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悪徳令嬢の金勘定

作者: 深山恐竜


 窓の向こうに見慣れた馬車が見えたので、オリヴィアは廊下に出てカーテンの裏に隠れ、玄関ホールに聞き耳を立てた。そのうち、馬車から降りたオリヴィアの婚約者である伯爵令息セオドア・ダウンゼンドが入ってくるはずだ。

 予想通り、来客を告げるベルと、使用人の足音の後、玲瓏な男の声が聞こえる。


「お迎えに参りました」

 セオドアの声である。ここからは見えないが、彼は金髪と明るい水色の瞳、そして令嬢たちの心一瞬で射止める麗しい笑顔を持っている。


 母が応対する。

「まあまあ、わざわざありがとうございます。今日は花まつりに?」

「ええ。オリヴィアが行きたいというので」

「ごめんなさいねぇ。わがままを言って。あら? オリヴィアは何をしているのかしら? すぐに呼んできて頂戴」

「いえ、私が勝手に約束の時間よりはやく来てしまったのです。……はやくオリヴィアに会いたくて」


 その砂糖菓子のような言葉を、母は感慨深く受け取った。

「オリヴィアをそこまで愛してくださるなんて……娘は幸せ者です」

 母の言葉を聞いて、オリヴィアは胸を撫でおろす。

 そして、カーテンの裏から出ると、玄関ホールに向かった。

 顔には、愛しい恋人との逢瀬が待ちきれない、といった風情の表情をのせる。


「お待たせしました」

「ああ、オリヴィア。今日もかわいいね」

 今日のセオドアは花束を持っていた。春らしく、かわいらしいピンク色の花が集められた花束だ。彼はそれをオリヴィアに差し出す。彼は甘い笑顔を浮かべている。

 オリヴィアは口角がひきつりそうになるのを懸命に堪えて、それを受け取った。花まつりの日は女性が男性から花を贈られる風習があるのだ。

 駄目押し、とばかりに、彼は花束から一本の花を抜くと、それをオリヴィアの髪に飾った。

 母はオリヴィアたちの仲睦まじい様子に涙を浮かべて喜んでいる。


 オリヴィアは笑った。

「ありがとうございます。セオドア様。それでは、お母さま、行ってまいります」

「気を付けて。せっかくのお祭りですもの。楽しんでいらっしゃい」

「はい」


 馬車に乗り込んだ瞬間、オリヴィアたちはどちらもそれまでかぶっていた仮面を脱ぐ。

 ようするに、セオドアは甘い笑顔から疲れ切った顔に、オリヴィアは恋人との逢瀬に胸をときめかせる乙女の表情から無表情に、それぞれ変わるのだ。


 馬車はゆっくりと進みだす。

 痛いくらいの沈黙がオリヴィアたちの間に落ちて、車軸がたてるぎしぎしという音だけが響いている。

 馬車の窓の外は春らしく、小鳥が飛び、花が咲き誇っていた。


 オリヴィアはこれでも婚約者なのだから、と思って一応言葉をかける。

「ずいぶん早く来られましたね」

「仕事はさっさと終わらせるに限る」

 彼の「仕事」という言葉に複雑な気持ちを抱いていた時期もあったが、もはやこの関係が始まって1年。オリヴィアの中の乙女は死んでしまった。


 彼が尋ねる。

「金は?」

「ここに」

 オリヴィアはカバンから封筒を取り出し、彼に渡した。中には5カードゥが入っている。オリヴィアの月の小遣いの半分である。

 彼は中身を確認した後、さらに言った。

「足りないぞ」

「え?」

「花束の代金だ」

 さきほど渡された花束の代金の話をしているらしい。

「……ああ」

 オリヴィアは肩を落とす。ごうつくばりの商人であっても、恋人に花を贈る日の花束代金を婚約者に請求などしないだろう。

 しかし、オリヴィアは財布を開く。

「おいくらですか」

「1カードゥ」

「高すぎません?」


 花なんて、露店で買えば3リン、立派な花屋で買ったとしてもせいぜい5リンだろう。

 しかし、彼は請求額を下げる気は毛頭ないらしい。

 オリヴィアはため息をついて、彼の要求通り1カードゥをさらに支払った。


 仕方ない仕方ない。オリヴィアは自分に言い聞かせる。

 なにせ「仲のいいふりをしてくれたら1日5カードゥ払います」と言い出したのはオリヴィアなのだから。





 伯爵令息セオドア・ダウンゼンドは悪い男だ。

 伯爵家の長男でありながら、その悪評はとどまることを知らない。


 かつて、彼は公爵令嬢オーロラ・オズボーンと婚約していたが、パン屋の娘であるアイラに一目惚れをした。彼はアイラと結婚するためにオーロラ嬢との婚約破棄を画策した。

 そのやり方は単純で、オーロラ嬢にアイラの暗殺事件首謀者の濡れ衣を着せて糾弾するというものであった。

 無論、暗殺事件というのはセオドアとアイラの自作自演であり、そんな三文芝居にまわりの大人がだまされるはずもなく、結局オーロラ嬢との婚約は破棄、アイラは遠方の修道院預かり、セオドアは伯爵家の継承権を失うこととなった。


 そんなセオドアの次の婚約者として引きずり出されてきたのがオリヴィア・グランヴィルである。茶色い髪に茶色い瞳、どこにでもいる、秀でたところのない男爵令嬢だ。


 婚約に至った理由は三つある。

 伯爵家は次々と問題を起こすセオドアをさっさとどこかに追い出したかったから。

 男爵家は家督を継承できる男子が生まれなかったため、婿養子を探していたから。

 没落寸前の家計を伯爵家が援助すると約束してくれたから。


 このように、見事に利害が一致してしまったのだ。


 どこからどう見ても利害のための結婚であるが、オリヴィアはセオドアとよい関係を築こうと努力をした。しかし、セオドアはその努力をことごとく無下にした。

 彼は手紙に返事もしないし、ようやく逢瀬の約束をとりつけてもすっぽかす。オリヴィアの誕生日を覚えてもいないし、オリヴィアの贈った誕生日プレゼントは送り返してきた。とどめに、オリヴィアがクッキーを焼いて彼に渡したら、彼は目の前でそれを犬に食べさせた。


