7 青空学校の博士
馬の駅を出て、地図を片手に歩いていく。向かう先は街の端。祖父の古い知人が住んでいるらしい。
開拓途上の街ともあって、ジル=ハイコの街は王都よりも複雑に入り組んでいた。見渡すような大広場に出たかと思うと、人一人通るのがやっとの細い階段道もある。
昼をずいぶんと過ぎてしまったが、迷いそうになりながらも、どうにか目的地らしき建物に到着した。
(ネッサ・クルーガー博士の研究所――。ここかしら)
街の端っこ、未開拓の深い森の際に、こぢんまりとした複数の小屋が寄り集まっていた。石畳の小道に沿って、敷地内に踏み入ってみる。
奥には円形の庭があった。
花と緑が美しい庭だ。裏手の森から遊びにきたのか、リスの群れが足元を走り抜けていった。
中央には、木でできた大きなテーブルが据えられていて、そこかしこにたくさんの椅子が置かれている。
その椅子の一つに、一人の老婆が腰掛けていた。
肩までのグレーの髪に、グレーの右目。左目はオレンジがかったオッドアイだ。高い歳ながら、神秘的な美しさを感じさせる容姿の老婆。――彼女が、エリーゼの目当ての人。
「ネッサ・クルーガー様、ですね? 不躾にお庭に立ち入り、申し訳ございません。エリーゼ・ベルホルト・バルドと申します」
コーヒーを飲みながら読み物をしていた彼女は、視線だけをこちらに向けて返事をした。
「お偉いお妃様なんぞに様付けで呼ばれると、ムズムズして仕方ないわい。敬称を付けたけりゃ、『先生』もしくは『博士』とでも呼びな」
「承知しました、ネッサ博士」
「はいはい、よろしくさん。遠路はるばる、ご苦労なことで」
ネッサはぶっきらぼうに、手をひらひらと振って挨拶してきた。
(よかった、話は通っている。やっと一息つけるわ……)
ベルホルト家が先に早馬を走らせて、話を通しておいてくれたのだ。今後、エリーゼは彼女のもとで潜伏生活を送ることになる。
拠点にたどり着き、ひとまず、一山を越えた心地だ。
事件が起きてからというもの、ずっと張り詰めていた気がゆるみ、肩の力が抜けた。
鞄を地面に下ろして、ヘトヘトの心身を労おうとした――……の、だけれど、続くネッサの言葉で、目をパチクリさせてしまった。
「で、お前さんは何をしに来たんだい?」
「……え? 事情は既に、お耳に入れていらっしゃるのですよね?」
「あぁ、のっぴきならない事情は聞いたよ。だが、それはそれだ。あんたはあたしのもとで、何をするんだい?」
「ええと……? しばらくの間、博士の家を拠点として、潜伏生活をさせていただきたく」
「それは妃として、そうせざるを得ないってだけだろう。だが、エリーゼ妃はもう死んだんじゃないのかね? 妃じゃなくなった平民のあんたは、何をやるんだい? 何をやりたいんだい? 何年続くか知れない街暮らしで、まさか置物みたいに何もしない、なんてことはないだろうね」
「それは……」
鋭く細められたオッドアイに見つめられて、思わず口をつぐんでしまった。自分でも驚いたが、答えがすぐに出てこなかったのだ。
リュミエラと連携して水面下で事を進め、王権の立て直しを計る――という、妃としてやるべきこと、やりたいことはある。
けれど、平民に扮している今、平民としてやりたいことは何か、と問われると……何も、思い浮かばなかった。
答えに困っていると、ネッサは見限ったように視線を外した。また手元の読み物――論文の束へと目を向ける。
「あたしは人道主義者じゃないのでね。つまらない輩や、考えが合わない相手とは関わらんと決めている。どうやら、お前さんとは駄目そうだ」
エリーゼへの興味を失ったらしく、彼女はもう、話しかけてこなかった。
(……王都に居を据えない学者は変わり者が多い、とは聞いたことがあったけれど。ネッサ博士も、例に漏れないお方なのね)
きっと彼女には、身分も王権も、国の大事ですらも、どうでもいい物事に過ぎないのだろう。
さて、どうするか。こうなってしまったからには、次の手を――。と、新たな考えをまわす余裕もなく、どっと疲れが吹き出してしまった。
(わたくしに次の手なんて、ない……。どうしましょう……)
自慢の頭も、気の強さも、この数日の徒労のせいで、すっかり消耗している。上手く取り繕えずに、ぼうっと呆けて立ち尽くしてしまった。
