2-1 Cボゥイ
ボルバキアウイルスが猛威を振るうこの世界において、『人間の男性』という種が存続することは事実上不可能。
それが、この時代における確固たる定説だ。
その常識を覆す存在が今、アイーダの目と鼻の先に実体を伴って顕現していた。
「ウイルスによる変異を発症することなく、無事でいられる稀有な少年、か……」
研究の成果物か、将又偶然の産物なのか。
その真偽は彼女に知る由もなかったが、この幼子の扱いがトップシークレット中のトップシークレットたる所以は、説明されなくとも自ずと理解できた。
アイーダがあれこれ考えを巡らせていると、渦中の少年にいよいよ動きが見られ始める。
「…………う?」
カプセルの中でもぞもぞと身じろぎした幼子は、眩しそうに目を擦ると、ゆっくりとまぶたを開いた。
髪と同じ色のつぶらな黒瞳が、その視界にアイーダの姿をはっきりと捉える。
「…………?」
「……や、やあ」
思わず半笑いになって片手で挨拶するアイーダを、少年はきょとんとしながらもしげしげと見つめていた。
思うに、何が起こっているのか分からないのだろう。
かと言って、気が動転して泣き喚くこともなく。
あまりにも淡泊なその反応に、アイーダがほとほと困り果てていると、それを見兼ねたアルフォンスが助け舟を出してくれ――
『確認:貴官の名前と所属を問う。なお、こちらの指示に従わない場合は、強硬手段も辞さない所存――』
「言い方!」
間髪を容れず、アイーダは相方の臀部をすぱーんと引っぱたいた。
『抗議:痛い、何をする』
「嘘おっしゃい! ってそんな様式美はどうでもよくて! いくら何でも、もうちょっと小さい子に対する訊き方ってものがあるでしょ?」
『不服:使役者は無理難題をおっしゃる』
不貞腐れたように沈黙するアルフォンスに再度嘆息すると、アイーダは呆気に取られた様子の幼子へと向き直り、一つずつ質問を始める。
「えっと……わたしの言ってること、分かるかな?」
こくり、と少年は頷いた。
少なくとも意思の疎通ができると分かり、アイーダは安堵する。
――しかし。
「わたしはアイーダ・マリア。で、こっちはパートナーのアルフォンス。――よかったら、あなたの名前も教えてもらえる?」
ふるふると首を横に振る少年。
「教えたくない?」
ふるふる。
「……もしかして、自分の名前が分からない?」
こく。
「……そっか。――じゃあ、どうしてこのカプセルの中にいたのか、その理由は知ってる?」
ふるふる。
「……他に何か、覚えていることは?」
ふるふる。
「…………ほんとに、なにも?」
こく。
「…………」
「…………」
「……………………」
「……………………あう」
こちらの落胆が伝わったのだろう、気まずそうに少年は俯いてしまう。
錆び付いた機械のような緩慢な動きで、アイーダは傍らのアルフォンスを見上げた。
「……アル。これって、もしかして……」
『推測:記憶喪失、あるいはそれに類する状態の可能性が高いと考えられる』
相棒のMACHOが導き出した答えは、彼女の懸念と全く同じものであった。
「はあ……だよね」
トラブルに次ぐトラブルに、いい加減頭を抱えたくもなってくる。
(最重要機密を無許可で開封した挙げ句、警備対象に記憶障害まで生じさせたとあれば……わたしの首、間違いなく飛ぶよね)
まいったな、と本日二度目となる泣き言をアイーダがこぼしていると、
「――へっくち」
不意に幼子がくしゃみをしたため、彼女の意識は再び彼へと呼び戻される。
「……とりあえず、この子に何か着せないと。――アル。わたしの予備の着替えからシャツとタオル、それと外套を」
『了解』
アルフォンスが取り出した三点を受け取ると、アイーダはまず少年の下半身にタオルを巻き、それからシャツに袖を通させた。
(この子の存在は大きな混乱を招く。男だということは誰にも知られないようにしないと……)
仕上げにフード付きの外套を羽織らせることで、ひとまず防寒対策と見た目、その両方の問題がクリアされた形となり、アイーダはほっと胸を撫で下ろす。
「人の目はこれで誤魔化せるとして……あとは名前か。いつまでも名無しのままじゃ、ちょっと不便だよね……。――アル。何かいい案あったりする?」
アルのツインアイが、しばし思案するように明滅する。
『――提案:〝Cボゥイ〟という呼称を検討』
「チェリーボーイって……それ、女性と性行為をしたことのない男性に対する大昔の蔑称だよね? そのネーミングはちょっとどうかと……」
アイーダの非難に、しかしアルフォンスは頭を振る。
『否定:当機が意図したのはキュートボーイであり、アイーダが想起したようないかがわしい意味では決してない』
「いかがわしいとか言うな」
かすかに頬を紅く染めて、アイーダはアルフォンスの大腿部を小突いた。
他方、当の本人はと言うと、
「しーぼーい! しーぼーい!」
何やら嬉しそうにはしゃぎながら、例の名前を連呼していた。
アイーダとアルフォンスは互いに顔を見合わせる。
『推測:どうやら当人は気に入った模様』
「……解せぬ」
心底納得いかない様子のアイーダとは対照的に、アルフォンスはどこか得意げだ。
そんな両者の間に、少年ことCボゥイは自分から歩み寄っていくと、
「あいーだ! あるほんす!」
アイーダたちを交互に指差し、親しみを込めてそう呼んできた。どうやら、多少は気を許してもらえたらしい。
だがこれに対し、アルフォンスは無粋にも首を横に振る。
『否定:当機の名前は〝あるほんす〟ではなく〝アルフォンス〟――』
「そういう野暮なこと言わない。いいじゃない、あるほんすでも。――ねー、Cボゥイ?」
「ねー」
『――了解:ただし、可能であれば適宜訂正を求める』
見るからに不承不承といった感じのアルフォンスに忍び笑いを漏らすと、アイーダは気を取り直す。
(さて、いつまでもこうしてはいられない)
幸い、この近辺は安全なようだが、一般的に樹海内部はミュータントの巣窟として知られており、本来であれば何人たりとも近寄らない危険地帯だ。
(日没までには樹海を出たいところだけど……)
現在地は不明、詳細な地形情報もなし、おまけに子連れとあっては、流石に慎重にならざるを得ない。
「……まずは西へ、かな」
秘所に赴く際、アイーダは街道から東に外れた、樹海の南方を東西に走る渓谷地帯を縫って現地まで辿り着いた。
単純に考えて、西方に向かえばいつかは樹海を抜け、街道へと突き当たる。
(確か、あの辺りの街道沿いには隊商宿があったはず)
そこで夜をやり過ごしつつ、今後の行動指針を決めるのがベストかと思われた。
「そうと決まれば……。――アル、そろそろ移動するよ。スタンバって」
『了解:スタンバイOK』
即座にパワードスーツ形態へと移行するアルフォンスと、それに手早く乗り込むアイーダを、Cボゥイは呆然と見上げていた。
機装に身を包んだアイーダは、手甲を纏った左手を悠然と彼に差し伸べる。
「お待たせ。それじゃあ行こうか、Cボゥイ」
「ら、らーじゃ」
アルフォンスの真似をしてそう言うと、Cボゥイはおずおずと彼女の手を取った。
小柄な彼の体躯を左手で抱きかかえたアイーダは、一路西を目指して移動を開始する。