 オリヴィアはそうそうに音を上げた。いくら望まぬ婚約だからといって、このような扱いを受けるのは不当だ。オリヴィアたちの仲は急速に悪化した。

 そんなオリヴィアたちを見て、母はすっかりふさぎこみ、ついに寝込んでしまった。

「裕福な家に産んであげられなくてごめんなさい」

 そんなことを言って悔し涙を流す母を見て、オリヴィアはセオドアに取引を持ち出したのだ。


「仲のいいふりをしてくれたら1日5カードゥ払います」


 オリヴィアの月の小遣いは10カードゥである。もちろん、この金の出所はめぐりめぐってオリヴィアの家に支援をしている伯爵家なのだが、セオドアはあの事件以来、自由になる金がほぼ無く、すべて親の管理下にあるということだった。

 だから、セオドアは簡単にその取引にのってきた。


 それ以来、母の前で何度もセオドアにオリヴィアに惚れているふりをさせた。

 仲良くなったオリヴィアたちを見て、母の体調は一気に回復した。

 オリヴィアは母のため、金策に奔走することになったのであった。





「お金が、ない……」

 オリヴィアは自室で小遣い帳とにらめっこしたあと、そうつぶやいて机につっぷした。

 うららかな春の日差しが部屋に差し込んでいる。

 しかし、そんな天気とは裏腹に、彼女の財布には寒風が吹いている。


 ――今月は花祭りに、それから卵祭りに……ああもう! なんでこんなに恋人のためのお祭りが重なっているのよ! 誰よ考えた奴! そんなにいらないわよ!


 心の中で悪態をつく。金がないと心がすさむものだ。

 とはいえ、悪態をついても金にはならない。金は稼がなければ手に入らないのだ。

 今月は花祭りと卵祭りで10カードゥで足りる見込みだったというのに、花束代金として1カードゥ支払ったことで1カードゥ足りなくなってしまったのだ。


「仕方ない、今日もあれに行くしかない……!」

 オリヴィアはそう言ってクローゼットの奥に隠していた男装用の服を取り出した。

 「あれ」とはギルドで仕事を受けることである。男爵令嬢である世間知らずなオリヴィアにできる仕事は少ないかと思われたが、意外と世の中は仕事であふれていた。

 貴族別宅の草むしり、犬の散歩、子どものお守り……。

 オリヴィアはたくさんの雑用ともいえるそれらを淡々とこなした。無論、それらをしたところで、稼ぎは微々たるものである。


――でもでも! 塵も積もれば山となるんだから!


 そして、山となった金はセオドア課金に消えていくのだが。

 そこまで思って、オリヴィアは肩を落とした。




 貧乏貴族のオリヴィアの家にはオリヴィア付きのメイドなどいない。

 彼女は簡単に家を抜け出し、まっすぐにギルドに向かった。

 そこで掲示板を睨みつける。


 今の彼女は長い髪をひとつにまとめて帽子の中に隠し、ひざ下の茶色いズボンと同じ色のシャツを着ている。彼女は出るとこが出ていない体型だったため、オリヴィアの男装はいまのところ誰にも見破られていない。


「うーん」

 オリヴィアは唸る。掲示板には仕事内容と報酬が書いてある。

「退治系は無理……薬草収集も、城壁の外に行くのは無理……、子守りの仕事……ない……犬の散歩……もなし、かぁ……」

 ここのところ、東部で紛争が起きて難民が王都に押し寄せた。オリヴィアにできる仕事の大半は彼らに取られてしまっている。

 オリヴィアはため息をつく。このままでは、セオドアに金が支払えず、母に気苦労をかけてしまう。


「おい、どうした? 坊主」

 唸るオリヴィアに声を掛けてきたのは、最近顔なじみになっている傭兵である。彼は鍛え上げた肉体と剣術で、討伐系の仕事を多く引き受けている。


 オリヴィアは泣きついた。

「何かいい仕事ない?」

 その言葉だけで、男はだいたいの事情を察した。彼は肩をすくめて笑った。

「ここのところ難民が来ているからなぁ!」

「うーん……」

「まあ、もう少しで難民たちも帰れるだろうし……そう悲観すんな」

「そうなんですか?」

 男は目を丸くする。

「あ? 知らねぇの? 紛争はアシャー団長が沈めたんだぞ」

「へえ」

 オリヴィアは頷いたが、それほど興味がわかなかった。

 いずれ難民たちが家に帰ってまた仕事が舞い込んでくる、といっても、いままさに今月の金にオリヴィアは困っているのだ。


 しかし、男はまだその話を続ける。

「今度、アシャー団長の叙勲式があるんだってさ。ついに団長が男爵だってよ!」

「わあ。めんどくさい」

「ん?」

 オリヴィアは心底ため息をついた。叙勲式があるということは、当然貴族向けのパーティもあるはずだ。

「いや……叙勲式があるなら、恋人と見に行かないといけないから……」

「坊主、女がいるのか!」


 男は豪快に笑い、オリヴィアと肩を組む。

 最初はオリヴィアはこうした行為には抵抗があったが、それもそのうち消えてしまった。ギルドで稼ぎつづけるには、こうした横のつながりも大事なのだ。


 男は言った。

「悪いことは言わねぇ、ちゃんと女を誘って、しっかり機嫌をとれよ」

 オリヴィアは頷く。

 ほんとうに、ちゃんと誘って、しっかり機嫌を取られてみたいものだ。オリヴィアはむしろちゃんと誘って、しっかり機嫌を取っている側だ。


 オリヴィアは肩を落とす。

「でも、その機嫌を取るお金がない……」

 セオドアの機嫌は5カードゥだ。高い。高すぎる。

 叙勲のパーティのことを考えると、今月はあと6カードゥ必要になる計算だ。

 気の毒なものを見るように、男はオリヴィアを見た。そして「坊主なら、いけるんじゃねぇか?」と言った。


「なになに? 何の話?」

 オリヴィアは男が何か金になる話をしだす気配を感じ、耳をぐっと男に寄せた。

「ほら、サイン通りでさ、夜になると女が立っているだろう? あれ、私娼ってんだ」

「ししょう」

「そう。店を介さずに体を売るのさ。ここいらじゃあ一番の高給取りだぜ。1回で5カードゥだ。坊主はその姉ちゃんたちの客引きに使ってもらえばいいだろ」

「体を、売る」

 オリヴィアの脳内に稲妻が走った。


 ――そうか、その手があったわ!