そうして途方にくれて突っ立っていると、表の方から賑やかな声が聞こえてきた。声は庭の方へと近づいてきて、三人の子供たちがひょっこりと顔を出した。
十歳にも満たない、少年たちだ。彼らはこちらにパタパタと駆けてきて、遠慮もなくネッサに引っ付いた。
「先生~! べんきょー、おしえてー! 変なコイン拾ったの! これ何て書いてあるの?」
「これは隣国の通貨だね。『王を称えよ』と書いてある。『王』のスペルはこの国と同じだ。覚えておきな」
「この花は何か知ってる? すっごい臭いんだ!」
「ほう、森で摘んできたのかい? その花は臭いはきついが、れっきとした薬草だ。集めて薬屋に売れば金になるよ。一束で五G。六束でいくらになる?」
「え~っと、三十G?」
「じゃあ、こっちの草は? これも五G?」
「それは毒草。金にならん。早く捨てな」
「げ~っ!」
子供たちは森や街中で拾ってきたものをテーブルに並べて、ネッサにあれこれと質問をしている。他にも、見聞きしたことや、相談事なんかを話し、答えをもらっていた。
やり取りをポカンと眺めていると、子供たちはエリーゼにも話しかけてきた。
「この人は? がっこーの先生?」
「新しい先生だー!」
「ねぇ、この木の実って食べれる?」
「……え? ええと、それはパチクの実でしょうか。食べられないけれど、中の白い実をすり潰すと、おしろいの原料になるわ」
「おしろい、って何?」
「女性の肌を白く滑らかに見せる、お化粧品のこと」
「へぇ~!」
答えてやると、子供たちは殻を割って中身を出し、白い実を砕いて遊び始めた。
遊びを見守るネッサに向けて、疑問が口をついて出た。
「ネッサ博士は学校を運営していらっしゃるのですか?」
「そんな大層なものじゃない。暇つぶしで教えてやってるだけさ。金は取ってない。まったく、かつかつの暮らしさね」
「教育機関として申請を出せば、国からの援助が受けられますが」
「お役所との契約は面倒が多くて好かんのだよ。支援者は他にいるからいいのさ。ありがたいことに、おいぼれ好事家の研究を買ってくれる人がいてね」
学者たちの研究や技術、国を潤す知恵などは、王城に集結させて国力の強化に繋げたいところだが……彼女のように、個人で勝手に取引先を作ってやり繰りをしている、という研究者も多いのが実情だ。
嘆かわしいことだが、この話は、今は流しておく。
「博士は何の研究をしていらっしゃるのですか?」
「その質問は今まで二十人に聞かれたことがあるが、二十人とも顔を引きつらせたから、教えないよ。面白い研究なのに、み~んな変な顔をするんだから。やれやれ、オタクの肩身は狭いもんだ」
ネッサはフンと鼻を鳴らして話を切ったが、思いがけず、子供たちが話題を引き継いだ。
「俺らは知ってるよ!」
「ね~!」
「前にね、研究室に忍び込んだの!」
「悪ガキどもめ、余計な事を言うんじゃないよ。秘密をばらしたらタダじゃおかないからね!」
「やばい! 博士怒らせると角生えるぜ!」
子供たちは両手の人差し指で角を作って、ギャハハと大笑いをして逃げ出した。
そうして悪戯少年三人組は庭を後にしたが、その後もちらほらと子供が訪ねてきては、ネッサに色々なことを教えてもらっていた。金の計算であったり、困り事の解決策であったり。
ネッサは、ただの暇つぶしだと言っていたが、やはりこの庭は、街の子供たちにとっては学校として機能しているみたいだ。こういうのを、青空学校と呼ぶのだったか――。
わいわいと集まっていた生徒たちは、夕日と共に散っていった。ネッサもテーブルの上を片付けて、帰り支度を始める。青空学校は仕舞いのようだ。
夕日で赤く照らされたオッドアイが、今一度、エリーゼに向いた。
「最後にもう一度、聞いておこうか。あんたはあたしのもとに身を置いて、何をしたいんだい? 突っ立ってる間に、何か答えは見つかったかね? 何も捻り出せないなら、悪いがあたしは手を引くよ。その辺の宿を借りて暮らしな」
平民として、街暮らしでやりたいこと。やってみたいと思うこと。
最初に問われた時は、戸惑って呆けてしまったが……もう一度考えてみると、一つ、頭に浮かんできたことがあった。
