8 転身の妃、リセ先生
翌朝は、窓から差し込む光と、裏手の森から届く小鳥たちの声で目が覚めた。
逆賊として、修羅場の最中にいる身ではあるが……なんとも気持ちの良い朝を迎えた。
旅の疲れと諸々の心労で、昨夜は泥のように深く寝入ってしまった。ベッドでぐっすりと眠れたため、今朝はずいぶんとすっきりした心地だ。
緊張もすっかり解けて、潜伏生活の幕開けにしては、自分でも驚くほどに穏やかな気分でいる。
きっと、飄々とした態度で気安く接してきてくれた、ネッサのおかげだろう。余計な力を抜いてくれたことに、心から感謝したい。
軽く身支度を整えて、姿見で確認する。今日からは男装を解き、街の平民女性らしい装いで暮らす。簡素なブラウスとスカートを身にまとい、居間へと向かった。
「おはようございます、ネッサ博士」
「あぁ、おはようさん。お前さん、料理をしたことは?」
「恥ずかしながら……」
「じゃあ、覚えてもらう。鍋が焦げ付かないように、スープをかき混ぜといておくれ」
ネッサは既に朝ご飯の支度をしていて、エリーゼにエプロンとスープレードルを手渡してきた。
自分ではしたことがないが、料理の様子は本で読んだり、劇の中で見たことがある。見よう見まねで、かまどに置かれた鍋をグルグルとかき混ぜてみた。くべられた薪が弾けて、時折、熱い火の粉が飛んでくる。
エリーゼの足元には綿玉――キャンがぐるぐるとまとわりついてきて、スカートの裾に毛を付けていた。舌を垂らした満面の笑みで、朝からご機嫌な様子。一日の始まりが嬉しくて仕方ない、といった雰囲気だ。
「エリーゼ――……じゃなくて、リセ、棚から皿を出しとくれ」
「ええと、どのお皿でしょう?」
「適当でいいんだよ、適当で。ほれ、早くテーブルに並べて」
「適当……?」
どうやら、自分が心得ているテーブルマナーとは、だいぶ勝手が違うようだ。
(今日から先生業を生業とすると決めたけれど……わたくしの方が、学ぶべきことが多そうだわ)
苦笑を浮かべている間に、ネッサが手早く朝食の準備を済ませてしまった。
テーブルの上には、パンのカゴも、バターも皿も、カトラリーも、秩序なく自由に散りばめられていて、これが『適当』なのだと覚えた。
そうして朝食を取った後、庭のテーブルと椅子を拭き、青空教室の準備を整える。ネッサは朝日の下で二杯目のコーヒーを楽しみながら、鍵を投げて寄越した。
「そこの蔵書庫の物は好きに使っていい」
「ありがとうございます」
受け取った鍵で、離れの小屋の扉を開けると、中にはズラリと本棚が並んでいた。歴史書に、地学書に、大陸文学全集。絵画技法の本までそろっている。
棚を見回して、子供たちの勉強に使えそうな本をいくつか手に取った。
(まずは読み書きの基本を教えるべきよね。国語辞典に、それから算術書)
本の他に、古びた筆記具なども保管されている。古紙の束も乱雑に放られているが、紙の裏側をノート代わりに使えそうだ。
あれこれと授業道具を見繕って、庭のテーブルの上に広げた。
「この古紙も使っていいでしょうか」
「あぁ、かまわないよ。論文の書き損じだ。どうせ捨てるものだからね――って、おっととと、コーヒーが」
「あら、大丈夫ですか。布巾を――」
ネッサのコーヒーがトプンと波打って、テーブルにこぼれた。エリーゼが布巾で拭き取ろうとしたが――……一瞬、こぼれたコーヒーがもぞもぞと動いた気がした。
(……? 気のせい、か……。ぐっすり眠ったけれど、まだ疲れは取れていないみたいね)
変な見間違いに、目をこすって苦笑をこぼす。と、ちょうどその時、少年たちの元気な声が耳に届いた。
「悪ガキトリオが来たようだ。今日はリセに任せるよ。頼んだよ、先生」
「承知しました」
そう答え終える前に、少年三人組がワイワイとこちらに駆けてきた。
そしてさらに、もう一人。子供たちに紛れて――いや、紛れられない長身までもが顔を出した。フレーゲルだ。
少年たちは大盛り上がりしていたが、フレーゲルは複雑な顔をしていた。
「わ~! 今日はスカート履いてる~!」
「可愛い!」
「やっぱ新しい先生だったんだ! 名前は?」
「リセと申します。これからどうぞよろしく」
「俺はピスカ!」
「プカ!」
「パック!」
「……フレーゲルです、どうも」
席につく少年たちと一緒に、フレーゲルも腰を下ろした。が、足を組んでドカリと座る姿は、まったく可愛げがない。
「リセさん、本当に先生なんだ……」