「ありがとう! ちょっと行ってくる!」





 ――1回で5カードゥ!


 オリヴィアの頭の中はそれでいっぱいだ。

 オリヴィアにとっては、体を売るということへの不安よりも、母を安心させたい気持ちが勝っていた。彼女は意気揚々と家に引き返すと、日暮れを待って再び家を出た。――今度は女の服装で。


 サイン通りに着くと、そこには聞いたとおり、女たちが立っていた。客引きの少年たちもいる。少年たちは自分の姉さんがどれだけ美人かを喧噪して回る。

 オリヴィアに迷いはなかった。そもそも、結婚したとしても、セルジオと体を重ねる自分が想像できない。きっとセルジオは1回ごとに金を請求してくるだろう。しかし、そこまでオリヴィアは頑張るつもりはない。


 結婚さえしてしまえば、母と父は田舎に引っ越すはずである。となれば、無理に仲良くする必要などない。セルジオとは白い結婚になるだろう。

 つまり、いまオリヴィアが体を売ったとしても、それが将来自分に悪影響を与えないのだ。


 オリヴィアはすました顔を作って、彼女たちの列に加わった。

 ひとりの女がオリヴィアを見てくすくすと笑う。

「どこから来たの、お姫さま。そんな服着て」

 そう言われて、オリヴィアは自分の服を見る。白のレースがついたブラウスの上に黄色いワンピースだ。春らしくて気に入っているのだが、なにか変なのだろうか。

 そう思い回りを見渡すと、確かにそこに立っている女性は皆短いスカートに胸元の大きく開いたブラウスを着ていた。


「あの」

 オリヴィアが何か言おうとした瞬間、男がやってきて隣の女性に声を掛けた。

「おう、ローズ。いけるか」

「あんた。今日も来たのかい」

「今日はいくらだ」

「いつも言ってんだろ。あんたから見て、あたしの価値はいくらなんだい?」

「財布の中身全部さ」


 2人は腕を組んで歩き出す。オリヴィアはその2人をじっと観察する。男は腹が出ていて、赤ら顔だ。シャツにシミもある。笑うと前歯がないのが見えた。しかし、女は笑顔で男の腕に頬を寄せる。

 オリヴィアはそれを見て嫌な気持ちになったが、5カードゥか、それ以上の報酬は魅力的だ。彼女は胸元のボタンに手を伸ばした。


 その時、路地に大きな悲鳴が響いた。つんざくような女の悲鳴だ。

 そして何人もの足音。怒声も聞こえる。騒ぎは悲鳴とともにこちらに向かっている。


「摘発だ!」

「私娼狩りだ!」

「警察だ!」


 女たちは口々に叫んで蜘蛛の子を散らしたように逃げていく。


「え? え?」


 事態が飲み込めないオリヴィアであったが、逃げなくてはいけない気がして足を動かす。しかし動転して速く走れない。

 転びそうになりながら闇雲に足を動かす。


 角を曲がった瞬間、人影にぶつかった。

「おっと……!」

「きゃあ!」

 地面に尻もちをつく。顔を上げると、そこには肩幅の広い男が立っていた。

 彼は慌てて膝を折ると、オリヴィアに手を差し出す。

「大丈夫かい、嬢ちゃん? 悪かったな」

「あ、え、えと」

 オリヴィアは焦る。手首に激痛が走った。

 ――転んだ拍子に手をついて手首を捻ってしまったのだ。


 警察の怒声が迫る。


「そっちに逃げたぞ!」

「全員捕まえろ!」


 オリヴィアは怖くなって、とっさに男に抱きつく。男は慌てながらも、オリヴィアの背中に手を添えた。

 警察の靴音がオリヴィアたちに近づく。


「この辺で私娼の摘発をしております。身分証を……」

「……あ? 俺が私娼を買っていると言いたいのか?」

「……規則ですので」

「警察は間抜けになったんだな。俺が誰か分からねぇらしい」

「……! 失礼いたしました!」


 オリヴィアは冷や汗をかいていた。耳元にまで心臓の音が聞こえる。

 オリヴィアは私娼となって体を売る決意はしたものの、摘発されて母を悲しませることだけはしたくなかった。

 彼女はぎゅっと目をつむる。


 ――はやく、はやくどっか行って……!


