9 不思議な魅力の教師
茶を飲み干して、再び生徒たちのもとへと向かう。
すっかり調子に乗っているフレーゲルが、女生徒から新たな相談事を受けようとしていた。十代半ばの大人しそうな女の子が、おずおずと問いかける。
「あの、私も質問していい……?」
「おう! このフレーゲル先生が何でも答えてやろう」
「あのね、私、妹にアクセサリーを取られてしまって困ってるの……。新しいのを買うとすぐに、ちょうだい、ちょうだいって言ってきて、きりがなくて……。嫌だって言うとすぐ泣くし、そしたら私がママに怒られるし……。どうしたらいいかな?」
質問内容を口にするうちに、女の子は目を潤ませ始めた。
「好きな男の子からプレゼントしてもらったネックレスも、ちょうだいって言ってきて……私、すごく嫌で……。そのうちに、彼までアクセサリーみたいに取られちゃうんじゃないかって思うと、怖くなってきて……」
ついにぽろぽろと泣き出してしまった女の子を見て、フレーゲルは目をむき、大慌てで適当な回答を捻り出した。
「だ、大丈夫! 仮に好きな人を取られちゃっても、男なんて星の数ほどいるから……! そうだ、俺がいる! 俺と付き合おう!」
「嫌です……フレーゲルさんは嫌……」
「うぐっ」
ばっさりと振られて、しゅんと小さくなったフレーゲルの前に、エリーゼが割って入った。指先で女の子の涙を拭い、声を掛ける。
「フレーゲル先生に代わって、わたくしが良い方法を教えてあげましょう」
「リセ先生……」
「まず、妹さんの前で泣いてはいけません。無礼者を前にして、弱いところを見せては駄目。舐められたら、相手はもっと調子に乗って酷いことをしてくるわ」
「うぅ……私、もうとっくに舐められてます……どうしたら……」
「格の上下をひっくり返してやればいい。大事なのは余裕よ。見せかけでもいいから、余裕たっぷりに振る舞うの」
エリーゼはフレーゲルをどかして椅子に座り、女の子に向き合う。
「わたくしがお手本を見せてあげる。あなたは妹さんを演じてみてちょうだい」
「え? ええと……はい、やってみます」
女の子はごしごしと涙を拭って、アクセサリーをねだる妹になりきった。
「いつもこんな感じで……。お姉ちゃん! その耳飾りすごく可愛い! あたしにちょうだい!」
「これ? これが欲しいの?」
「そう! ねぇねぇちょうだい! 今すぐ! くれなかったらママに言いつけるから! ねぇってば!」
妹になりきった女の子は、エリーゼが身に着けている耳飾りを指差して駄々をこね始めた。なるほど、これは鬱陶しい。可哀想に……と内心で哀れんでしまった。
庭で自由時間を過ごしていた生徒たちも、始まった即興劇に興味を引かれたらしく、寄ってきて見入っている。
皆の視線の真ん中で、エリーゼは耳飾りを外してもったいぶってみせた。
「これはお気に入りの耳飾りなのだけれど」
「ちょうだいよ! お姉ちゃんのケチ! 意地悪!」
「仕方ないわね。そんなに言うなら、あなたに差し上げます」
「やったー! ありがと――……え!?」
はしゃいだ妹役の女の子は、ギョッとして言葉を止めた。
それもそのはず、エリーゼは耳飾りを手渡すどころか、地面に放り捨ててみせたのだ。
困惑して固まった妹役の前で、どかりと足を組んでみせる。顎先をツンと上げ、見下げるように目を向けて、クスリと微笑を浮かべて言う。
「ほら、拾いなさい。欲しいのでしょう? その耳飾りが。どうぞ。わたくしの前で地面に這いつくばって、拾ってごらんなさいな」
うふふ、と、美しくも圧のある笑い声を響かせた。
こうすると、立場が一気に反転する。相手はアクセサリーをねだった手前、拾わずにはいられない。だが、拾ってしまうと、屈辱感に苛まれることになる。
そんな葛藤に呻く姿を見て、高みから笑ってやるのだ。
繰り出されたエリーゼの圧に、一瞬、庭が静まり返った。
が、静けさはすぐに破られた。女生徒たちが黄色い声を上げたのだった。もちろん、妹役の女の子も含めて。
「キャー! 何々!? 今のリセ先生、すっごく格好良かった!」
「劇の悪役令嬢みたい!」
(悪役令嬢?)
