなかったけれど、うちには屋上があるらしい。
「物干し竿がかかってるところ?」
「ち、違う。あそこはベランダ。そ、その壁に梯子があって、そこから登るんだ。確か」
ジョージはそう言いながら、ゴムボールを駐車場の壁に投げた。
ボールは乾いた音を立てて跳ね返り、またジョージの手に戻る。僕が話している間も、何度も同じことをくり返した。
「うそだよ、そんなのないって!」
僕の記憶では、そんな梯子はなかった。
ベランダは危ないから、出たことは二、三回しかないけど。
「し、知らないだけだろ。き、きみの父さんが子どもの頃は、そ、そこで一緒にキャッチボールをしたんだ」
ジョージはそう言って、自慢げに胸を張った。
ジョージはとてもそうは見えない童顔だったけれど、お父さんのひとつ上で、昔はよく一緒に遊んだ仲だったらしい。
二十年以上前の話だ。そしてジョージは、今も変わらず、この駐車場で壁に向かってボールを投げ続けていた。
今はすっかり疎遠になっていて、お父さんやお母さんは「あいつには近づくな」と言うけれど、僕はジョージが誰よりも純粋でいい人だということを知っていた。
「ま、また一緒に、き、キャッチボールしたいな」
でも、お父さんはそれをよしとしないだろう。
「キャッチボールなら、僕がするよ」
「でも、お前はへたっぴだからなぁ」
壁に跳ね返ったボールを投げ返すと、ジョージは照れたように笑った。
ベランダの奥に梯子があり、その先に屋上がある。
秘密基地みたいな屋上を想像すると、胸がわくわくした。
帰ったら、さっそくお父さんに聞いてみようと思った。
「なんで屋上のことを知っているんだ?」
お父さんはいぶかしげに言った。
ジョージと仲良くしていることは内緒なので、僕はどぎまぎした。
子どもには危ないから、屋上に上がるのは禁止だった。
「屋上から落ちたら、死んでしまうのよ」
お母さんも心配そうに言った。
「でもお父さんは昔、そこでキャッチボールしたって」
言ってから、しまったと思った。
そのことを知っているのは、きっとお父さんとジョージだけだ。
でも、お父さんは別のことを考えているみたいだった。
「お父さんの子供の頃はな、男たるもの骨折の一つや二つは普通だったからなぁ」
「ちょっと、あなた……?」
お母さんが眉をひそめる。
「まあ、待て。屋上のことを知っているなら、内緒で登られる方がもっと危ない。
見てないから、想像で夢がふくらむんだ。一度見れば、こういうものかと納得するさ」
「まさか屋上にあげる気なの?」
反対するお母さんを説得して、お父さんが見ている約束で、僕は屋上を見せてもらえることになった。
ベランダの隅。物陰に隠れるようにして、錆びた鉄の梯子が壁に張り付いていた。
「何も無い、つまらないところだぞ」
そう言われたけれど、梯子を登るだけで、もうアスレチックみたいで楽しかった。
「見るだけだからな」
たどり着いた屋上は、思っていたよりもずっと広くて、空が近かった。
コンクリートが剥き出しの、何もない場所。それでも「屋上」という響きだけで僕のテンションは上がった。ただ、ふちから下をのぞき込むと、少し足がすくんだ。
ベランダは二階にあり、そこから梯子で登ったわけだから、屋上は三階に相当する。
お父さんとジョージはよくこんなところでキャッチボールができたなと感心した。
そのときだった。
足下できらっと、何かが光った。
手のひらにのる、小さな金色の人形だった。
「本物の金じゃないよね?」
ドキドキしながら、お父さんに見せた。
「ああ、そんなところにあったのか……」
お父さんは何か言いかけて
途中でやめ、ニヤッと笑った。
「そうだな。もしかしたら金かもしれないな。大事にしろよ」
もらっていい、ということらしい。
僕は興奮しながら、人形をポケットにしまった。
その日から、嫌なことがあると、僕は人形をにぎった。
すると、胸の奥が、少しだけ温かくなる気がした。
友だちとけんかした日。
テストで間違えた日。
一人で帰る寒い夕方。
人形は何も言わず、ただ、きらきらしていた。
やがて季節が巡り、僕は学年が上がった。
新しい友だちが増え、ジョージと会うことも少なくなった。
それでも、金の人形は変わらず僕の宝物だった。
ある日、久しぶりに駐車場でジョージを見かけた。
いつものように壁に向かってボールを投げている。
隣には、知らない小さな男の子がいた。