 警察が尋ねる。

「失礼ですが、そちらの女性は?」

 警察は首を伸ばしてオリヴィアの顔をのぞき見しようとする。

 男が答える。

「連れだ。送り届ける途中だったんだ。見ての通り、いいとこのお嬢さんだ。お前らが大声出すから、怯えてしまった」

 男はオリヴィアの背中をぽん、と叩く。警察はオリヴィアの足首まである黄色いワンピースを見ると、納得した顔で去っていった。


 男が言う。

「ほら、もう大丈夫だ。嬢ちゃん、立てるか?」

「あ、ありがとうございます」

「こんな時間に、どこの貴族の子だ?」


 オリヴィアは座り込んだまま、男をじっと見上げる。

 男は筋肉があり、手足はすらりと伸びている。腹も出ていないし、前歯も清潔感もある。艶のある黒髪に、きれいな緑の瞳。おまけに、警察の摘発から守ってくれた。満点といってもいい。


 オリヴィアは彼の手に右手を乗せて言った。

「あなた、私を買ってくれませんか」

「は?」

 オリヴィアは真剣に言い募る。

「私を買ってください」

 男は目を見開き、そして天を仰ぐ。

「嬢ちゃん、私娼だったのかよ……俺はてっきり……」

 男はもごもごと何事かを言うが、オリヴィアはそれを無視した。

「はい私娼です。今日からですけど。買ってくれませんか」

「近頃の私娼ってのは、初心なふりをして男をだますのか?」

「私、だましたりしません。誠実さが売りです」

「世も末だ……」


 男はじっとオリヴィアを見た。そして彼女の右手を見る。そこは赤く腫れていた。

「何で困ってるんだ?」

「はい?」

「金に困ってこの仕事をしているんだろう?」

「ええ。今月中にあと6カードゥどうしても必要で」

「きれいな服を着ている。家は金持ちだろう?」

「親に内緒で必要なんです」


 母にこのことは絶対秘密なのだ。

 男は再び天を仰ぎ、それからため息をついた。

「嬢ちゃん」

「はい」

「乗りかかった船だ。俺が払ってやるよ」

「ただで貰うわけには」

「右手、怪我させてしまった。その治療費として俺は10カードゥを渡す。いいな?」

「いいんですか」

 金を渡される。しかし、オリヴィアはこの金を治療費としては使わないだろう。それは男もわかっている。大人の嘘だ。

「ほら、家に帰って真っ当に生きな」

「道に外れたことはありません!」

 オリヴィアはそう言って、手首を抑えながらその場から駆けた。

 男はその後姿をずっと見ていた。



 その日、朝からセオドアはいらいらと私室を行き来していた。そして使用人を呼び出して手紙がないことを確認してさらに髪を掻きむしった。

 今日は卵祭りである。恋人たちが卵の殻に絵を描いて街中に飾り、永遠の愛を誓いあう日である。


 こうした行事のとき、いつもなら一週間前にはオリヴィアから誘いの手紙が来るのだが、それがいくら待っても来なかった。まさか当日にいきなり来るつもりかと思い、今日こうして着替えて待っているが、昼過ぎになっても何の音沙汰もない。

 苛立ちは頂点に達し、セオドアは馬車に飛び乗るとオリヴィアの家に向かったのだった。


 家に着くと、いつものようにオリヴィアの母親が出迎えた。

 彼女は両手を合わせて、セオドアに行った。

「まあ、お見舞いに来てくださったのね」

 何の話かわからず、セオドアは首を傾げる。

「見舞い……?」

「ええ? オリヴィアったら、そそっかしくて、それであんな怪我を……」

「怪我!?」

 セオドアは驚き、そしてセオドアが驚いたことに母親が驚いた。


 応接室で待っていると、静かな足音がしたあとにドアが開き、オリヴィアが入って来た。

「ごきげんよう、セオドア様」

 膝を曲げて挨拶をする彼女の右手に包帯が巻かれているのを見て、セオドアは眉間に皺を寄せる。

「……怪我、だと?」

「はい。右手を」

「手紙も書けないほどの怪我か?」

「手紙?」

「今日は卵祭りだろう。君から誘いがなかった」

「ええ。でも、怪我をしていますから行けません。卵に絵を描こうにも、筆も持てませんし……節約になりました」

 例の男からもらった10カードゥはまだオリヴィアの手元にある。母はオリヴィアが怪我をしたから大事をとって行かないと説明したら「そうね。そうしたらいいわ」と言っていた。

 つまり、行事での出費を1回分節約できたのである。


 満足げなオリヴィアに対して、セオドアは不満げだ。

「一報があってもいいんじゃないのか」

「でも、卵祭りに行くという約束をしていないのに、行けないと連絡するのは変でしょう?」

 セオドアはため息をつく。

「そうじゃない。恋人が怪我をしたなら、見舞いに行くのがふつうだろう。母親は怪しまなかったのか」

「それはまあ、大丈夫でしょう。あなたがこうして来ましたから。……でも、今日は私が呼んだわけではありませんから、お金は支払いませんよ」

 セオドアはイライラして、椅子をひいて乱暴に座った。

 この女のこういうところが好きではなかった。もう少し女らしいかわいげがあったなら、と何度も思った。


 セオドアはくっと口角をあげて話し出す。

「月末には、アシャー団長の叙勲パーティがあるらしいぞ」

「そうですね。そっちはさすがに、よろしくお願いします」

 感情のこもらない声で言うオリヴィアに、セオドアは鼻を鳴らした。

「値上げだ」

「え?」

「俺はここのところ、大人しくしていた甲斐あって、社交界での評判もよくなってきている。高位貴族のご令嬢から茶会の誘いがあるくらいにな。そんな俺にエスコートさせるんだ。当然だろう?」

「おいくらですか」

「20カードゥだ」

「高すぎます」

「払わないなら行かない。せいぜい母親と泣いていろ」

 

 その言葉に、オリヴィアは俯いた。

 ――ほら、泣きつけ。

 セオドアは首を伸ばしてオリヴィアの反応を見たがった。

 彼はずっと、オリヴィアが金に困って泣きついてくれば面白いと思っていた。


 はじめてオリヴィアに会ったとき、地味でつまらない女だと思った。

 それが、金を積むから仲のいいふりをしろ、と言われて、興味を持った。

 いまでは、彼女が俺にしおらしく頼むのなら、金とは関係なく出かけてやってもいいとさえ思っている。

 しかし、オリヴィアは一筋縄ではいかない。


 彼女はきっと顔をあげると、セオドアの条件を飲んだ。

「わかりました」


 セオドアは動揺した。

 オリヴィアの家には使用人はいるが、オリヴィア専属のメイドもいないほどに貴族としては困窮している。

 前にちらりと聞いた話では、月に10カードゥの小遣いがあるだけで、宝石を持っているわけでも事業展開をしているわけでもない。

 そんな彼女に、今回だけならまだしも、今後ずっと会うたびに20カードゥを支払えるわけがない。


 ――なんで泣きついてこないんだ……?


