27 魔王
殴る蹴るの暴行の最中――。
とんでもない見世物が始まって、混迷を極めている広場の端に、領主フィデリオが顔を出した。
「エリーゼ様……! 駄目だ……! やはり見殺しになど……っ」
素知らぬ顔で屋敷に留まっているように、と命令されていたのだが……やはり、どうにも気持ちが収まらず、命に背いて出てきてしまったのだ。
中央でズタズタにされている姿を目にして、たまらずに人波へと突っ込んでしまった。
押し寄せた人々がひしめき合う中を、分け入って進もうとしたが――……ふいに、広場中が真っ赤な光に包まれた。
かと思えば、どういうわけか、足がピクリとも動かなくなってしまった。
「なん……だ……!? 体が……」
自由が利かなくなったのは、足だけではない。全身がおかしな緊張でこわばり、動けなくなってしまった。
わけもわからず、目玉だけを回して周囲を確認したが、広場中の人々が同じように固まっていた。
動いているのは中央の面々だけだ。ソーベルビア王が高々と右手を掲げていて、中指の指輪から、深紅の光が発せられている。
バルド王族の魔法を食らったのだ――。と、気が付いた時には、もう遅かった。悔しさに地団太を踏みたくなったが、それすらもできなくなっていた。
ソーベルビアは剣を手にした右手を掲げて、魔法と命令を放った。
「騒ぐな! 皆、心して見届けよ! 史上稀なる悪妃の処刑を!!」
広場中の人々の目が、一斉に、ギョロリとエリーゼに向く。
ソーベルビアは周囲を見回し、魔法の効きを確認した後、剣先でエリーゼの体をなぞった。
刃と手を獣のように動かして、舌なめずりをしながらエリーゼの服を剥き始める。ブラウスを破かれ、スカートを引き裂かれ、下着と肌が露わになった。
「はははっ、無様だなぁ! 正妃の位にあった女が、大衆の前で娼婦のような姿を晒すとは! 首を落としたら丸裸にして、街中を引きまわしてやろう。これほどの屈辱はあるまい」
ソーベルビアはエリーゼに向けて魔法を放つ。
「さぁ、仕舞いだ! 身を起こして、首をこちらに向けよ!」
「……はい……陛下……」
深紅の光に照らされて、命じられるまま、体が動く。どうにか上体だけを起こして、項垂れるように首を差し出した。
「逆賊よ、死をもって償え!!」
高らかに言い放ち、ソーベルビアは両手で剣を握りしめる。
そして勢いよく、力一杯、振り下ろしたのだった。
あぁ、ついに、真の死の瞬間が来た――……。
力なく目を閉じて、最後の息を吐いた。
……――が、息を吐き切る前に、突然、全身に衝撃を受けた。何かが、横から思い切りぶつかってきて、エリーゼはその相手と共に、ひっくり返った。
「……っ……!?」
悲鳴すらも出ない、一瞬のことだった。
地面に倒れ込んだところで、何が起きたのかを理解した。
人垣を押しのけ、暴れ牛のように突っ込んできたのは、フレーゲルだ。勢いのままエリーゼを抱え込み、彼の背中は振り下ろされた剣の盾になった。
刃はフレーゲルの背の肉を引き裂き、鮮血が飛び散った。
エリーゼを体の下に庇ったまま、フレーゲルは痛みと怒りに顔を歪めて、怒声を寄越した。
「何が、出掛けてくるだよ、馬鹿……!! 何やってんだよ……! あんたが何者か知らないけど、こんなのおかしいだろうが! 自棄になっちゃいけないって言ったのは、あんただろ……っ!!」
「フレー……ゲル……!? 駄目、逃げて……! 早く!!」
「っ……」
エリーゼは目をむいて叫び返したが、言葉尻に、フレーゲルの呻き声が被さった。彼の口と胸から大量の血が流れ出て、下にいるエリーゼを赤く染めていく。
ソーベルビアの追撃の剣が、フレーゲルの背中から胸までを、刺し貫いていた。
「無粋な邪魔者がいたものだ。私の魔法をかわしたか……ドブネズミのようなすばしっこさは褒めてやろう」
