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『幽霊、月、森の裏側』

作者: 梅田浩志

『幽霊、月、森の裏側』


     1


 僕が外の世界、(大人が働き、子供は学校に通い、それぞれ大きさや形が違う家に家族の団欒があり、車がせわしなく走ったり、時には、ラッシュの列車に押し込められたりする中、みんなが常に時計を気にして、それぞれの目標や希望に向けて生きているような世界)から切り離されて、どのくらいたつのだろう。

 僕は、物心ついた時から、ずっと病院で暮らしていた。遺伝子の問題だとかで、僕は重い病気を抱えていたのだ。

 遺伝の問題とは言っても、外面的には何の障害もない。激しい運動は苦手だが、もう何年も運動なんてしていないし、それを除けば、僕自身に自覚できるような症状など、何もなかった。

 しかし、僕は、恐らくこのまま大人になる事はないだろうと言うのが、今まで出会ったお医者さんの大方の見解であった。

 僕は、と言うよりは、僕たちは、と言った方が伝わりやすいのかもしれない。

 と言うのは、この大きな病院の二階の一角には、そう言った重い病気を持った子供が集められていたのだ。

 僕は随分長い間、この病院にいる。

 そして、僕と同じ様な境遇の子供たちと、一緒に暮らしている。

 年上の子供も、年下の子供も、男の子も、女の子もいる。

 肢体が不自由で車椅子に乗った子供もいるし、ほとんどベッドに寝たきりの子供もいる。

 普段は病人とは思えぬ程元気そうなのに、何も前触れもなく激しい発作を起こす子供もいる。

 でも、そんな違いは、僕たちにとってほとんど意味はない。

 僕たちは、辿るコースや所要時間がそれぞれに少し違うのだとしても、同じような運命を背負って日々を生きているのだ。

 そして、僕たちの世界と言えば、六人部屋の病室と食堂、そしてそれをつなぐ廊下だけだった。


     *


 もし、ここから出られる子供がいたとすれば、それは、いくつかのパターンに分けられる。

 例えば、症状が悪化して、この病院の手には負えなくなり、より高度な専門医療が受けられる病院に転院する事。

 これは、場所を移すだけで、本人の境遇と言う意味では、ほとんど何も変わらない。


 もう一つは、真夜中などに、酷く慌てた様子のお医者さんや看護婦さん達によって、様々な注射や点滴や電子器具のセンサーを施されながら、ストレッチャーに乗せられ、集中治療室や手術室に運ばれる事。

 多くの場合、彼等はやがて、病室に帰って来る。僕も三回の手術を経験したが、今だにこうして病室にいる。

 そう言うケースで、そのまま外の世界に出られるとすれば…。

 説明は、不要だろう。

 手術室や集中治療室から、一度も病室に戻らないまま退院する事など、有り得る筈ないのだ…。

 そう言う時は、翌朝、看護婦さんが何人かやって来て、ベッドの布団やシーツをたたむ。 その子の持っていた縫いぐるみや写真や本やおもちゃなんかを慌ただしく片付け、運び出して行く。