 それどころか、涼しい顔をしている。セオドアは思い通りにならないオリヴィアにますます苛立った。





「あのばか男!」


 セオドアを追い出したあと、オリヴィアは寝椅子に倒れ込むと、思い付く限りの罵詈雑言を並べ立てながら拳を握ってあちこちを叩きまわった。


「あほ! 金の亡者! 最低男! 女の敵! 愚か者!」


 そして少し冷静さを取り戻したあと、仰向けになって息を吐いた。天井を見上げて自分に言い聞かせる。


「落ち着きなさい、オリヴィア。怒っても無駄よ。1カードゥにもならないわ。いまは稼ぐことに体力を注ぐのよ」


 ――20カードゥ……。


 気の遠くなるような額だ。

 オリヴィアの月の小遣いが10カードゥ。

 今月は卵祭りに5カードゥ、花束に1カードゥ支払った。男から治療費として10カードゥもらい、手元には合わせて14カードゥある。

 つまり、あと6カードゥ足りない。

 オリヴィアは唾をごくりと飲み込んだ。


 ――やるっきゃない!



 その夜、オリヴィアは再びサイン通りに立った。

 初めての夜の成功が、オリヴィアの気を大きくさせていた。

 彼女は前回とは違い、黒いワンピースを着ていた。普段なら下に長袖のブラウスを着るのだが、今夜は大胆に一枚で着ていた。私娼たちはそんなオリヴィアを胡乱な目で見ている。

 オリヴィアは今日こそしっかり私娼として稼ぐつもりで意気込んでいた。

 しかし、そううまくもいかないものだ。


 何人か、オリヴィアに興味を持った男はいた。

 中には具体的な値段を提示する者もいた。

 しかし、そのいずれも、他の私娼たちが横からかっさらっていってしまう。


「あの子、訳ありっぽくてさ。めんどうに巻き込まれるよ。やめときな」

「私の方が慣れてていいご奉仕するわよ」

「あんな貧乳のどこがいいの」


 オリヴィアは私娼たち好き放題に言われてしまったが、どれも事実なのでオリヴィアは口を紡ぐしかない。

 男装をはじめたときは自分の出るとこ出ない体型を誇らしく思ったものだが、いまはそれがうらめしい。

 オリヴィアは私娼たちの豊かなそこを横目にハンカチを噛んだ。






 オリヴィアはしばらく路地に立っていたが、夜も遅くなり、人通りがまばらになってくると、ついに白旗を上げた。


「くっ……無念だわ……」


 オリヴィアは路地で客を取るのをあきらめ、酒場の近くに移動することにする。私娼たちの会話を盗み聞きしたところ、酒場の近くでも客がとれるようだった。

 酔っ払いの相手は大変だろうとは思うが、背に腹は代えられない。なんとしても、不足する6カードゥを稼がなくてはいけないのだ。


 その道中、見知った顔の男を見つけた。

 艶のある黒髪、水色の瞳。均整のとれたすらりとした手足。

 こないだオリヴィアに治療費として10カードゥをくれた男である。

「あ、10カードゥさんだ」

 オリヴィアはその男をそう呼んだ。彼の名前を聞きそびれたのだ。


 彼は酔いつぶれ、何人かの男たちに介抱されている。

「もう、誰だ団長にこんなに飲ませたの」

「祝いの席だからってやりすぎだぞ」

「いやー、まさか団長が酒に弱いなんて」

「ははは。人は見かけによらないもんだ」


 オリヴィアは男たちに近づくと、ひとりの袖を引いた。

 彼女の頭にはいい案が浮かんでいた。


 男のひとりが振り返ると、オリヴィアは迷いなく言った。

「その人、私のお客さんです。私が宿に連れ帰ってもいいですか?」

「え!?」

 それを聞いた男に衝撃が走る。

「なんだ?」

「アシャー団長が女を予約してたって……!」

「ええ!?」

「ええええええ!?」

「団長、女に興味が!?」

 ざわつく男たちを無視して、オリヴィアは地面に座り込んでいる「10カードゥさん」の肩を叩いた。


「こんばんは。私のこと、わかりますか?」

 男はのろのろと顔をあげる。そして、小さく言う。

「あんた……あの……」

「今日も私のこと、買ってくれますよね?」

「10カードゥ……払った……」

「今回も10カードゥで買ってくれるんですね! ありがとうございます!」


 2人の会話をかたずをのんで見守っていた周りの男たちは、商談が成立したことを悟ると、顔を見合わせたあと、祭りだ祭りだと大騒ぎした。

 そして酔いつぶれた男を連れ込み宿に叩き込み、オリヴィアに手を振って去って行った。


「じゃあ、ごゆっくり~」

「団長おおお……女なんて……俺は、俺はぁ……!」

「はいはい。飲み直すぞー」





 翌朝、オリヴィアが朝起きると、男が連れ込み宿の床に額をこすりつけていた。

 男が言う。

「……昨日、何があってこうなったか覚えてないんだ……! 俺はなんということを!」

 寝起きのオリヴィアは男のつむじを見て、それからゆっくりと昨夜のことを思い出す。


 昨夜、男はついに目を覚ますことはなかった。オリヴィアは何度か彼を起こそうと水をかけたり、頬を叩いたりしてみたが、どれも効果がなかった。

 男は深く眠っていた。オリヴィアはその寝顔があまりにも気持ちよさそうだったので、起こすのをあきらめた。

 しかし、これでは報酬がもらえない。

 彼の荷物はある。もしかしたら中には財布が入っているかもしれない。一瞬だけ、勝手に財布から金を抜くという考えがよぎったが、それはまずいだろうという育ちのよさが出てしまった。