「答え、と呼べるものではないかもしれませんが……先ほどの子供との問答は、面白い心地がしました。もし、ここに身を置かせてくださるのでしたら、わたくしは博士と同じように、子供たちに物事を教えてみたい」
自分は幼い頃から妃教育を受けて、これでもかと物事を叩き込まれてきた。学問はもちろんのこと、他にも、あらゆる分野の教養を。
街暮らしをする間、それらを腐らせているのではなく、人々に分け与えることができたなら――。想像すると、何だか胸の奥が高鳴るような心地がしたのだ。
「それは、あんたが幸せだと思えることかい?」
「幸せ……? ええと……そう、呼べるかもしれません。子供らの喜ぶ姿を見て、わたくしも嬉しく思いましたから」
ネッサは見定めるように、じろりと見つめてきた。が、ふいに視線を外すと、テーブルの上の荷物をまとめて歩き出す。
「おいで。家を案内しよう。居住用の小屋はここ。ゲストルームが空いてるから、自由に使いな。奥はあたしの研究室になってるから、勝手に入るんじゃないよ」
「……はい! ありがとうございます!」
我ながら、ずいぶんとふわっとした答えになってしまったけれど、ネッサの眼鏡には適ったみたいだ。
急いで鞄を持ち上げて、彼女の後に続いた。
居住用の建物の扉を開けると、のそのそと小さな犬が歩み寄ってきた。ふわふわの綿を丸めたみたいな小型犬だ。
「こいつの名前は『キャン』。天気が良い日は庭で遊ぶのが日課だ。散歩はあんたにも協力してもらうよ」
「はい、承知しました」
よろしく、と手を差し出すと、犬は『キャン!』と鳴いた。なるほど、わかりやすい名前だ。何がそんなに嬉しいのか、満面の笑みで、尻尾を千切れんばかりに振っている。
ふわふわの毛を堪能しているエリーゼを見て、ネッサは苦笑をこぼした。
「犬を愛でる余力があるのは、結構なことだ。『城を追われて、身分もなくして、あたしってば可哀想……』なんて、泣き出すような娘だったら、庭からもさっさと追い出してやったところだが」
玄関に連なる居間へと案内され、椅子を勧められた。ありがたく腰掛けると、今度こそ、脱力感に体がゆるんでいく。
「突き放すようなことをして悪かったよ。悲運にかまけて、幸福や喜びを追う努力をしない人間ってのは、往々にして面倒臭い奴が多いからね。陰気な空気をまき散らして、周りの人の元気まで奪っちまうんだ。あたしはそんな奴と暮らすなんて、頼まれても御免なのさ」
カップに作り置きの茶を注ぎながら、ネッサは持論を述べた。
「あんたがその手合いじゃなくてホッとしたよ。さすがは王を騙くらかして死におおせた、悪妃エリーゼといったところか」
「これからは『リセ』、と名乗って暮らすつもりです」
「ファミリーネームはクルーガーと名乗りな。あたしの名前を貸してやる」
「重ね重ね、感謝申し上げます」
「一応聞いておくが、『妃』としてのあんたは、この先、国をどうするつもりなんだい?」
ネッサは、何てことない世間話の延長といった雰囲気で、問いかけてきた。エリーゼは髪を隠していた帽子を外し、姿勢を正して答えた。
「わたくしは現王、ソーベルビアを見限りました。あの王は力に溺れ、きっと短命に没する。いずれ玉座が空になり、国は大きく荒れるでしょう。その前に、『王族と祖先を共にする名家』とも噂されている、最果ての辺境伯家から新王を内定し、王権の立て直しを図りたく思っています。側妃に動いてもらうべく、既に指示を出している。王権が切り替わる時を待ち、わたくしは必ずや、帰城します」
「そう上手くいくかね。ソーベルビア王とやらは、ずいぶんと未熟な王だと、風の噂で聞いているよ。城内の動きに勘づいたら、どう暴れるか」
「国を揺るがすほどに暴れるのならば、その時は――」
茶を一口飲んで、のどを潤してから言い切る。
「殺します。短命に没する時を待たず、早急に、ソーベルビアの首を落とす」
「バルド王族の魔法に勝てるのかい? 王は逆賊に自死の魔法をかけるだろうさ」
「多くの兵が犠牲になると考えています。そのためにも、最果ての辺境伯家と縁を繋いでおきたい。彼の家が抱える騎士たちは、命を顧みない勇猛な強者ぞろいですから」
「おっかないねぇ。暴君と張り合えるのは悪妃のみ、か」
ネッサは怖い怖い、と身震いをしてみせたが、まったく怖そうな顔をしていなかった。