ジョージが仲良くできるのは、純粋な小さな子だけで、
僕はもうタイムリミットが来てしまったみたいだった。
「か、貸せって!」
ふいにジョージが男の子につめよった。
男の子が泣きそうな顔をしている。
乱暴に男の子から何かを奪い取ろうとしていた。
あんな怖い顔のジョージを、僕は初めて見た。
「やめなよ!」
気がつくと、僕は二人の間に割って入っていた。
ジョージはただでさえ大人たちから白い目で見られている。
トラブルをおこしたら「ほらみたことか」と責められるに違いない。
「お、お前…」
僕を見て、ジョージは驚いたようだった。そしてとても傷ついた顔をした。
「お前も俺を馬鹿にするのか」
次の瞬間、その表情は怒りに変わった。
ジョージは悔しそうに地べたを蹴ると、その場を立ち去った。
その背中を見送りながら、胸が痛んだ。
ジョージの目が、大人達に向ける目と同じになっていたからだ。
「あ、ありがとう……」
男の子が小さな声で言った。
足元には、けんかの原因らしい、きらきらしたカードが散らばっていた。
拾ってあげると、その中の一枚に見覚えのある絵柄があった。
金色の人形と、同じキャラクターだった。
「それ、昔お父さんの集めていたカードなんだ」
男の子はおずおずと言った。ジョージに見せて欲しいって言われたから持ってきたけれど、お父さんのだから汚したら悪いと貸し渋ったらしい。
『風とともに現れ風と共に去る黄金の騎士。果たしてその正体は!?』
カードには金の人形のことが書かれていた。黄金の騎士というのがそのキャラクターの名前のようだった。
その日以来、僕はジョージを見かけなくなった。
僕に会うのが気まずくなったのか、
それとも――
『ボール遊び禁止』
いつの間にか駐車場にはそんな看板が立っていた。
ジョージと仲直りしたかった
でも、あの事件がジョージに会った最後になってしまった。
黄金の騎士はまだ僕にとっての特別だった。けれどいずれはそうではなくなる。
その時は、静かに、でも確実に近づいてきている予感があった。
その前に僕はジョージと会わなくてはならなかった。
それから、さらに時がたった。小学校も高学年になり、ジョージのことはいつしか記憶の中に埋もれていった。
大事だったあの金の人形のことも…いや
最近、学校で少し嫌なことがあった。
いじめというほど大げさなものじゃない。SNSでの仲間外れや、見えないところでの悪口。
人は、優しい顔の裏に、何を抱えているのか分からない。
それが妙にこたえて、僕はひどく疲れていた。
ふと思い出したのはジョージのことだった。
誰の目を気にせず、ただ純粋に気が合うからジョージと遊んでいた。ジョージは誰の悪口も言わないし、貶めることもしなかった。例え周りの大人たちから嫌われていたとしても。
そんなことを思ううち、僕はあの黄金の騎士をまたそっとポケットにしのばすようになっていた。
最後に会った時気まずくなったことなんて忘れて
ジョージならケロッと忘れて仲良くしてくれるって美化して
それに答えるように黄金の騎士はきらきらと光り輝いて見えた。
そんなある日
家に帰るとパトカーが止まっていた。
警察の人が、家で話をしていた。
「刃物を持った男を見ませんでしたか? 」
近所で、物騒な事件があったらしい。
いつもはかっこいいパトカーが、その日は霊柩車みたいに、死神のように感じて、胸がざわざわした。
「いつかやると思っていたんです。小さい子達とばかり遊んで。危ないって」
お母さんの声が、どこか冷たく聞こえた。
僕は咄嗟に、ポケットの金の人形を握りしめた。
そして、家を飛び出した。
人を傷つけるなんてジョージがするはずない。
でもお母さんはジョージを疑っているみたいだった。
多分それはお母さんだけじゃない。
大人達が疑っているということだ。
僕はジョージにそのことを知らせないとと思った。
ジョージの家は、あの駐車場の向かいにある団地だと聞いていた。
でも、どの部屋かまでは知らない。
一つひとつ見て回ろうとした、そのとき。
あるドアが、目に留まった。
はがされたシールの跡が、いくつも残っている。
その中に、見覚えのある絵柄があった。
『黄金に輝く騎士が、風のように現れた』
色あせてはいたが、あの黄金の騎士のシールだった。
ここだ。
そう直感して、僕はそっとベルを押した。
ベルは壊れているのか押しても音が出ている様子は無かった。
ドアを叩いて呼ぼうか?