 結局、オリヴィアは男の隣で眠りについたのだった。


「ああ」

 ここまで思い出して、オリヴィアは男が何を謝罪しているのか首を傾げた。彼はいっこうに頭をあげない。

 「なんということを」というのは、オリヴィアを放っておいて寝たことだろうか、それとも、こんな状態になるまで飲んだことだろうか。いや、彼は何か誤解をしているのかもしれない。ようやくそこまで思い至って、オリヴィアは顔をあげた。


「あ、大丈夫です」

「大丈夫なもんか……!」


 なるほど。オリヴィアは合点する。もしかして、女を買うことに抵抗があったのかもしれない。思えば、最初にあったときも買ってくれなかったし、金も「治療費」と言い張っていた。


「ほんとうに、大丈夫ですよ。昨日は何もなかったので」

「何もなかったはずがないだろう! この状況で!」


 男は自分のシャツを示した。

 男の白いシャツははだけている。オリヴィアが彼を起こそうと顔に水をかけた時にシャツが濡れてしまったのだ。そのあと、風邪をひいてはいけないと思って脱がせようと頑張ったのだが、途中で男が何度も寝返りを打つせいでボタンが飛んでしまった。

 男はそのボタンがなくなったシャツを羽織りながら真っ青になっている。


 対して、オリヴィアはしっかり連れ込み宿の備え付けのガウンに着替えている。


 ――いい年の男女が、この状況で何もなかったとはにわかに信じがたいだろう。


 オリヴィアは参ってしまった。

「うーん……とりあえずお金は」

 もういらないですよ、と言ってあげるつもりだったのだが、男は食い気味に尋ねた。

「あ、ああ。ええと、いくらだ」

 オリヴィアは男をじっと見つめる。

 オリヴィアは昨夜何もしなかったが、時間をあげた、と考えるならいっしょにいた時間の分だけ金をもらう権利がある。

 セオドアだって、いっしょにいるだけで、手紙に返事を書くだけでも金を請求してくる。


 オリヴィアはセオドアと同じく悪徳な令嬢になった気分で、金額を提示する。

「ろ……」

 6カードゥ、と言いかけて、やめた。オリヴィアはいつだったか見た私娼の真似をして言う。

「いくらくらいの価値がありました?」


 その言葉に、男は頭をがしがしと掻くと、財布をそのままオリヴィアに渡した。ちらと見ただけだが、中には30カードゥ以上入っているようであった。

「今持ち合わせがそんなにない。あとは、これでいいか?」

 そしてさらに小さなものをオリヴィアに差し出す。オリヴィアはそれを受け取った。

「なんです、これ」

「指輪だ。金でできている」

「金! 十分です」

「なあ、あんた、なんでまだ金に困ってるんだ」

「いま解決しました」


 ほんとうに、十分だ。これだけあれば、叙勲パーティに行ける。

 オリヴィアは頭を下げると、引き留める声を無視してさっさと着替えて宿を出ていったのであった。

 男はまだ酒の影響で頭が痛むらしく、飛ぶように走るオリヴィアを捕まえることはできなかった。




 今日はパーティがある。

 東部の紛争を沈めたアシャー・コーンウォリス騎士の叙勲を祝うパーティである。彼の功績をたたえ、騎士の上の男爵位が贈られるのだ。

 いつものように、彼女から誘いの手紙が届いたとき、セオドアは知らずほっと胸をなでおろした。

 そしていつものように彼女を迎えに行くと、いつもの彼女がいて、セオドアはいつもの傲慢な態度に戻った。

 彼女は頬を赤く染めている。セオドアに惚れているにちがいない。


 馬車に乗り込むと、さっそくオリヴィアはセオドアに金を渡した。

「どうぞ。20カードゥです」

「……たしかに」

 オリヴィアはそれっきり黙り込む。会話がないのはいつものことだ。オリヴィアはセオドアの前では口数が少ない。

 彼女はめずらしく着飾っている。

 紺色のドレスに、黒いレースのショール。年頃の貴族令嬢としては質素であるが、彼女の雰囲気によくあっている。

 今日は珍しくセオドアが口を開いた。


「ずいぶんと羽振りがいいな?」

「母にもらいました」

 20カードゥの出所を知りたくてそう言ったのだが、あっさりと答えられる。

 なんだ、つまらないな、と思う。もっと苦しんでかき集めた金だったら面白いのに。


「結婚したら、あの母親はどうするんだ」

「地方に別宅があるので、そちらに行ってもらいます。そちらには母の友人も多いですし」

「そうか。それで、俺たちの結婚はいつになる」

 オリヴィアは目を丸くする。

「結婚」

「なんだ」

「わかりません」


 セオドアは鼻を鳴らす。

「まあ、そっちの家が主導する話ではないからな」

 彼女はぽつりと言った。

「そうか。私たち、ほんとうに結婚するんですね」

「なんだ、今更」

 オリヴィアはため息をつく。

「困りましたね。結婚式の間、あなたの機嫌をとるのにいくらかかるんでしょうか」

 その言葉はセオドアの機嫌を逆撫でした。


 それではまるで、セオドアが自身の結婚式で無礼をはたらくような男のようではないか。

 セオドアは苛立ち、勢いよく窓をあけた。

 大きな音に驚き、オリヴィアがびくりと肩をゆらす。

 それを見て、少し胸がすく。

 そう、こんな下位貴族の女など、セオドアの機嫌をうかがって怯えているくらいでちょうどいい。


 セオドアは意地汚く笑うと言った。

「……少なくとも……こんなはした金では無理だな」

 そうして、窓からオリヴィアが渡した20カードゥを投げ捨てる。

 それはばらばらと落ち、馬車の後方へ消えていった。

 セオドアは注意深くオリヴィアを見た。

 泣いてわめいて、セオドアに赦しを乞えば面白いと思った。


 しかし。

「……そうですか」

 彼女はそう言っただけで、顔色ひとつ変えなかった。

 ――ほんとうに、つまらん女だ。

 セオドアは肩をすくめた。





 ということでやってきたパーティで、オリヴィアは壁の花を決め込んでいる。それもそうだろう。かの悪名高いセオドアと婚約した令嬢など、貴族社会ではいい噂のたねだ。

 貴族たちはオリヴィアの一挙手一投足まで見て扇の裏に顔を隠す。

