待ち人
放課後。誰もいない教室で、俺は手紙の主を待っていた。昨日、同じ場所で見た様子を今度は自分が再現することになるとは思わなかった。なんとも不思議な気分だ。
思えば、教室に一人で残り誰かを待つなんて経験は初めてだった。中学までは部活に打ち込んでいたし、引退してからも桔平に連れ回され、こんなに静かに時間を過ごすことはなかったような気がする。
その静寂の中で、ブルブルと震える俺の携帯のバイブレーション音はよく目立った。山田部長からの着信だ。
「……何ですか?」
『そう冷たい声を出さないでおくれよ。私は部長だよ? 先輩を立てることを学んでおかないと、社会に出た時心配だ』
「安心してください。俺が就職する頃には、そういう些細なくだらないことですらハラスメントになってるんで」
俺はそのまま電話を切ろうかと思ったが、何やら通話先が騒がしい。
『まだお手紙をくれた子は来てないみたいだね! ねぇ、今どんな感じ? ドキドキしてる?』
「俺を小説のネタにするのはやめてくださいよ。一応先輩の本は買ってますし、読んでますけど、キャラのモデルが自分なんてことを妹には知られたくない」
『え……真尋君、妹いたのかい!? そうなら早く教えてくれれば——っと、お喋りはここまでにしておこう。お客さんのご到着だよ。君も不安だろうが、私達が見守っているからね。どうか電話は繋げたままで——』
二人の野次馬先輩の言葉は無視し、電話を切った。これ以上通話を続けようが続けまいが、あの人達は聞き耳をたてにくるだろう。
そして待つこと数秒で、教室のドアは開かれた。
「ご、ごめんなさい、遅くなって。きっと待たせたよね」
「いや、全然。俺は平気だが……御影さんはまだ部活の途中じゃない? ここにいて大丈夫か?」
俺を教室に呼び出した手紙の差出人は、御影さんだった。俺は驚きを全力で押し殺して、彼女を迎え入れた。
教室へ入ってきた御影さんは弓道着姿だった。一目見て何部に所属しているかわかるその服装には、彼女の黒髪がとても似合い、何かのプロモーションビデオでも見ているかのようだ。
「それは平気。ちょうど休憩時間だったし……それに、私が一ノ谷君を読んだのに、来ないのはダメじゃない」
そう言うと、御影さんははにかんだ。普段接することのない彼女とこうして二人で話していると、なんだか昨日の夕方の光景がフラッシュバックしてきてしまう。
……そんなはずはない。あれは関係ない。そう自分に言い聞かせて、記憶を胸の奥底に沈めた。
「そういえば昨日の放課後、私がここにいたのを見てたでしょ。中に入ってこようとしてたの見えてたよ」
そっちから話題を振るのかよ。
「わ、悪かった。本当に覗く気はなかったんだ。ただ、忘れ物を撮りにきただけで……」
「やっぱり偶然だよね。私もあんなこと言われるなんて考えてもなくて、びっくりしたんだ。……って、これを言いにきたんじゃないの」
御影さんが一歩ずつ近づいてくる。真剣な目をした彼女の顔が迫る圧に押されて後ずさってしまった。
他人との関わりが少ない俺にとって、こんなにも容姿の整った相手に詰め寄られるのは目の毒だなと思いながらも、あっという間に教室の端まで追いやられていたようで、一歩引いた踵が壁にぶつかる。もう逃げ場はない。
「ふふっ。そんなに逃げなくてもいいのに」
「パーソナルスペースが広めでね」
俺は今、どんな顔をしているのだろうか。表情筋が強張っているのを感じる。
「あの……ね」
意を決したように、御影さんは改めて俺に向き直る。少し低い位置から俺を見上げるその瞳の中に俺の顔が映っていた。
「助けてほしいの! 少し前から誰かにつけられてて……」
言い切ると同時に、彼女の瞳は潤み出した。この告白をするまでにどれだけの不安や恐怖があったのだろう。俺にその全てを推察することはできないし、彼女の震える肩に手を添えてやる勇気すら持ち合わせていなかった。
「まずは落ち着いてくれ。それと、その問題はきっと俺一人で解決できるほど小さな問題じゃない。だから——」
「話は聞かせてもらったよ! 困っている後輩のため、私達も手を貸そうじゃないか!」
勢いよくドアを開けたのは、コートを羽織った山田部長。やはり盗み聞きをしていたか。防寒対策もしっかりしている。
その後ろでぷるぷると震えている小さな影が一つ。昨日の俺と同じく冷たい風で体の芯まで冷やされた平野先輩だ。どうせ外で隠れているのなら、二人分の防寒具を用意してやればいいのに。
「一ノ谷君、この人達は?」
「……部活の先輩。お節介が過ぎるほどお節介だが、少なくとも悪い人では……無い、はず?」
「なんで疑問形なんだい。こんなにも君に優しく接している良い先輩だというのに」
入部して一ヶ月の後輩に昼飯を作らせる人が何を言うか。
「では……御影さん、と言ったかな。話を聞かせてくれるかい? 突然のことで驚いているかもしれないが、私達は君の味方だよ。決して悪いようにはしないし、口外しないと約束しよう」
「そ、それなら……」
二人きりの教室へいきなり飛び込んできた先輩達に驚いたのか、俺の背後にまわっていた御影さんだったが、落ち着いて俺の隣にまで出てきていた。
「最近……と言っても、この二、三週間になるんですけど、帰り道や学校の中でも誰かに見られているような気がしていて」
「なるほど、ストーキングされている、と。君ほどの美少女なら、タチの悪いストーカーがいることもあるだろうね」
「その言い方は良く無いですよ」
ストーカー。特定の個人に異常なほど関心を持ち、しつこく跡を追い続ける人。
どういう理由であれ、迷惑この上ない。
「でもね、ストーカーに悩んでいるなら、警察にでも相談しに行けばいいじゃないか。真尋君じゃなくて、さ。それに、真尋君自身が君のストーカーかもしれないとは考えなかったのかい?」
「だから、言い方がキツいですって。別に理由なんてどうでもいいでしょう」
何やら今日の山田部長の様子はおかしい。援護を頼もうと平野先輩の方へと目を向けてみたが、彼女は教室の隅でただでさえ小さな体をさらに縮めて隠れていた。心なしか、特徴のアホ毛も小さくなっている気がする。
……ダメだ、戦力にはなりそうにない。
「相手がわからない以上、無理に行動できないっていうのも理解できますし……」
「……」
俯く御影さんの表情は暗い。彼女は黙ったままで、何を考えているのかまではわからない。
「ま、私も別に責めようなんて気はないんだ。君が困っているのは事実だからね」
山田部長から放たれていた張り詰めた空気が、フッと緩んだ気がした。何より厳しい目つきが無くなり、いつもの飄々とした彼女に戻っている。
「だからね、真尋君。御影さんが一人になる時に、君がついていてやりなさい。この件がなんとなるまで、部活を休んでもいい。なんなら、御影さんを家庭科室まで連れて来てもいい」
彼女の鶴の一声で、俺の今後の行動が決められてしまった。
平穏で平坦で普遍的な俺の日常。自分を嫌い続けてきた俺の日常。そこへ踏み込んできた人達がいる。
一ノ谷真尋、高校一年の春。何かが変わり始めた音がした。