貫いた剣をグリグリと捻って抜き払うと、傷口からは噴水のごとく、血液が噴き出した。フレーゲルは虚ろな左目でエリーゼを見て、血と一緒に最期の言葉を吐く。
「……逃げろ……リセ…………あなたには……幸せに……なって……ほし…………」
「フレーゲル……っ!!」
悲鳴じみた声で名前を呼んだが、彼は返事をせずに、力なく崩れ落ちた。エリーゼを庇うようにして、被さったまま……息を、止めた。
体の痛みなどは、もはや意識に上らず、無我夢中で身を起こしてフレーゲルを掻き抱いた。
「あぁ……嘘……そんな…………どっちが馬鹿者よ……この……大馬鹿男…………」
込み上げてくる涙は、もう留めることができなかった。
血まみれになった黒髪を胸元に抱き込み、ずれた眼帯から覗いた素顔を撫でてやる。苦渋の表情はもう解かれて、穏やかに目を閉じ、眠っているように見える。
その死に顔だけが、救いと言えるかもしれない……。一瞬の苦しみだけで天に昇れたのなら……終わらない苦痛に、もがき苦しむ死よりかは、まだ、ましであろう……。
筆舌に尽くしがたい、耐え難い、許しがたい、悲劇であることには変わりないけれど――……。
ソーベルビアは少しの間、死体を抱きしめて涙を落とすエリーゼを見ていた。が、そのうちに、嘲笑と苛立ちを含んだ声を寄越した。
「ほう、貴様も取り乱すことがあるのだな。夫の前で他の男の名を呼び、あまつさえ抱いてみせるとは……ははぁ、そういうことか! 不貞の売女め!」
ゴミを見るような目で見下ろしながら、ソーベルビアは剣を投げて寄越した。同時に魔法を放って命令する。
「剣を取れ! 罪を重ねたお前は、より苦しんで死ぬのがよかろう。自分で、己の首を落としてみせよ」
「…………」
命じられるまま、エリーゼは投げ渡された剣を手に取った。
「刃を喉にあてろ!」
言われた通り、刃を喉元にあてる。
剣の重さに耐え兼ねて、両腕が震えている。魔法に操られてはいるが、この体では、自分の首を落とすことなど困難だろう。きっと死にきれず、苦しむことになる。
それで構わない。思い切り苦しんで、死のうと思う。フレーゲルを巻き込んでしまった罰として、受け入れよう。……なんて、そんな自棄な思いを抱いたら、あの世で、また彼に怒られてしまいそうだけれど。
(……いや、わたくしが落ちるのは地獄だろうから……もう、会うことは叶わないか……)
フレーゲルは明るい天の国に昇ったに違いない。自分は真逆の、地獄をゆく。地獄の果てから手を伸ばし、この許されざる男――ソーベルビアを、同じところに引きずり落としてやる。
絶対に、許しはしない。
エリーゼの動作を確認した後、ソーベルビアは広場をぐるりと見回して、民たちへ再び魔法をかけた。
「誰一人として目を逸らすことは許さない! 処刑を見届けよ!」
彼は魔法を使って強制的に民の目を奪ったが、エリーゼは魔法によらずとも、視線をソーベルビアに固定している。全身全霊の憎悪を込めて、最期まで、睨み据えてやろう、と。
ソーベルビアも睨みを返しながら、深く息を吸い込んだ。そうして大声で命を下す。エリーゼは魔法の光で赤く照らされた。
「エリーゼ・ベルホルト・バルドよ! 自らの首を跳ねて、死ね!!」
途端に、エリーゼの体に、抗えない異様な力が湧き起こる。
渾身の力をもって、喉にあてた剣を振り抜こうと――……したのだ、が……。
刃は首の皮を薄っすらと切っただけで、止まってしまった。
エリーゼの腕力を容易に上回る力をもって、止められていた。
「…………え……?」
思わず、ソーベルビアを睨みつけるのを止めて、自身の手元へと目を向ける。
剣の刃を豪快に鷲掴みしていたのは、真っ黒に染まった、人ならざる異形の手だった。
