5-3 インゲル
インゲルは、一言で言うと天才だった。
初めて行うことでもすぐに要領を掴み、何でも卒なくこなす同年代の彼女の存在は、友達であること以上に常にわたしにとって目指すべき目標であり、憧れでもあった。
彼女と対等の関係でありたいと日々弛まぬ努力を続けてきたわたしは、いつの頃からか周囲に、こう呼ばれるようになる。
天才と対を成す秀才、と。
その風評自体に不満があったわけではないが、わたし自身は到底納得していなかった。
わたしとインゲルの間には、依然超えられない大きな隔たりがあり、とても対等だとは思えなかったから。
非常に優秀なインゲルにとって、唯一とも言えるウィークポイントが情緒不安定な精神面であり、昔から彼女は何かとわたしに依存しがちだった。
インゲルから全幅の信頼を寄せられている事実は純粋に嬉しかったものの、彼女の才能に常時劣等感に近い感情を抱いていたあの頃のわたしは、素直に彼女の好意を受け止めることができずにいた。
この先、インゲルと真に対等な関係になるためには、共依存とも言える今の歪な関係性を、どこかでリセットする必要がある。
わたしたちは、互いに互いから自立しなければならない。
そうしたある種の強迫観念に突き動かされた当時のわたしは、折よく会長より打診された警護班への配置転換を受け入れ、物心ついてから初めてインゲルとは異なる道を歩むことになったわけだが。
結果的に彼女との交流が途絶えてしまった現在、あの時の決断が正しかったのかどうか、今のわたしには判断がつかない。
結局今も、何かにつけてインゲルのことを意識し続けている以上、わたし自身の自立については、最早失敗に終わっているのかもしれない。
(片や、あの子の方はどうだろう?)
目的地に向けて北上しながら、わたしは物思いに耽る。
この二年間、頑なにわたしと距離を取り続けたインゲル。
もし彼女が自らの欠点を克服していたら。
その上で、もし彼女と、Cボゥイやわたし自身の処遇を巡って対立するようなことになったとしたら。
きっと、その時は。
(わたしは多分、あの子には勝てない)
〇+
インゲルから指定された滝の見える湖畔は、アイーダたち二人にとって共通の思い出の場所と言えた。
各々別々にAK商会に引き取られた彼女たちが、バックヤードの養護施設に預けられる際に初めて顔を合わせた邂逅の地であり。
養護施設で暮らしている間、避暑のために幾度となく訪れた馴染み深い行楽地であり。
そして、二年前、アイーダがインゲルに自身の配属替えを伝え、彼女との関係が破局した因縁の地でもあった。
「……いた」
遠目に見え始めた懐かしい姿に、アイーダは機体を走らせながら、何とも言えない複雑な感情を胸に抱いていた。
久しく逢えなかった幼馴染みの元気な様子に安堵する半面、彼女が既に真紅の機体に搭乗して臨戦態勢でいる状況に、嫌な予感が的中しつつあることをひしひしと痛感する。
アイーダはインゲルと合流する前に、近くの丘の上に設置された東屋の傍で機体を停めると、そこで背負っていた小型キャリアーごとCボゥイを地面に下ろした。
「……あいーだ?」
何やらただならぬ雰囲気に不安そうな表情を浮かべるCボゥイを、アイーダは微笑を湛えながら、優しく包み込むようにそっと抱き締める。
「ごめんね、Cボゥイ。わたしが一緒に行けるのは、多分、ここまでかもしれない」
「う?」
「もし、わたしの身に何かあったら――その時は、あそこにいるインゲルお姉ちゃんを頼りなさい」
そう言い残してCボゥイから身体を離すと、アイーダはきゅっと唇を結び、再びインゲルの下へ機体を走らせた。
拡声器なしで声が届く距離まで機体を移動させると、程なく待っていたようにインゲルが口を開く。
「よく、来られたわね」
「あなたなら、誰にも告げずに一人で来てくれるって信じてたから」
そこまで言って、思い出したようにアイーダは苦笑する。
「って、オズがいるから、厳密には二人――」
「そうじゃない。そうじゃないのよ、アイーダ」
アイーダの言葉に被せるように、低い声音で強く否定し、インゲルはアイーダを冷視する。
「よく、のうのうと私の前に顔を出せたわねって、そう言ってるの」
「……やっぱり、気にしてるのね、あの時のこと」
すまなそうに顔を俯かせたアイーダに、インゲルは目を剥いて、堰を切ったように罵倒を浴びせ始める。
「その言い方、ほんと嫌い。一人で勝手に悩んで、言葉少なに私の前からいなくなって。今度は何? 上から目線で友達面? ……やってられないわ」