でもジョージと最後に会った時、ジョージは僕を大人達を見るような目で見ていた。そんな僕が呼んで出てきてくれるだろうか?
「よ、よくここが…わ、わかったな」
迷っているとドアの向こうからジョージの声が帰ってきた。
ちょっとどもっている。あの時のままの懐かしいジョージの声だった。
けれど今は警戒しているのか、声は強張っていた。
「昔はお父さんがよく遊びに来たんでしょ?」
僕はお父さんの名前を出した。
そうしたらきっと警戒が解けるのが分かっていたからだ。
ジョージにとってお父さんは昔のままの一つ下の友人で弟分だったから。
「ああ、お、お父さんに聞いたのか」
思った通り、ジョージの声が少し柔らかくなった。
僕の心がずきりと痛んだ。
だってもうお父さんはジョージとは会うなと行っているのだから。
「あ、あいつの家にはビデオがなかったからな。よく一緒にビデオを見たんだ」
ウルトラマン、仮面ライダー、SDガンダム。
懐かしそうに話す声は、いつもの優しいジョージだった。
ガチャリと玄関のドアが開いた。
「お前もビデオを見に来たのか?」
「い、いや…」
久しぶりに見たジョージはかなりやつれたように見えた。昔はお父さんの一つ上とは思えないくらい童顔だったのに今は年相応に見える。
「そ、そうだった。今はビデオはもう、み、見れないんだった」
もうとっくにビデオはなくなってDVDに変わっている。それどころかサブスクが主流になっている。
でもきっとジョージはパソコンやスマホなんて無縁だろう。
「い、今はもうここに住んでいるわけじゃ、無いからな…」
ジョージの表情は暗かった。
「こ、ここに住んでた時の方が楽しかったなぁ…」
住んでいたってことは引っ越したのだろうか?
それなら何故ジョージはこの部屋に入れているんだろう?
気にはなったが今はそれどころではなかった。
「そんなことより大変なんだ」
ここに来た理由を思い出した。
「近くで通り魔事件があって。ジョージが…」
疑われている。だから一緒に行って警察に自首しよう?
でも自首するってことは犯人でないと無理だ。
通り魔なんてしてないって説明に行く? どうして? 何もしてないのに説明しに行かなくてはいけない?
大人たちがジョージを疑っていると伝える? そんなこと教えたらジョージは傷つくんじゃないか?
「一人でいると危ないよ」
僕は考えた末にそう言った。
「一緒に僕の家に来ない? 」
「…」
ジョージは驚いたように僕を見た。そして嬉しいような悲しいような何とも言えない顔をした。
「あ、ありがとう。でも、それは、で、できない…できない? 」
そして、自分の言葉にとても驚いたようだった。
「できない、できない…もう、できない」
そしてボロボロと泣き出した。
「もう、俺は遊びには行けない」
「なんで? 遊びに来ればいいよ。僕達は友達なんだから」
僕は戸惑いつつ言った。
「出来るわけない。だって俺はもう…大人なんだから」
ジョージの声は震えていた。
そのとき、僕は気づいた。
ジョージの手から、血がにじんでいる。
握られていたのは、カッターナイフだった。
一瞬、警察の話がちらついたが、僕はそれを振り払った。
「大丈夫? 怪我してるよ」
近づくと、ジョージは慌てて刃物を隠した。
「そ、それ以上近づくな……」
何かにおびえているみたいだった。
「お、俺は家を買ったんだ。い、家があれば、結婚できるっ…て親が言ってたから……そうしたら一人前だって……一人前になったら……そしたら、また……友達と、キャッチボールできるって……思ってた……俺は昔に戻りたかったから」
支離滅裂で何の話か分からなかった。ジョージは興奮して混乱していた。
ジョージは家を買ったのだろうか?