「えぇ。新米ですけれど。あなた、お仕事はどうしたのです。また、ナンパにかまけておサボりですか?」
「なっ、違う! 人をサボり魔みたいに言うなよ。火の曜日と金の曜日は休みなんだ」
彼は不貞腐れた顔で答えた後、さっさと話題を切り上げて、足元に寄ってきたキャンを構い始めた。
エリーゼも会話を終わらせて、さらに集まってきた生徒たちに自己紹介の挨拶をする。
ピスカ、プカ、パックの三人組とフレーゲルの他に、十代前半くらいの男女の子供たち数人が顔を出した。
生徒たちをきちんと座らせて、テーブルの上に勉強道具を配置する。ノート代わりの紙に、教科書、筆記具――。
整えられた青空教室を前にして、自身もピシリと背筋を伸ばし、エリーゼは初めての授業を開始した。
「これからあなたたちには、基本の読み書きと算術を学んでもらいます。試験に合格したら修了。そうしたら、より高度な次の勉強へと進みます。それでは皆さん、まずはこの課題を――」
説明しながら、手製の問題集を配っていく。生徒たちを出迎える間に作ったものだ。簡単な計算問題が、紙一面に書かれている。
問題集を見た生徒たちは、皆、目をパチクリさせていた。
「さぁ、皆さん、ペンを持って。始め!」
自分が子供の頃に世話になった王室教師を思い出しながら、パン、と手を打ち鳴らした。
けれど、生徒たちは困惑した面持ちで問題集に目をやるだけで、取り組もうとしなかった。ため息まじりに、ポツポツと呟きがこぼされていく。
「え~……僕、計算を解きに来たわけじゃないのに……」
「私も、算術なんてわからないわ……難しくてできやしない。それより、お花の育て方を教えて欲しいなぁ」
上がった不満の声に、フレーゲルまで乗ってきた。ぼそぼそとした小声で、調子づいた文句を寄越す。
「そうだそうだー。こんなの学校じゃない。やっぱりネッサ博士が授業をするべきだ」
彼の意見を後押しするかのように、ピスカ、プカ、パックも、『学校じゃな~い!』なんて、ブーブー言っている。
ネッサは庭の端で論文を読んでいるようだったが、皆の視線を受けて、やれやれ、と立ち上がろうとした。
が、その前に、エリーゼがよどみなく言葉を返した。
「こういうものですよ、学校というものは。読み書き計算の、学力の土台を作るところです。確かに、土台作りは地味で面倒で、つまらないかもしれない。でも、しっかりと作れたならば、その上にはどんな建物だって建てられるわ」
エリーゼは生徒たち一人ひとりを見回して、話を続ける。
「基礎を固めておけば、その後には、医者だって、薬師だって目指せる。やり手の商人にもなれる。学者になって城に上がることだってできるかもしれない。そんな未来の可能性を、むざむざ手放すのは、あまりに惜しいと思うけれど。あなたたちは、どう思う?」
生徒たちは何か思うところがあったようで、話に耳を傾けていた。
学識を身に着けると将来の幅が広がる。
一般的に、高い身分を持つ者ほど学歴も高いが、身分は足枷にもなる。身分持ちは家柄や体裁で将来が決まるからだ。
それに対して、今この場にいる生徒たちは、学歴こそ貧しいが、身分にとらわれない自由がある。知と自由が合わさったら、未来の可能性は無限大だ。それはもう、羨ましいくらいに。
人は学びによって良好な視界を得る。将来を広く見渡して、己で進路を定めることができるようになる。なりたい職業を選び、暮らしたい国を選び、好きな生き方ができるようになるだろう。
「わからないなら教えます。できないなら、できるようになるまで指導します。――さぁ、皆さん、ペンを持って。食わず嫌いをせずに、まずはやってみましょう」
そう声を掛けると、複雑な表情をしつつも、生徒たちは問題集と戦い始めた。
(まぁ、初回はこんなものかしら。よしとしましょう)
多少のやる気のなさには目をつぶろう。勉強というのは習慣化が大切なのだ。続けているうちに、きっと意識も改まってくるはず。
せっせと問題に取り組む生徒たちを見守る。勉学に励む若者たち……実に素晴らしい光景だ。
と、感慨にふけっていたのだけれど――……その勉強風景は、あっという間に崩壊してしまった。
「あ~~~~もう飽きた~~~~」
「目がチカチカする~……」
「つまんない! わかんない! 無理~!」
ピスカ、プカ、パックの年少組が、早すぎる限界を迎え、筆記具を放り出したのだった。
「こら、まだ十問も解けていないでしょう」
「六問は解いたもん! 休憩休憩~!」
「あっ、ちょっと、遊ばないの! こら!」