手の主は――……信じられないことに、エリーゼの膝に頭を置いて、身をゆだねている、フレーゲルの亡骸だった。
いや、動いたのだから、亡骸と言う表現は間違っているか。そもそも、この異形はフレーゲルと呼べるのだろうか――。
その名を呼んでいいのか迷うほどに、彼は、おかしくなっていた。
流れ出ていた真っ赤な血は、インクのような黒色に変わっていた。黒色は体液だけに留まらず、見る間に肌へと滲んでいき、肉体が斑に染まっていく。
体中が真っ黒な闇色へと変わる中、開かれた右目だけが、鮮血の赤色を宿していた。
ドロドロとした黒い体液を流しながら、フレーゲルは身を起こし、エリーゼの剣を奪い取った。口の中に溜まった液を吐き出すと、絶えていた呼吸が再開された。
明らかに、人間の……生き物の、道理から外れている――……。
彼はおもむろに立ち上がり、ゆらりと体を揺らしてソーベルビアに対峙した。
「なっ……なんだお前は! 化け物か……!? 先に貴様から殺してやる! 死ね! 己の首を跳ねよ!!」
異形に変わりゆくフレーゲルを前にして、ソーベルビアは目を瞠り、数歩、後退ったが、踏みとどまって魔法を放った。
けれど、命令に反して、フレーゲルは剣先をソーベルビアへと向けたのだった。
「何……!? 魔法が……っ! 死ね! 死ねぇ……っ!!」
フレーゲルは応じずに、剣先を向け続ける。その間にも異形への変貌は進んでいき、ついには肌のほとんどが真っ黒に染まった。頭には二本の角のような尖りも見えている。
右目は深紅の光をこぼし、王の指輪の魔石から放たれる光とぶつかり合って、溶け合っている……ように見える。
(魔力が……相殺されている……?)
エリーゼは正面の二人を呆然と見上げていた。フレーゲルの目を覗き込んだ瞬間から、不思議と、体の自由が利くようになったのだが……あまりの事態に、身じろぎすらも忘れてしまっていた。
「クッ……おぞましい化け物めっ! 兵よ! この異形を殺せ!!」
魔法が効かないことに焦り、ソーベルビアは飛びのくように後ろへ下がった。代わって兵たちが一斉に間合いを詰め、フレーゲルに襲い掛かった。
複数人の兵が、駆け込む勢いのまま、真正面から剣を振るってきた。フレーゲルは防御の姿勢を取るどころか、それ以上の勢いと速さをもって突っ込んでいき、剣を豪快に振り抜く。
刃をくらった兵は、一人は首が飛んでいき、一人は上半身と下半身が分断され、一人は上体の中ほどまでを切り裂かれて、体が半分に折れ曲がった。
バケツをひっくり返したかのような、大量の血しぶきが上がったが、意に介さず、彼は身を翻す。襲い掛かってくる兵に次々と刃をぶち当て、バラバラに切り捨てていった。
(……なんという豪剣だろう……これは、人を切るための剣技ではない)
嵐のような戦いぶりを前にして、エリーゼは目を瞠るしかなかった。
これは対人用の剣技ではない。何か、もっと強大な、人ならざる獲物を殺すための剣技だ。
『肉を切る』なんて生易しい剣筋ではなく、『物体を叩き切って破壊する』と表現するべき荒業である。
血肉と骨片をまき散らしながら、猛然と剣を振るうフレーゲル。十人、十一人、と兵の肉体を破壊していくごとに、彼はますます人の姿を失っていった。
全身は真っ黒な闇色へと変貌し、頭の角は竜のように鋭く伸びている。
十六人、十七人目の胴体を分断した頃、背中から、無数の大蛇を思わせる触手が生えてきた。
瞬きをする間に、十八人、十九人目の首を飛ばす。魔力に似た赤光をこぼす右目だけでなく、左目も赤く濁り始めていた。
最後の二十人目は、天地を貫く雷のような剣をくらい、肩から股まで縦半分に引き裂かれた。