 しかも、今日にいたってはセオドアと婚約破棄した公爵令嬢も来ている。彼女のまわりには寄らない方がいいだろう。


 オリヴィアが慎重に動いている一方で、セオドアだけは悠々自適に動き回っている。

 彼は元来能天気なのだろう。これほど悪意と好奇の視線が集まっているというのに、まったく気にするそぶりがない。


 ――それどころか、もう評判が回復してきているって思っているのよねー、彼……。


 困ったものだ。いや、うらやましいものだ。その図太さをわけてほしいと思う。

 オリヴィアもここに顔を出せるくらいには図太いのだが、本人は気が付いていない。


 オリヴィアはある程度の時間になれば、体調不良を訴えて帰るつもりだ。

 セオドアの方はきっとパーティの最後までいるつもりだろうから、送りは期待できない。馬車を拾う必要があるだろう。貴族の令嬢が乗る馬車はだいたい1カードゥだ。

 オリヴィアはため息をついた。


 馬車に金、ドレスに金、今日来るだけで金。そして今度は結婚式で新郎を大人しくさせるのにも金だ。


 ――ほんとうに、金のかかる男……!


 オリヴィアはいらいらしたが、それは顔に出さない。


 ――無駄無駄。イライラしちゃだめよ、私。気力の無駄、頭の無駄、そんなことよりどう稼ぐかを考えることにすべてを捧げるのよ。


 オリヴィアは背筋を伸ばしてワイングラスを手に持った。すました顔の彼女の頭の中がまさか金勘定でいっぱいだとは誰にもわかるまい。



 音楽隊が高らかに楽器を鳴らす。本日の主役であるアシャー・コーンウォリス男爵の登場である。

 会場の大扉が開き、人々はいっせいにそちらに注目する。


「あ」


 ばちっ。

 そんな音さえ聞こえそうなほどだった。

 入って来た人物と、オリヴィアの視線が合って、それからお互いに雷に打たれたようになった。


 先に動いたのはアシャー・コーンウォリスだった。


「ちょっと来い」

「え……!」


 オリヴィアは今日の主役に腕をひかれ、会場の外へと連れ出されたのだった。





 走って、走って。

 王宮の庭園の中を抜け、池を越え……。

 オリヴィアは彼に呼びかけた。


「10カードゥさん」

 その言葉に、ようやく男は足を止めて振り返る。

「アシャー・コーンウォリスだ」

 その名前は、東部の紛争を沈めた騎士団長の名である。

 オリヴィアは信じられない、と首を振る。

「……ほんとうに?」

「……あんたは……」

 反対に名を尋ねられ、オリヴィアは目を泳がせた。

「いやー……名乗らないとだめですか」

 彼は、オリヴィアが路上で私娼の真似事をしていたことを知っている。

 本名をあかすと、結果的にオリヴィアの家名に泥を塗ることになるのではないかと彼女は恐れている。


 しかし、男は一歩も引かない。

「名前は」

「うっ……オリヴィアです……」

「はぁー……グランヴィル男爵家か」


 最後の抵抗として名前だけ名乗ったというのに、一瞬で家がばれた。

「伯爵家のドラ息子と婚約した令嬢じゃないか……」というつぶやきまで聞こえる。

 オリヴィア自身は社交界に顔を出さない、出しても壁の花というつつましい生活を送っているというのに、セオドアのせいでオリヴィアの名前まで広まってしまっているのだ。


 どうしようとオリヴィアが目を泳がせまくっていると、アシャーは自身の親指につけていた指輪を外してオリヴィアの鼻先につきつけた。

 そして言う。


「お前、いくらなんでも質に流すのが早すぎないか?」

「……?」


 彼の手には金の指輪があった。

 それはドラゴンを模した精緻な造形である。指の一本一本、鱗の一枚一枚まで意匠が凝らされていて、ドラゴンの目に象嵌された石はまばゆい光を放つ。

 オリヴィアはそれに見覚えがあった。


「あれ? それ。貰った次の日には換金したのに……」

「質に流れていたのを見つけた俺の部下が俺の手元に戻してくれた……騎士団長の証だ」

「へえ」

 そんな大事なものだったのか。オリヴィアは気まずさでさらに目を泳がせる。

 アシャーは問いただす。

「で? 俺の騎士団長の証を売り払って、その金を何に使ったんだ」

「ちょっと婚約者に……」

 アシャーは目を丸くする。

「あんた、男に貢いでいるのか……」

「いやー……貢いでいると言うんでしょうか……その、いろいろと事情がですね」

「だよな。あんたの婚約者の方が金持ちだろう」


 それは間違いない。

 オリヴィアは黙った。アシャーにセオドアのことを言っても仕方がないと思った。

 オリヴィアの世間がままならないものであることをよく理解している。

 家が没落寸前であることも、セオドアと無理やり婚約させられたことも、セオドアと仲良くなれなかったことも、すべてオリヴィアひとりの力ではどうすることもできないのだ。

 ままならない、仕方がない。

 できるのは金を稼いで母を守ることだけだ。


 オリヴィアは黙り込んだ。

 王宮の外れまで出てきてしまっている。

 あたりは暗く、遠くに王宮から漏れる光がぼんやりと見える。

 今ごろ、アシャーが退席したことで会場は大騒ぎになっているかもしれない。

 衆目の中、アシャーに手をひかれて会場を飛び出したオリヴィアは、戻ればまた好奇の目にさらされるのだろう。

 もう慣れてしまっているが、それでも面倒は面倒だ。

 いっそ、このまま体調不良ということにして帰ろうかな。


 そんなことをとりとめもなく考えていたら、アシャーが口を開いた。

「俺は、誠意のつもりで指輪を渡したんだ」

「せいい」

「あんたに申し訳ないことをしたと思って」

 アシャーの眉尻が下がる。

 オリヴィアは一拍ののち、彼が言わんとすることを理解した。

「あの! その件ですが!」


 勢いよく手をあげ、オリヴィアは力強く説明する。

「私たち! ほんとうに! なにもありませんでしたよ! あなたは酔っていましたし……起こそうとして水をかけて、それで風邪をひくとおもってシャツを脱がせただけです! 誓ってもいいです!」