悪ガキトリオはノート用の紙をくしゃくしゃに丸めて、投げ合って遊び始めてしまった。
飛び交う紙玉が、真面目に取り組んでいた生徒の頭にポコポコと当たって、彼らの集中力をも奪っていく。
顔面に紙玉をくらったことで、フレーゲルも集中のスイッチを切ってしまった。
「だ~……。やっぱりこんな勉強つまらないよ。俺はもっとこう、他に知りたいことがあるのに……! 土台作りとか、まどろっこしいことしないで、直接教えてくれよ! なぁ、みんなもそう思うだろう? もっと楽しい授業をしようぜ、リセさん!」
「何を勝手なことを。ほら、皆さんペンを持って! 集中して!」
注意するも、もはや誰も指示に従わない。フレーゲルの言葉を皮切りに、青空教室は完全に自由時間に入ってしまった。
ピスカが椅子から飛び降り、草陰に手を突っ込んだ。拾ってきたものをズイと突き出して、悪戯な声をかけてきた。
「先生! 俺、虫が好きだから虫の授業がいい!」
「ひっ……」
巨大な甲虫を目の前にかざされて、思わずのけぞってしまった。恥ずかしいことだが、エリーゼはあまり虫が得意ではない。足が多くてウゾウゾと動く様に鳥肌が立ってしまう。
「テーブルの上に置かないで……! 草の中に戻してきなさい! あっダメダメ、飛んでしまう……! ひぃっ!」
ハネを広げてブオンと飛び立った虫に怯み、咄嗟にフレーゲルの後ろに逃げてしまった。大柄な体躯が盾としてちょうどよかったのだが……彼は何を思ったか、勝ち誇ったような顔をして、皮肉を言ってきた。
「おやおや~? リセさんは虫の授業ができないようだ。よし、俺が代わりに先生になってやろう。ピスカ、プカ、パック、庭にいる虫を片っ端から集めておいで。俺が名前を教えてやる!」
「よっしゃ!」
「わ~い!」
「でっかいの捕まえてくる!」
「なっ……やめなさい! 席に戻って!」
叱責は虚しく響き、少年たちは庭を駆けまわり始める。
フレーゲルの皮肉めいた『先生ごっこ』の遊びに、他の生徒たちまでもが乗ってきてしまった。
「僕は魚釣りが好きだから、釣りの授業をしてほしい。魚が多いところを教えて!」
「森の大橋の、大木が出っ張ってるところはよく釣れるぞ。陰を狙うんだ」
「私は殿方に好かれる髪型を知りたい!」
「職場の馬飼い連中の中では、長髪派が多数だな。たまに結い上げて、うなじが見えたりすると、かなりグッとくる! ってみんな言ってる」
「ねぇ、虫捕まえた! これ何て虫?」
「それはマルマルテンテン虫だ。今、名付けた!」
次々と小気味よく答えていくフレーゲルは、いつの間にか皆の中心となっていた。厳かな授業の場は、すっかり愉快な質問広場と化してしまった。
フレーゲルはニヤリとした笑みを向けてきた。
「俺の方が先生に向いてるな」
ふふん、と得意げに笑う彼に、じとりとした目を向ける。
もう、こうなってしまったら仕方ない……。エリーゼも休憩を取ることにして、庭の端へと寄った。
ネッサがポットから茶を注いで、手渡してきた。
「ずいぶんと賑やかな授業風景じゃないか」
「不本意です」
「ははっ、あんたの目には、民草はしょうもなく見えるかい?」
「そんなことは……。ただ、わたくしの思う学びの風景とは、大きなずれがあるようで、正直困惑しております」
「だろうね。毎分毎秒キリキリしていたあんたの世界とは、まるで違うだろう。下界にはこうやって、適当で、しょうもなくて、柔軟で、自由な世界が広がっているわけだ」
「……改めるべきは、わたくしの方……なのでしょうか」
無意識のうちに、自分が受けてきた授業の雰囲気を基準にしていた。時間はきっちり守るのがあたり前。姿勢を正して席に着き、教師の指示は絶対で、ミスを犯さないように集中する。
この先入観が、そもそもの間違いだったのかもしれない。現に、目の前の青空学校はしっちゃかめっちゃかだ。
「計算問題を解くのも大事だが、目先のしょうもない問題を解決する、というのも、一つの勉強だと思うがね」
「……そうですね。生徒にとっても、わたくしにとっても」
目先のしょうもない問題。釣り場を知りたいだとか、殿方にモテる髪型を知りたいだとか。生徒たちはそれぞれが抱えている問題を解くために、この庭を訪れている。
それを無下にして、後回しにしてしまった結果が、この授業崩壊だ。
(やり方を変えるべきか。もっと柔軟に)
めちゃくちゃになってしまった青空学校の主導権を、どうやって取り戻すか。――エリーゼ自身にも、一つの問題が課せられてしまった。