過去が追いかけてくる
翌週、また学校が始まる。
ただ、ゴールデンウィークが近づいていることもあり、クラス内の雰囲気が浮き足立っているような気がする。
それはきっと俺も同じなんだろうな。
「さて、どうするかな」
高校に入学して初の大型連休に向け、俺もいろいろと計画を立ててみる。
買い物に行くか、家でゴロゴロするか。想像してみたが、紬が一緒にいるところしか思い浮かばない。俺はもうダメかもしれない。
想像力の足らない頭をリフレッシュしようと、外の風に当たるため、一人で廊下に出てみた。
しかし、考え事をしながら歩くには、休み時間の廊下は人通りが多過ぎた。
「きゃあ!」
角を曲がる時に感じた衝撃と小さな悲鳴。
俺とぶつかった、その悲鳴の主が倒れて階段の方へ落ちそうになるのが視界の端に映った。
「危ない!」
咄嗟に腕を伸ばし、その体を引き寄せた。
が、急に無理な体勢をとってバランスを保てない。
——あ、まずい。
「うっ!」
彼女が頭を打たないようにと、俺は思い切り体を回転させたが、尻もちをついたうえに、ぶつかった彼女の肘が腹にクリーンヒットした。
痛みが全身に広がると同時に、視界が涙で滲む。いつぶりだろう、こんなに苦しい思いをするのは。
「ご、ごめん! 一ノ谷君大丈夫!?」
「だ、だい、大丈夫……」
俺の上にのしかかった彼女はその姿勢のまま、まるで浮き上がるかのように飛び退いた。
俺は腹を押さえながらゆっくりと立ち上がる。
改めてぶつかった相手を見てみるが、見覚えがない。日焼けした健康的な肌にはっきりした目鼻立ち。御影さんや山田部長とはまた違った雰囲気の女子だ。
……そういえば、さっき名前を呼ばれたような。
「本当に? 我ながら、綺麗な肘打ちが決まったように見えたけど」
「ああ、刺さったかと思ったよ」
まだ痛みは残っているが、痩せ我慢をする。いつまでも女々しく痛がってばかりいられない。別に罪悪感を植え付けたいわけじゃない。
「でも、本当にありがとう。一ノ谷君が支えてくれなかったら、階段から落ちてたと思う」
やっぱりだ。俺は見知らぬ女子に名前を知られているような派手な生き方をしている人間じゃないはずだ。
なのに、なぜ彼女は俺の名前を知っているんだ?
「怪我がないようでよかったよ。それで……俺が覚えてないだけだったら悪いんだけど、君は誰?」
「そうか……覚えてないよね、接点も無かったわけだし……」
少し彼女は目を伏せていたが、一歩距離を詰めてきて言う。
「私、1-2の住吉日向。一ノ谷君とは、中学は違うけど塾が一緒だったよ。覚えてない?」
「ごめん、覚えてない。他校の人までは意識が回ってなかった」
俺は他人を覚えることが苦手だ。未だにクラスメイトの顔と名前が一致しないし、数ヶ月会っていない中学の部活の後輩の名前も何人か頭の中から抜けている。自分でも酷いやつだとは思うよ。
「それにしても、よく覚えているね。塾で話したこともなかったはずなのに」
「そりゃあ、一ノ谷君って知る人ぞ知る有名人だったから」
「それ、矛盾してないか?」
彼女が言った「知る人ぞ知る」は広くは知られてはいないが、一部の人にはその存在がよく知られているという意味だ。有名とは違う意味な気がする。
「まぁ言葉の意味は置いておいて……一ノ谷君、中学の時に野球部でピッチャーしてたでしょ。私ね、今女子野球部に入ってるんだけど、うちの中学が一ノ谷君達と試合する時、私も見に行ってたんだよね」
「それは知らなかったな。まさか見られてたとは。エースでもなかった俺なんかを覚えているなんて、記憶力いいんだな」
「エースじゃなくても、あれだけの球を投げる選手は忘れられないよ。きっと高校でならもっと活躍できると思うよ」
「……それは無理だ」
「え? 何で? 一ノ谷君の実力なら、十分目指せる位置にあると思うけど」