 その後は、昨日までそこに誰かが眠っていたのが嘘だったと思える程、ベットはがらんとしたものになる。

 そこには、死の匂いすらない。

 まるで、展示物のない博物館のようなものだ。


 あるいは、病気を治し、両親に笑顔で迎えられながら、病棟の廊下の扉の向こうへと消えていく事だってある。

 みんなは、「よかったな」と素直に祝福し、当の本人は、遠慮がちな笑顔で、僕たちや看護婦さんに手を振る。

 そして、退院する子供のほとんどが、『みんなも早く治って欲しい』と言う趣旨の事を言う。


 もちろん、誰にとってもそれが一番望ましいケースのはずなのだが、同時にそれが一番少ないケースである事は、彼も含めて、僕たちは経験的に知っているのだ。


     *


 さっきも言ったが、僕たちの世界と言えば、六人部屋の病室と食堂、そしてそれをつなぐ廊下だけだった。

 廊下の端にはドアがあり、それにはいつも鍵がかけられていた。

 そのドアの向こうは、外来患者のための待合室になってる。

 そのドアの窓ガラスからは、普段着の子供や付き添いの母親などが行き交っているのが見えた。そこはまだ、僕の言う所の『外の世界』の続きだった。

 病気でここに来たとは言っても、彼等はやがては元の世界に戻って行って、たいていの場合は今日の病気の事などすっかり忘れてしまうのだろう。

 そして、みんな平凡な日常生活と言うものに埋もれていくのだろう

 だからと言って、それに恨みや妬みを感じると言う話ではない。

 ただそう言う出来事は、僕らとは、明らかに別の世界の話だろうと言う事だ。


 外の世界と僕たちの間に、扉があった。

 真ん中に四角い窓がある、白い頑丈な扉だ。

 扉は、外来の診察時間の間、鍵が掛けられ、看護婦さんが出入りする以外に開かれる事はない。

 象徴的意味であれ、実際の機能としてであれ、その扉は『社会』と僕たちを隔てる堅固な砦のような役目を負っていたのだ。


 しかし、それはまれな出来事ではあるのだが、看護婦さんたちの仕事が少ない夜には、扉の鍵が何度か開けられ、僕らは部屋の外に出られる事もあった。

 外とはいっても、その範囲は昼間の喧騒がひとかけらも残ってはいない、診察室の前の薄暗いロビーの中だけだ。

 それでも、僕たちにとっては、その空間はちょっとした自由な遊び場だった。

 非常口の緑色の明りだけが、黒いビニール張りの長椅子を照らし出していた。

 僕らは、そんな中で隠れんぼをしたりした。 元気のある奴等はソファーの周りで、車椅子一周レースなどをして遊んでいた。


 もちろん、そんな時でも安静にしていなくてはならない子供もいる。

 三年前にやって来た、『幽霊』と言う、とても、色の白い女の子の場合もそうだった。『幽霊』とは、彼女のあだ名だ。

 誰からともなくそう言い出した。

 彼女もそう呼ばれているのを知っているのだろうが、別に抗議をする事もなかった。

 彼女は一番端の個室に入院しているので、普段は誰とも顔を合わさない。

 それに彼女は極端に無口で、食事の時に女の子たちのテーブルに座る事もあったが、彼女の声を聞いた者などほとんどいなかった。 最初は、みんな彼女が喉の病気か耳が不自由なのかと思っていた程だ。