思わずポカンとしてしまった。平民の間では、そういう演目が流行っているのか。後で調べておこう。
女の子は耳飾りを拾って、頬を火照らせて寄ってきた。
「私、頑張ってみます……! 先生みたいに格好良いお姉さんになるわ!」
見ていた他の生徒たちも、興奮した様子で周りを取り囲んだ。
「先生! 私も質問いいですか? 意地悪な子に『バカ』って言われたら、何て返してやったらいい?」
「『あら、素敵な自己紹介をありがとう』と、言っておやりなさい」
「嫌なことがあった時は、どうしたらいいですか?」
「すぐに意識を別の方へ向けて、考えないようにすること。好きな歌を頭の中に流して、集中して歌詞を追うのがおすすめよ」
「先生、悪役令嬢とか、お姫様とかがする挨拶は知ってる? どうやるの? やってみたい!」
「カーテシーのことかしら? こうして、こう」
スカートを持ち上げて、膝を折って身を低くする。間近で目にする煌びやかな所作に、生徒たちは興味深そうに目を輝かせていた。
(やれやれ、楽しそうだこと)
声を上げて盛り上がる生徒たちを見て、苦笑をこぼしてしまった。
授業は方針転換と相成った。この先も様子を見つつ、こういう賑やかな雰囲気を保ったまま、上手く基礎学問へと繋げて行けるように、工夫してみよう。
青空教室の中心はエリーゼへと戻り、放り出されたフレーゲルはポカンと呆けていた。
生徒たちの質問を一通りさばいた後、フレーゲルにも声を掛ける。
「あなたも、何か聞きたいことは? 昨日も何か質問するために訪ねてきたのでしょう? わたくしでよければ、お相手しますけれど」
「あぁ、ええと……じゃあ」
彼は躊躇いつつも、テーブルの上に放られていた鞄から本を取り出した。エリーゼに手渡して、照れ臭さを誤魔化すように、視線を合わせずに言う。
「この本の、わからない単語とかを教えてほしい」
「これは……大陸冒険記?」
フレーゲルが渡してきた本は、有名な旅行記だ。劇作家が国々をまわって、街や村の様子、想いなどを綴ったエッセイ本である。
飾らない俗な文体で、読むのが易しい本。挿絵も多いので、どちらかというと児童書という扱いで出回っている。
エリーゼも子供の頃に読んだことがあった。人々の暮らしや風習、祭り、遊びなど、雑多なことが面白おかしく書かれていて、分厚い本だが一気に読破した思い出がある。
特に驚くような本ではないが……エリーゼは別の部分に目を見張ってしまったのだった。
本にはびっしりと付箋が挟み込まれていたのだ。わからない部分の印だったり、内容についての疑問の印だったり。
難しい論文や外国語の本ならまだしも、この児童書に対して、ここまで熱心に読み込む人がいるとは。彼の熱量に驚かされた。
フレーゲルはばつの悪さを誤魔化すように、茶化して笑った。
「実は俺、これっぽっちも学がなくって。読み書きが苦手なんだ。国語でも読めないところが多くてさ……。でも、全部、ちゃんと読んでみたいんだ。だから、その……教えてほしい」
読めない本を解読するべく、彼はネッサの庭に通っていたらしい。浮ついたナンパな男だと思っていたけれど、意外な勉強欲に見直してしまった。
本の付箋箇所を確認していくエリーゼに、彼はなおも笑いかける。自嘲を帯びた笑いだ。
「ははっ、馬鹿だろ? これ、子供でも読めるらしいのに」
「そうやって自分を見下げて笑うのはおやめなさい。この努力は自嘲するのではなく、誇るべきです。素晴らしいわ」
「すば……? 本気で言ってる?」
「えぇ、本気です。この調子で、わからない単語を書き出していって、辞書で調べながら読み進めていきましょう。単語帳を作って、しっかり覚えてくださいね。――ネッサ博士、フレーゲルさんに辞書をお貸ししてもよろしいでしょうか?」
博士に問いかけると、ひらりと手を振って許可が出された。フレーゲルに辞書をグイと押し付けて渡す。
「授業の中で一緒に進めていきますが、自習も怠らないように。十ページを宿題にします。次に来るまでに、単語の書き出しと意味調べをしておくこと」
「はぁ……ええと、はい」
「読破を目指して頑張りましょうね」
「はい……リセ、先生……」
フレーゲルは辞書を胸に抱えて、うながされるまま席についた。
そうして生徒たちをまとめ上げ、どうにかこうにか初回の授業日を終えた。
夕方を迎えて、今日の青空学校はおしまい。散っていく生徒たちの背中を見送りながら、今日一日を振り返る。
生徒たちとの交流の仕方は、何となく掴めた。鍵となるのは、興味や関心を引かれる楽しいことや、遊びだ。
彼らにとっての学びと、エリーゼが思う勉強とは、大きな溝があることも理解した。