首を傾げながらも、真っ直ぐ俺の目を見てくる住吉さん。だが、彼女の期待には応えることはできない。
「俺、もう野球は辞めたんだ。肘を故障してさ」
「……そ、それなら治療してから、また始めれば良いじゃない。少しの遅れくらい、きっと追いつけるはず!」
「そう言ってくれるのはありがたいけど、俺には未練は無いよ」
俺はそう言い残し、この場を去ろうと住吉さんに背を向けた。
だが、立ち去ることを彼女は許してくれない。俺の左腕を掴み、引き留められる。利き腕の右腕を掴まなかったのは、俺の故障した肘を気遣ってのことだろう。
「……ごめん。離してくれないか」
「離したら君は、どこかに行ってしまうんでしょう? だったら離さない」
女子を相手に、力ずくで振り払う気にはなれない。それ以前に、スポーツ女子である住吉さんから逃げおおせるのは簡単では無いだろう。
……ああ、どうしてこんなことに。ここ数日、トラブルに巻き込まれる回数が多い気がする。今まで波風立てずに過ごしてきたはずなのに。
「……一ノ谷君?」
さらに厄介なことになる気がする。なぜか御影さんが俺の目の前に立っていた。
女子二人に前後を挟まれている形になるが、全く嬉しくならないのはなぜだろう。
「えっ!? 二人で、て、手を繋いで!?」
「待ってくれ! 何を勘違いしてるかは知らないが、落ち着いてくれ。あと、先輩達にも言わないでくれると助かる」
山田部長や平野先輩に知られたら、どういう解釈でどういう反応をされるかわからない。
ちょうど御影さんの登場で住吉さんも動揺したのか、俺の腕を離した。その隙に少し距離を取ることができた。
「住吉さん、悪いけど行かせてもらうよ。それと、もう辞めたことに対して、俺は一切後悔してない。全部自分で考えて、自分で結論付けた。それは君に何を言われても、変えるつもりはない」
「……ごめんなさい、話がちょっと見えないんだけど……」
途中から来た御影さんがこの状況を理解できないのは当たり前だが、今は彼女は関係がない。俺と住吉さんの——いや、俺自身の問題だ。
再び住吉さんに背を向ける。今度は彼女は俺を引き留めようとはしなかった。
だが——。
「一ノ谷君!」
なぜ教室まで着いてきた?
「早く自分の教室に戻りなよ。授業始まるぞ」
チャイムがなる前には1-5の教室からは出て行ったが——。
「一ノ谷君!」
「いつまで着いてくるつもりだ……」
次の休み時間も俺は住吉さんに付きまとわれている。勘弁してくれ。ストーカーのくだりはもう既にやっている。
大勢の前でまた騒がれたらたまったもんじゃない。俺は彼女と一定の距離を保ちながら校舎の陰になる場所まで移動してから、着いてきた彼女に向き直った。
「何でこんなに俺に期待するんだよ……。俺じゃなくても、他に誰かいるだろうに」
「何でそんなに自分のことを卑下するの? 少なくとも私は君のことを高く評価してる。いや、してたっていうのが正しいのかな。正直、私が憧れた人がこんなことになってるなんて思ってなかったから」
彼女からは一つ前の休み時間に見たような覇気は感じられない。失望させてしまったのだろう。だが、俺から彼女にしてやれることなどはない。
「だから最後に一つだけお願いがあるの。ゴールデンウィーク中のどこか都合がつく時でいいから、私と勝負してほしい。私が負けたら、もう一ノ谷君に付きまとったりしない。でも、私が勝ったら、もう一度野球を頑張ってほしい」
「それって俺に得が……おい、何してる!?」
俺が言い終わるよりも早く、住吉さんは深く頭を下げていた。
「お願いします! これで本当に最後にするから!」
「わかった! わかったから頭を上げてくれ。あとデカい声出すのもやめてくれ。これじゃあまるで、俺は大悪役だろ」
結局、押し切られてしまった。最近関わる人はみんな押しが強くて困る。俺には抵抗できるほどの我の強さは無いってのに。