 しかし、誰かが、

「ドアが開いてるぞ!」

 と言うと、いつもよろよろと廊下の端の個室から、点滴を持って歩いて来る。

 僕の後で扉が閉じかけた時、僕が『幽霊』のためにその扉を押さえてあげると、

「ありがとう」

 と消え入るような声で答えてくれた事もあった。

 あるいは、それは空耳だったのかもしれない。

 彼女の声は、そんな感じがする程の、微かな『空気の揺れ』でしかなかった。

『幽霊』はいつも、点滴掛けを傍らに置き、中庭に面したソファーに座っていた。

 そして、何をするでもなく、誰とも話をするでもなく、いつもぼんやりと外を眺めていた。


      *


 それは、ある月夜の晩だった。

 僕は、その夜、『幽霊』に話し掛ける事になった。

 何故なのかは分からない。

 その夜、彼女の前に立った時、声を掛けなくてはいけないと、僕は感じてしまったのだ。

 それは、今ににして思うと、まともな神経が下した判断ではなかった。

 何か別の世界の、そして、未知の力の導く所によって下された…。

 まあ、そんなに大袈裟な話でもないのだろう。とにかく僕は、その夜、『幽霊』に話し掛ける事にしたのだ…。


 ガラスを通じて来る、白い月明りのに照らされた『幽霊』の横顔は、どきりとする程透き通っていた。

 それはまるで、何と言うか、本物の幽霊みたいだったのだ。

「ねえ。いつもこうしてるけど、何を見てるの?」

「…………」

 僕の質問に、彼女は何の反応も示さなかった。

 まったく、何の反応もないのだ。

 僕が言った事が聞こえなかったのかもしれない。あるいは聞こえたけれど、彼女に答える気がないのかもしれない。

 しばらく答えを待っていたが、黙って彼女の隣に座った。

 もう一度聞き直してみようかとも思ったが、その場の雰囲気から、これ以上何も彼女に話し掛けるべきではないと感じていた。

 すぐ隣に座っていると言うのに、彼女の体温や息遣いなどは全く感じられなかった。

 彼女には自分の存在を示すような、気配すらもないのだ。

 彼女の存在を確かめるように、何度も横目でその姿を覗き見た。

 僕の目には確かに彼女が見えてはいたが、見れば見る程、それが光の悪戯によって出来た錯覚であるように思えるようだった。


「月」


 それはやはり空耳のようでもあった。

 彼女の発した声かどうかは定かではない。

「………」

 僕は『幽霊』を見る。


「明日」


 今度は確実に彼女の発した言葉である事が分かった。

 その時、僕の心に、恐怖のような感情が芽生えるのが分かった。その恐怖は『幽霊』の存在によってもたらされた物でもなければ、彼女の発する言葉による物でもなかった。

「何が?」

 僕はなるべく平静を装って聞き返す。


「もうすぐ、明日」


 『幽霊』は言う。

『幽霊』の声は、金属片のように平板で硬質だった。掴み所が無ければ裏も表もない。

 強いて言うなら一種の記号のような、言語の破片に過ぎない。

「………」

 返す言葉など、あるはずもない。


『月、明日、もうすぐ、明日…』

 それは、何か詩の一節のようでもある。

 あるいは暗黒の底に蠢く邪悪な力が、彼女を介して僕に何かを伝えようとしているのかとも思えた。

『月、明日、もうすぐ、明日…』

 何度も頭の中でそれを繰り返してみた。当然のように、その単語の羅列の中に、その意味を推し量るような手掛かりを見付ける事はできない。

 しばらくして思考を止めた。

 やはり意味のある言葉ではなさそうだ。

 僕はもう一度、『幽霊』に顔を向けた。

 瞬間、僕の体は凍り付いた。

 そう、全く、比喩的な意味を除外したとしても、凍り付いたのだ。

『幽霊』の顔は、真っ直ぐ僕を向いていた。『幽霊』の顔に、表情を意味するようなものは何もなかった。

 月が真横からさしているせいで、高い鼻の影になった右目は見えなかったが、それでも、月に照らされた左の目の中には、確かに僕が捕えられていた。

 彼女の目は、金属の様に冷たく、瞳に映った僕は、まさしく、その瞳に固く捕らえられてしまっていた。

 このままずっと動けなくなるのではないかと感じたが、やがて、そんな思考すらゆっくりと凍り付いていくのが分かった。