目の前で繰り広げられている光景に、ただただ呆然として、時間の感覚すら忘れていたけれど――……小隊が壊滅したのは、あっという間の出来事だったようだ。
本を一ページ読み進める時間よりも、短かったかもしれない。
最後の兵を切り捨てた後、フレーゲルは勢いを殺さぬまま、ソーベルビアの方へと駆け出した。
ソーベルビアは咄嗟に、周囲の民衆の一人が抱えていた赤子を奪い取り、盾にした。引っ掴んだ赤子を前に突き出し、怖れ慄いた表情を露わにしながら、裏返った声で命令と魔法を放った。
「クソッ……! 何なんだ! 何なんだ貴様はぁっ!! こっちにくるな!! 止まれ!! やめろぉ――っ!!」
放たれた深紅の魔力は弾かれて、フレーゲルが間合いに入った。剣を振りかぶって飛び掛かったのと同時に、ソーベルビアは赤子を投げつけた。
フレーゲルは瞬時に剣から片手を離し、赤子を受け止めた。
勢いが削がれ、豪剣と呼べるものではなくなっていたが――……彼はそのまま、もう一方の手で剣を振り抜く。
刃は、魔法を放つために掲げられていたソーベルビアの右腕に当たり、肉と骨を分断した。肘から先が飛んでいき、血をまき散らしながら石畳の上を転がった。
(……っ! 指輪が……!!)
エリーゼはハッと我に返り、程近くに転がってきた腕に飛びついた。
すかさず、側に落ちていた石ころを握りしめる。腕、諸共、叩き壊す勢いで、渾身の力をもって、石を指輪に叩きつけた。
指輪の魔石がひび割れて、魔力の光がパンと弾けた。
その瞬間――。広場中の支配魔法が一気に解かれ、固まっていた人々が動きを取り戻した。
今、完全に、王族の支配魔法は失われた――。
その感慨に浸る余裕も、暇もなく、エリーゼは次に襲い来る阿鼻叫喚の波に揉まれることになった。
魔法から解放された人々はパニックを起こし、広場中が一瞬で、大混迷の地獄と化したのだった。
「キャ――――ッ!! 化け物!! 化け物が――――ッ!!」
「に、逃げろ!! 殺される!! 逃げろっ!!」
「誰か助けて!! あたしの赤ちゃんが……っ!!」
耳が聞こえなくなるほどの悲鳴と絶叫。慌てふためき、我先にと逃げ出そうともがく人々。秩序を失い、ドッと押し寄せた人波に揉みくちゃにされて、エリーゼは身動きが取れなくなってしまった。
「皆!! 落ち着いて……! その人は化け物じゃないわ!!」
負けじと叫び声を上げても、もはや民の耳には届かない。パニック状態の群衆を収めることはできず、エリーゼは人の流れに押されていく。
それでも大声を上げ続けていたら、ふいに肩を掴まれた。大汗をかきながら駆けつけたのはフィデリオだった。
「エリーゼ様……っ! ここは危険です! 一旦私の屋敷へ!」
「わたくしはよい! フレーゲルが……!!」
フィデリオはまとっていたマントを外して、酷い姿をしているエリーゼを包んだ。礼を言うことにすら意識がまわらずに、エリーゼはひたすら、向こうの方へと大声を放つ。
「フレーゲル、こっちへ! フレーゲル……っ!!」
人波を掻き分け、つま先立ちになりながら、フレーゲルの姿を目で追ったが――……彼は滅茶苦茶に物を投げられ、人々の罵声と忌避の目を一身に受けていた。
彼が抱えていた赤子は、引っ手繰るように奪い取られ、代わりにナイフが腕に刺し込まれた。勇敢な街男たちが武器を手にして飛び掛かり、異形と化したフレーゲルを容赦なく叩き、切りつけていく。
フレーゲルは袋叩きの真ん中から転がり出て、広場から逃げ出した。
「待って……!! フレーゲルっ!!」
フィデリオの制止を振り切り、エリーゼも走り出す。もう、なりふり構わずに人々を押しのけて、夢中で後を追った。
ソーベルビアは騒ぎに乗じて逃げたようだが……もはや、力を失った取るに足らない王のことなど、意識の端にも上らなかった。