カゴに入ったチーズを手に取り、ちぎってキャンに与えながら、彼女は言葉を続ける。
「まぁ、王との戦いなんぞは好きにしたらいい。だが、ここにいる間は平民らしく働いてもらうよ。掃除、洗濯、買い出し、料理、あとはさっきあんたが自分で言った、先生業をやってもらうとしよう。あたしの代わりにね」
「訪ねてくる子供らに、わたくしが授業をしてもいいのですか」
「あぁ、何でも教えてやっておくれ。あたしも自分の研究があるから、あんたが先生をやりたいと言ってくれてよかったよ。頼んだよ、リセ先生」
先ほどネッサは、学校は暇つぶしでやっている、と言っていたが、何だかんだ生徒たちに真摯に対応していた。人道主義者ではない、とも言ってたが、十分に人道的な行いだ。彼女は天邪鬼なところがあるらしい。
人柄が見えてきて、口元をゆるめてしまった。
と、その時。居間の窓がガタガタと音を立てた。誰かがノックをしている。
「ほれ、リセ先生。早速生徒が来たよ」
ネッサが立ち上がって、窓を開けた。それと同時に、賑やかな子供の声――……とは言えない、朗らかで低い男の声が飛び込んできた。
「ネッサ博士、ちょっと教えてほしいんだけど、今いいですか~……って、誰かいる? お客さん? すいません、タイミング悪かったな」
謝りつつも、不躾に、窓から部屋の中へと上半身を突っ込んできた男と、視線が交わった。その瞬間、二人で目を瞬かせてしまった。
「あっ! ツンツン殴られ訳あり人妻!!」
「ツンツン殴られ訳あり人妻……!?」
こんなに酷い通称があるだろうか。悪妃より不名誉な呼び名だ。思わずオウム返しに口にしてしまった。
この男は昼間に会った馬飼いだ。その目立つ眼帯と、世にも鬱陶しいナンパは忘れもしない。
ゴホンと咳払いして、エリーゼも窓際に寄った。
「不名誉な愛称をありがとう。でも、わたくしにはリセという名前があります。お見知りおきを、モテない馬飼いナンパ男さん」
「なっ、聞いてたのか……!? クソッ、俺こそフレーゲルという名前がある!」
フレーゲルと名乗った彼は、腕を組んでフンと鼻を鳴らした。
二人の間に流れる、ひりつく空気をよそに、ネッサはキャンを抱き上げて笑っていた。
「なんだい、知った者同士かい。フレーゲルよ、リセはあたしの遠~~い親戚なんだ。明日からあんたの先生だよ。仲良くしてやっておくれ」
「この人が先生!?」
「この人が生徒……?」
二人の声が被さり合う。神妙な顔を見合わせてしまったが、先に気持ちを切り替えたのはエリーゼの方だった。
「まぁ、いいでしょう。先生をやると決めましたから、どんな生徒も受け入れます。――それで、あなたはネッサ博士に、何を聞きにいらしたのでしょう。わたくしが代わりにお教えしますよ」
「え~……若い女の子に頼るのはな~。なんか男のプライドが傷つく。昼間も説教されたし……」
「若くありませんよ、二十五歳です」
「若いじゃない。たぶん同じくらいだ」
「たぶん?」
反射的に言葉を返してから、ハッと気が付いた。年齢が曖昧ということは、数えてくれる親がいなかった、ということだ。
根本的に育ちが違うことに思い至り、即座に内省した。
(いけない……城人の感覚でいては駄目ね)
フレーゲルは複雑な面持ちをして、しばらく、じろじろとエリーゼを観察していた。
「う~ん……やっぱり今日はいいや。明日また、ネッサ博士に聞きにくるよ。じゃあね、ツンツンお姉さん」
結局、彼は質問を口にすることなく帰っていった。
後姿を見送りながら、ポカンと呟いてしまった。
「……生まれて初めて、王族以外の人間から侮られました」
「街暮らしの洗礼をくらったね。若い女は街男に舐められるから、気を付けな」
「心得ておきます」
特徴的な容姿、しつこいナンパ、そして侮られた悔しさ。フレーゲルという男は、エリーゼがこれまで出会ってきた人々の中でも、特に印象深い人間として心に刻み込まれた。
そして、この先の人生においても、彼以上にエリーゼを翻弄した人はいないのだった。
悪妃エリーゼの死を決定的なものにしたのは、このフレーゲルという男。
歴史に刻まれることはなかったが、彼こそが、エリーゼを殺したのだった――……。
同じくらい、と言いつつ――……
フレーゲルはきっと年下です。