 呼吸が苦しくなった。

 まるで、周囲に透明な水が満たされているようだ。

 『幽霊』の目が僕を見ている。

 そのまなざしは、睨むのではなく、見つめるのでもない。何かを訴えるのでもなく、僕を観察するのでもない。

 傍観、監視、分析…。

 いや、それはまなざしですらないのかもしれない。

 彼女の瞳は、まるで、別の世界だったのだ。

 つまり、遠い、きっと、この世ではない世界の無人の森。

 そこに湧く泉が、静かに月に照らされている。

 泉は透明に澄んでいて、小さな湧き水が、方々で底の砂地を突き破って湧いている。

 音もなく、それはまるで、蠢く虫のようにも見える…。

 でも、その静寂はとても脆く、明らかに危険だ。

 ほんの少し触れるだけでも、致命的に破壊されてしまうのだろう。

 そんな繊細な静寂の裏側には、圧倒的で、質量のある『闇』が、悪意を持ったマグマの様にうねっているのだ。

『闇』は、ほんの少しのバランスの変化をきっかけにして、大地を割って吹き出し、森の全てを飲み込み、溶かし込み、やがて、どす黒い混沌の固まりと変えるつもりなのだ。

 このままでは、僕は彼女の森に吸い込まれてしまいそうだ。

 叫ぼうとしたが、僕の声帯は、まるで声の出し方を忘れたように、小さく痙攣したままその機能を失っていた。


「月…、明日…、もうすぐ…、明日…」


『幽霊』は歌うように、もう一度、ゆっくりとそう言った。

 いや、幽霊が言ったのかどうかも分からない。

 彼女の顔はプラスチックの人形のように固定されていて、呼吸もなく、その唇は少しも動いてはいなかったのだ。


 驚いた事に、やがて『幽霊』は僕の目の前から消えてしまった。

 逃げた訳でも隠れた訳でもない。

 まるで、月の光の粒子によって浮かび出されたその姿が、ゆっくりと元の光の粒子へと崩壊していくような、そんな消え方だった。

 僕は、静寂の中に戻された。

 徐々に呼吸を取り戻し、現実の世界に帰っていく。

 耳に、背後で遊ぶ子供たちの声や物音が戻って来た。

 僕は手のひらを広げる。

 手は、べとべとした汗でぐっしょりと濡れていた。

「どうしたんだ?」

 呆然と座り続ける僕を見て不審に思ったのか、同室の足の悪い少年がやって来て、僕に聞いた。

「今、幽霊がここに…」

「幽霊?」

 彼は怪訝そうに眉をひそめた。「あいつなら今日は来なかったぜ。看護婦さんの話を盗み聞きしたんだけど、あいつ、そろそろヤバいらしいぜ。今は部屋で寝てるよ」

「でも、確かに…」

「本物の幽霊じゃないのか、それは…」

 少年は僕がふざけていると思ったのか、軽くそう笑って、車椅子で走り去っていった。 さっきまでの静寂の記憶があるだけで、 『幽霊』の余韻のような物は、周囲のどこにも残されてはいなかった。

 元気な笑い声。何かにぶつかる音。床を慣らすキュッと言うスリッパの音…。

『幽霊』と共有した世界は、今、こうしてみんなが遊んでいる世界とは、ちょうど正反対の場所だったように思えた。


 やがて、僕は知った。

 あの静寂こそが、つまり、まぎれもなく、確実に僕たちを待ち受ける『死』そのものだったのだ。

 気付いたのは、その翌朝だった。


    2


「ウガアアアーッ…」

 翌朝、病棟の多くの仲間は、その不吉な呻き声で目覚めた。

 「ウアアアアッ…、グァッ、ゲホッ、ウアアアーッ」

 それは、早朝の空気を切り裂く様に鋭く、そして、同時に地鳴りのように重く、明らかに死の匂いを含んだ、絶望的な叫び声だった。「アアアアアーッ!」

 やがて、容体が急変したらしい『幽霊』が、慌てた様子のお医者さんと看護婦さんによって、運び出されていった。窓際のベットに横になっていた僕は、当然、その光景を目の当たりにした。

 僕の目にそれが見えたのは、ほんの一瞬だった。病室の廊下に面した窓の向こうを、ストレッチャーに乗せられた『幽霊』が、ガラガラと音を立てて運ばれていった。

 幽霊の口からは夥しい量の血が吹き出し、シーツや先生の白衣を赤黒く染めていた。目は飛び出すように見開かれ、べっとりと血に濡れた痩せた両腕が、まるで、苦痛からの救いを求めるように、何もない虚空を掴もうとしていた。