でも家はジョージが簡単に買えるようなものだろうか?
それともこれはただの妄想なのか?
「だ、だから作業所に行って……親も手伝ってくれて……な、なのに……親は倒れて……家なんて買おうと思わなければ、か、家族みんなでもっといい暮らしできたかもしれないのに……」
ジョージの目は、もう僕を見ていなかった。
「み、みんな……知ってたんだ……そんなわけ、ないって……」
乾いた笑いが、喉の奥でひっかかった。
荒い呼吸の合間に、視線が揺れる。
「……なあ」
低く、すがるような声だった。
「お前も……俺を、馬鹿にしてるんだろ」
ジョージが何を言おうとしてるのか半分も分からなかった。
でもジョージは本気で苦しんでいた。
僕はそれに答えなくてはならなかった。
「黄金の騎士のシール持ってたんだね」
僕は意を決して言った。
「?」
一瞬何のことか分からなかったらしい。
僕はドアの方に視線を向けた。ジョージもそれで何の話か気が付いたようだ。
「だったらあんなに無理して見せてもらわなくても良かったのに」
「ち、違う。これとあれは種類が違うんだ」
必死な声だった。
どうやらジョージはこちら側に戻ってきてくれたらしい。
意図したことではなかったけれどほっと安堵する。
やっぱりジョージは優しい人だ。
「でもあの子、困っていたよ」
「そ、それは、わ、悪かったと思っているけど」
僕が本当に意図していたこと、ポケットの人形を取り出した。
いつかジョージにあったらそうしようと、仲直りしようと決めていた。
ジョージが欲しがっていたきらきらのカードではないけれど、同じ黄金の騎士だ。
「これ、あげる」
「?」
ジョージは一瞬固まって、それから目を丸くした。
「こ、これは……ガシャポンの、あ、あたりで……」
「知ってるの? 」
「ああ、昔、お前のお父さんが当てて……き、金色だから本物の金じゃないかって言ったら、そんなわけないだろって……くれって言ったけど、くれなくて……」
どうやら思い出の人形だったらしい。実際に子供の頃、お父さんと遊んだ時に一緒にあった…一緒に時間を共有した。ジョージをこちらに引き戻したのは、僕ではなく、お父さんとの思い出だった。そのことが、少しだけ悲しかった。
「ど、どこで見つけたんだ? 」
「屋上で」
「屋上か……そうか、屋上か」
ジョージは何度もつぶやき、
それから、子どもみたいに笑った。
『な、なぁ、金じゃないならいいだろ。それ、くれよ』
屋上で、まだ子供の頃のジョージがボールを投げる。
『ええ、当てたのは俺だし』
一つ下の男の子が不満そうにボールを受け取る。
『じゃ、じゃあ、交換しよう。ソフビとかキラカードとか』
『ええ…でもまぁ、いらなくなったらあげるよ。いつかね』
いつものことなのだろう。少年は苦笑いしながらボールを返した。
「…きらきら、だなあ」
その瞬間、人形は、前よりもずっと強く光った気がした。
家に帰ると、ポケットはからっぽだった。
寂しいという思いと、でも、不思議と胸の中があたたかくもあった。
「無事だったのか」
お父さんが、ほっとしたように言った。
お母さんから事件の、通り魔のことを聞いて慌てて帰ってきたらしい。でも犯人は自首したからもう危ないことは無いということだった。
「何もなかったなら、いいんだ」
お父さんは、また何か言いかけて、やめた。
「ねぇ、僕ジョージと会ってきたんだ」
お父さんは少し迷って言った。
「随分と懐かしい名前だな」
「それでお母さんはお父さんを呼んだのかと思った」
お父さんは少し考えてから言った。
「悪いことするやつってのは、最初から悪い奴ってわけじゃないのかもしれない。
辛い事とか上手くいかないことが重なって、誰もがそうなりえる。でもそうなってしまったら線引きは必要なんだ」
お父さんはため息のように息を吐いた。
「ジョージはな、うまく大人になれなかったんだよ」
「そんなことないよ」
僕は、心の中で首を振った。ジョージはジョージなりに頑張っていた。
それを見てくれる相手が、
一緒に大人になってくれる相手がいたら――
お父さんは窓の外をみていた。
その夜、窓の外の星はきらきら光っていた。