(明日からは楽しみながら学べる方法を考えて、試していこう)
これまでの人生では『義務感に駆られて何かを成す』ということしか、なかったけれど。こうして、自分がやりたいと望んだことで、一人で勝手に意気込む、というのは初めてな気がする。
趣味、というのは、自分にはよくわからない概念だったが――……もしかしたら、こういうものなのかもしれない。そんなことを、ぼんやりと思った。
■
夕日が沈みきり、街に夜の帳が下りた。闇が深まり、眠りについた人々に夢がもたらされる時間――。
フレーゲルもまた、いつもの夢の中にいた。
『――死者の宮へ! いざ参らん!!』
腹の底から雄叫びを上げ、鋭く尖った短剣の先を、自らの眼窩へと力一杯に突き刺す。
血しぶきを上げて倒れ伏し、わずかに痙攣した後、目の前の男は動かなくなった。
仲間がまた一人、豪胆な自死を遂げた。
『次!』
場を取り仕切っている男が、次の人の名前を呼ぶ。皆が見守る中、また一人が広場の真ん中に出てきて、地面に両膝をついた。
気合いの叫び声と共に、短剣を片方の眼窩へと深く差し込む。目玉は形を留めないほどに破壊され、頭蓋の中に届いた剣先は瞬く間に命を奪う。
はずだったが……今度の男は死にきれなかったようだ。獣のような唸り声を上げて、もがき苦しんだ。
即座に周囲の人々が彼らの剣を抜き、悶える男の体に剣先を打ち込む。頭から、足の先まで、全身を串刺しにされて、男は無事に息絶えた。
『次! フレーゲル!』
名前を呼ばれた。先に逝った仲間たちと同じように、『死に場』の真ん中へと歩み出る。
両膝をついて空を仰ぎ、短剣の切っ先を右目へと向けた。
大丈夫、皆と同じようにすればいい。一瞬だ、怖くない。一瞬で死に至る。大丈夫。怖くない。怖くない――……。
頭の中で唱えるほどに、剣を構える手が震えた。
これはいけない。手が震えると勢いがつかない。死にきれずにもがくことになる。きっと壮絶な痛みと苦しみに襲われるだろう。
怖ろしくてたまらない。嫌だ。怖い、怖い――……。
震えは手先だけに留まらず、全身へとまわってしまった。
どうにか喉に力を込めて、震えを抑えた声で嘆願した。
「……悪い。死ぬ前に、ちょっと厠に行ってきてもいいか?」
「おいおい……これから屍になるってのに小便かよ」
「垂れ流したくないんだよ。俺は最後まで色男でいたいんだ」
「まったく。馬鹿言ってないで、ほら、さっさと行ってこい」
周囲にあきれた息と笑い声が満ちる。胸を占める恐れと緊張を茶化して誤魔化しながら、厠へと駆けて行った。
人の目がなくなった時、小走りは全力疾走へと変わる。
自分はそうして、逃げ出したのだ。
怖さに負けて、無様に、嘘をついて、逃げ出してしまったのだ――……。
「……っ」
宵闇の中、フレーゲルはもがきながら目を覚ました。
夢の中で全力疾走をしていたためか、現実の自分も汗だくで息を上げている。
ランプを点けて、ベッドと小さな棚しかない狭い宿舎を見回す。悪夢に引きずられていた頭が覚醒していき、うるさい心臓の音も、次第に収まっていった。
「……もう三年も経ってるのに。俺は本当に小心者だな……」
右目を覆っている眼帯に触れると、中がチリチリとうずく気がした。卑怯者め、と、責められている気がして、気分が悪い。
気を紛らわせるために、枕元に置いておいた本を手に取る。お気に入りの旅行記だ。悪夢に襲われた時は、この、楽しい本の中の世界に飛び込むのだ。そうすると上手く逃げられる。
いつもはぼんやりと本を眺めて、心が落ち着くのを待つのだけれど……今夜はついでに、辞書とペンを手に取った。
『頑張りましょうね』と、笑みを向けてくれた先生の姿が脳裏をよぎる。彼女とのやり取りを思い出して、夢見の悪さが上書きされた。
(リセ先生、意外といい人だったな……)
最初は何となく斜に構えてしまっていた。
顔に怪我をしているけれど、そこらの街娘とは思えないほど美しく、どこか気品があり、尊大な雰囲気をも、まとっていたので。ちょっと、ひねくれた目で見てしまっていたのだけれど……。
(こんな本見せたら、絶対馬鹿にされると思ったんだけどなぁ)
付箋だらけの本をパラパラとめくる。彼女は意外にも、こんな自分を褒めてくれた。
『こんなのも読めないのか。ガキの読み物じゃないか。馬鹿だなぁ』と、笑われたり、貶されたりしたことは多々あった。が、『素晴らしい』と褒められたのは初めてだ。
「単語帳作り、頑張ろう」
多少面倒なことでも、褒められると、人間はやる気が出てしまうようで。この夜は深夜をずいぶんとまわるまで、宿題に勤しんでしまった。
悪夢による胸のざわつきは、いつの間にかすっかり、消えてなくなっていた。