「グアアアアッー」

 唇は張り裂けんばかりに開かれ、幽霊が、と言うよりも激しい断末魔の苦痛と恐怖そのものが、死を司る地獄の獣の勝利の咆哮のように、恐ろしい叫び声を上げていた。

 点滴を持った看護婦さんや、顔に酸素マスクを被せる看護婦さんに囲まれて、血の海の中の彼女は、窓の外を慌ただしく流されて行ったのだ。


 そして『幽霊』は、廊下の端の扉から、二度と戻っては来なかった。

 三日後。『幽霊』のいた病室の扉は、開け放たれいた。

 僕は廊下を通る時に、その病室を覗き込んだ。

 ベットの枕やシーツは取り去られ、部屋には何も『幽霊』の痕跡は残されてはいなかった。

 病室はまるで、プラグを抜かれた新品の冷蔵庫のように、生暖かかい澱んだ空気を含んだまま、がらんとしていた。


     *


 僕の体が弱ったのは、その日からしばらくたった夜だった。

 その夜、開かれた扉から抜け出した僕は、ソファの幽霊の座っていた場所に座り、窓の外を眺めていた。

 扉が開いている事に、まだ、誰も気付かないらしく、待合室には誰もいない。

 あの夜のように、月が照っていた。

 月に照らされ、窓の向こうにガラスで隔てられた中庭の様子が見えた。

 車が通るためのロータリーがあり、その周囲に何本かの木が植えられている。

 木は地面に黒い影を作り、駐車スペースに止められた何台かの車が、月の光に静かに浮き上がっていた。

 その向こうには、民家が立ち並び、雑然と並ぶビルやマンションの明かりも見える。

 窓の外の街はとても静かで、それはまるで、海の底の光景にも見えた。

 景色は、僕の中で序々に色彩を失い始め、TVの画面を見ているように、僕の目前から現実の感触が遠ざかっていった。

 やがて、こちら側とあちら側のどちらかが本物、でどちらが現実なのか、全く分からなくなった。

 窓の向こうは、海の底。

 いや、僕たちは水族館の水槽の中に…。

 やがて、風景が揺らぎ、平衡感覚も失われていく。

 危険な兆候だと、とっさに感じた。

 僕は立ち上がる。

 それはまるで、浮遊するような揺れる感覚。

 意識が曖昧になり、体が意思から遠ざかっていく。

 僕は月を見た。

 いや、僕は何も見てはいない。

 月が僕を見ていたのだ。

 まるで、あの夜の、『幽霊』の瞳のように…。

 既に、僕の体は僕の物ではなくなっていた。

 僕の全ての感覚が遮断された。

 視界がとぎれる。

 僕は懸命にもがいたが、僕の頬は床の冷たさと固さを感じていた。


    *


 僕は明るいライトの下に寝かされていた。

「もう一本注射を打つわよ」

 注射器を見て、僕は力なく首を横に動かした。

「でも、この注射をしないと、もっと痛い思いをするのよ」

 喋ろうとしたが、唇は全く動かなかった。

 右手の二の腕に鋭い痛みを感じた。

 もうそこに目を向ける事すら出来ない。

 やがて、僕を覗き込んでいた看護婦さんの姿がぼやけて来た。

 体は再び、僕の意識から離れようとしているのだ。僕は諦めて、目を閉じた。


    *


 夢を見ていた。

 そこはプールか何かなのだろうか?