 ここだけは理解しておいてもらわなくてはならないだろう。

 オリヴィアは私娼のまねごとをしただけで、実際にはいたしていないのだ。

 オリヴィアの言葉を聞いて、アシャーは低く言った。


「じゃあ何か。あんたは俺から金を騙し取ったことになるな」

「そうなりますね」

 オリヴィアはあっけらかんと答える。私娼か詐欺師なら、まだ詐欺師の方が、男爵令嬢としてはましな悪評だろう。

 アシャーは頭を抱えた。

「悪徳令嬢め……」

「はは。間違いないですね」

「それで、俺の騎士団長の証を騙し取って、ドラ息子にくれてやったわけか?」

「ええーっと」


 そう聞くと酷い話だ。

 アシャーが指輪をはめ直す。

 それを見ながら、オリヴィアはゆっくりと話しだした。

 どうすることもできない話ではあるが、アシャーは知る権利があるだろうと思った。


 婚約者であるセオドアとの関係がよくないこと、それを母が気にして心を病んでしまったこと、母のために仲のいいふりをすることにしたこと、そのためにセオドアに金を支払っていること、セオドアに値上げを宣言されたこと。


 オリヴィアが話しているのを、男はじっと黙って聞いていた。

 全部を聞き終わったあと、アシャーは言った。

「それは婚約者とは言わないだろう……」

「でも、婚約しているんですよ」

「……金のやり取りをする婚約者がどこにいる」

「でも、貴族の結婚ってお金ですよね?」

「当人同士で袋に金を入れて手渡しはしないだろう……」


 そう言って、アシャーはまた頭を抱えた。

 そして唸るように言う。

「あんた、変わってるってよく言われるだろ」

「言われないです。しっかり者だって言われます」

「そうか……」


 近くから、衛兵の声が聞こえる。きっと、アシャーを探しに来たのだろう。

 この密会もいよいよ終わりの時が近い。

 オリヴィアは一歩下がった。

 暗い闇の中で、男の傍に立っているのはまずいと思ったのだ。

 しかし、距離をとったオリヴィアの腕をまた男は引いた。


「ちょっと……」

 抗議の声にかぶせて、アシャーが問うた。

「それで、お前はどうなんだ」

「どう、といいますと」

「その婚約者のことが好きなのか?」

「え。大嫌いですけど」

 アシャーは笑った。呆れたような、珍獣を見るような、それでいて、面白がるような。

「なら、お前はもう黙っていろ」





 その後、オリヴィアの世界は目まぐるしく変わっていった。

 アシャーはパーティに戻ると、国王に向かってこう言ったのだ。


「東部紛争を沈めた褒賞として、男爵令嬢オリヴィア・グランヴィルとの結婚の許可をいただきたい」



 そのたった一言で、オリヴィアの世界は変わった。


 セオドアはオリヴィアと婚約破棄になった。オリヴィアは好機とばかりにセオドアに金銭を巻き上げられていたことを告発し、大騒動になった。


 事実関係を明らかにするための裁判ではオリヴィアが男に扮してギルドに出入りしていたことと、あの日王宮へ向かう2人の馬車から20カードゥがばらまかれたのを見ていた人物がいたことでセオドアが一気に不利に傾いた。

 新聞は問題児セオドアの新しい醜聞を面白おかしく書き立てた。


 裁判中、セオドアは何度もこう言った。


「私たちの関係には、金以外のつながりもあったはずだ」


 その言葉を聞いたときは、思わず吹き出してしまいそうになった。

「そんなつながりはなかったわ」

 要するに、金づるである私と、親の信頼を失いたくないがために言っているのだろう。


 裁判ではセオドアは脅迫罪が認められ、オリヴィアに慰謝料と受け取った金の返金が命じられた。

 そして、セオドアはとうとう伯爵に勘当され、遠くの修道院に身を寄せることになった。

 贅沢好き、花やかなことが好きな彼にとって、これはつらい処分だろう。


 オリヴィアは手元に戻った金を見てご満悦であった。





 そして。

「オリヴィア、行くぞ」

「はい」


 今日は結婚式だ。私は笑顔でアシャー・コーンウォリスの手をとった。









 その夜、オリヴィアはアシャーが寝室にやって来て度肝を抜かれた。


「え? ど、どうしたんですか」

「どう、とは」

「なんで来たんですか」

「今夜は初夜のはずだが?」

「え? え?」

「は?」


 オリヴィアは困惑した。

 実のところ、オリヴィアはなぜアシャーがオリヴィアと結婚したのか、よくわかっていない。

 いつだったか、オリヴィアに10カードゥを渡した時、アシャーは「乗りかかった船」と言っていた。

 責任感があるアシャーのことだから、知り合ったオリヴィアの窮状を知って、助けることにしたのだと勝手に思っていた。

 アシャーはオリヴィアの様子から、お互いの間に勘違いがまだ残っていることに気が付いた。


「あんた、もしかして俺がその辺の女を助けるために、適当に結婚する男だと思っているんだな」

「ちがうんですか……? まさか、助けた代金を請求するつもりじゃあ……」


 オリヴィアの台詞を聞いて、アシャーは盛大にため息をついた。そしてがしがしと頭を掻く。


「あんた、馬鹿だろ」

「はい!?」


 アシャーはオリヴィアの手を取った。


「あんたの突拍子もないところに惚れたんだよ」




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