「別に、そんなつもりじゃ……」
あまりの剣幕に萎縮するアイーダに、インゲルはうんざりした様子で深々とため息を吐き出す。
「……どの道、あなたはもう終わりよ、アイーダ。会長は既に、あなたのことを許す気は毛頭ないらしいから」
そう言って、インゲルは東屋の方に目を向ける。
「たとえ、あそこにいる最重要機密を無事連れ帰ったとしても……あなたに待っているのは、ただ、死、あるのみ」
「そんな……」
愕然とするアイーダに対し、インゲルは無情にも静かに拳を構える。
「だから、せめて私の手で、あなたに引導を渡してあげる。それが、かつての親友にできる、せめてもの情けだもの」
「ッ!? 待ってインゲル! お願い、話を聞いて!」
アイーダの悲痛な訴えも虚しく。
むしろ、それが合図となったかのように、インゲルの苛烈な攻勢が始まる。
「どの口がッ! ――私の! たった! 一つの! お願い! すら! 聞いて! くれなかった! 癖にッ!」
「くっ……!」
雪崩のように押し寄せるインゲルの痛撃に耐え忍びながら、アイーダは悩ましげに表情を歪める。
「……確かに、虫が良すぎるか。わたしにそんなことを言える筋合い、あるわけないよね」
無血の対話は望むべくもないと再認識したアイーダは、飛び交う紅の拳を払い除け、間合いをはかりつつファイティングポーズを執る。
「……本当は、あなたと戦いたくなんてないけど」
そんな消極的な言葉と共に、アイーダは軽快なフットワークに乗せて牽制のジャブを放――
「本気でやらないと、死ぬよ?」
弾かれる右腕。
暗転する視界。
「…………え?」
気付いた時には、アイーダはうつ伏せの状態に昏倒させられていた。
インゲルが繰り出した電光石火の連撃で、瞬く間に地に沈められたのだと理解するのに、更に数瞬の時間を要した。
呆けた声を漏らすアイーダを、インゲルが憮然とした様子で見下ろす。
「早く立って。まだ勝負はついてない」
〇+
――そこからの展開は、ただただ一方的だった。
戦意を喪失しているらしきアイーダに、鬼気迫るインゲルの猛攻を防ぐことは能わず。
為す術もないまま、ものの数分も経たない内に、アルフォンスを鎧ったアイーダは、インゲル駆るオスカーに組み敷かれ、大敗を喫していた。
「……何か、言い残すことは?」
力場を纏わせたオスカーの拳を眼前に突き付けながら、インゲルは淡々とアイーダに問う。
意識が朦朧としている様子のアイーダは、焦点の定まらぬ瞳で薄っすらと笑みを浮かべなら、次のように返した。
「……この子の、こと……お願い、ね?」
そう言って、アイーダが力なく手を伸ばした先には、彼女のお腹の上に覆い被さるようにしてしがみ付いている最重要機密の姿があった。手も足も出せずに痛めつけられるアイーダを見るに堪えかねたのか、正に勝敗が決するというタイミングで急遽飛び出してきたのだ。
最後の最後で勝負に割り込んできた腹の下の最重要機密をちらりと一瞥したのち、インゲルは苦々しげに口を開く。
「……言いたいことは、それだけ? 他にもっとあるでしょ……? 聞く耳を持たない私に対する恨みつらみとか、何かそういうの……!」
徐々に語気を荒らげるインゲルに対し、アイーダは変わらず、慈母のような微笑を浮かべながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「ごめん、ね、イン、ゲル。ずっ、と……謝り、たかっ……た――」
「……ッ」
遂に気を失ったアイーダの横顔を、インゲルは諦観の眼差しでしばし見下ろしていた。
(……この期に及んでもまだ、あなたは私に対して仮面を取り繕うのね)
やがて、荒々しく嘆息すると、インゲルはそれまで無視していた最重要機密の子どもをキッと睨み据える。
「……いい加減、そこをどきなさい。邪魔よ」
「う~」
底冷えのするようなインゲルの声音にも怯むことなく、涙ぐましい抵抗を続ける最重要機密。
そんな幼子を、インゲルはオスカーの中指をデコピンの要領で駆動させることで、ぺいとぞんざいに払い除けた。
「あう!?」
「言っとくけど、私はこの子みたいに優しくないから。大人しくしてないと次はグーでぶつ」
地べたをころころ転がる最重要機密にそう言い捨てると、再びインゲルは意識のないアイーダへと向き直る。
そして。
「……アイーダ・マリアは、今、ここに死んだ」
手刀に変形させ、力場を発生させたオスカーの拳を。
アイーダ目掛け、インゲルは無造作に振り下ろした。