 僕は生温い水中を、仰向けの姿勢で漂っている。

 音は聞こえない。

 太陽の光なのか、水面に眩しい輝きが、揺らめいている。

 よく見ると、プールサイドに、人影がある。 まるで、僕を見下ろすように…。

 息が苦しくなった。

 水を飲まないように、喉を懸命に押さえなが、水面に向けて手を延ばす。

 しかし、透明な水面は、まるでガラスのように堅く、僕を外の世界から完全に隔てていた。

 恐怖にかられて、水面を乱打する。

 水面は揺らめきを映すだけで、ピクリとも動かない。

『助けてくれ…』

 僕の叫びは全く音にはならない。

 その代わり、僕は懸命に溜めていた息の全てを吐き出してしまった。

 やがて、体中の力が抜けていった。

 僕には何も為す術はなかった。

 僕の体は仰向けの姿勢のまま、ゆっくりとプールの底へと沈んで行く。

 背中が水底の固さに触れるのを感じた。

 ぬるりとした水の中に、心臓の音だけが響いている。

 それが、少しづつ弱くなるのが分かる。

 水を呼吸し続ける肺は、やがて、それすらも吸い込む力を失っていく。

 意識は遠くなるが、目だけは完全な機能を保っていた。

 僕は目を懸命に見開く。

 プールサイドの人影が、水面に近付く。

 人影はしゃがみ、顔を水に付けた。

『幽霊』だった。

『幽霊』があの時の様に、真っ白な顔で、僕を見つめていた。

 彼女の顔には、やはり表情らしきものはない。僕を見ているのかすら分からない…。


      *


 目を開けると、父と母が覗き込んでいた。

「痛む?」

 母がそう言うので、僕は首を横に振った。

「まだ、麻酔が効いているのね。手術は成功したからゆっくり休みなさい」

「よかったな」

 父は優しくそう言った。

 小さく頷いて、僕は眠りの中に落ちて言った…。


 それからの僕は、順調に回復をした。

 やがて、動けるようになった僕は、『幽霊』がよく座っていたソファーに横になって、夜空を見ていた。

 僕が見上げれば、月がいつも輝いていた。

 四角く区切られた夜空に、丸く輝く月が差し登っていた。

 目を閉じると、瞼の裏に微かにやわらかで冷たい光が感じられ、それは、あの時の『幽霊』の頬を思わせた。

 僕は、退院する日を迎えたら、どこかにあるのだろう『幽霊』の墓に行こうと考えていた。


    *


 退院の日、最後の診察を終えた僕は、両親が担当医師と話している間、あのソファーに座り、明るい太陽の光に照らされた中庭を眺めていた。

 廊下に響くアナウンスの音、子供の泣き声、話し声…。

 目を閉じて、やがて懐かしくなるのだろうその音を、耳に感じた。


「さあ、いくわよ」

 母親が言う。

 僕はそれに笑顔で答え、立ち上がった。

 両親に手をつながれ、長い間降りる事が出来なかった階段を降りる。

 番号表示のある薬局の前には、沢山の人たちがいた。

 病院の入り口に、各科の診療受付のカウンターが並んでいた。

 そして、その先には…。

 ガラスの扉の向こうの世界。そう、光と実感に満ちた『現実の世界』が僕を迎えるように、太陽の光の中で揺らめいていた。

「さあ、家に帰るぞ」

 父は言った。僕は頷く。

 ガラスの扉を出ようとした時、不意に僕は、外の世界から隔てられた。

 両親の手は僕を擦り抜け、彼等は僕に背中を向けたまま、ゆらりゆらりと去って行く。「待ってよ…」

 遠ざかる両親に向けて叫んだ。

 それが無駄だとは気付きつつも…。

 僕の回りには、生温い水が満ちていた。

 音は聞こえない。

 振り返ると『幽霊』いた。

「僕は、死んだんだね」

『幽霊』は頷く。

「死んだ。ずっと前。手術台で…」

「………」

 僕は全てを理解しなくてはならなかった。『幽霊』は僕に近付き、僕の唇にゆっくりと口付けをした。

 僕はそれを受け入れるしかなかった。

『幽霊』の唇や頬からは、やはり、体温のようなものが全く感じられない。

 僕だって、きっと同じなのだろう。

 唇が離れた後、『幽霊』は僕を見つめて、静かに微笑んだ。


      3


 僕らは、この世ではない無人の森にいる。

 傍らでは、泉が湧いていた。

 『幽霊』は僕の手を取り、泉の中に手を付けた。

 透明に澄んだ湧き水が、方々で底の砂地を突き破って湧きあがる。

 それはまるで、蠢く虫のように…。

 波立った水面の上には、真っ白な満月が、音もなく揺らめいている…。

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