20 空の墓と僥倖
火は日没を迎える前に消し止められ、翌朝の街には焦げの臭いだけが残されていた。
ネッサの家は七割が倒壊。研究室も半分以上が焼け落ちてしまった。辛うじて、倉庫代わりの小屋が二つばかり残っている。が、敷地の中はずいぶんと寂しい風景になってしまった。
朝早くから生徒たちが駆けつけてくれて、焼けた家の片づけを手伝ってくれている。皆で瓦礫をどかして、使える器具やらを選別していた。
ネッサは焦げ付いた書類や、論文の燃えカスをまとめていた。エリーゼも彼女を手伝い、書物の煤を払っている。たまらない虚しさに、力なく呟きをこぼしてしまった。
「……言葉もありませんね……。こんなに燃えてしまって……。研究は取り戻せそうですか……?」
「研究書が燃えるくらいはどうってことない。その昔、王家もよく焚書をしたそうだよ。でも、学者たちはそんなことでめげたりしなかったそうだ。先人を見習って、あたしもまた、一から論文を綴ってやるさ。……って、学者としては、意地を張れるけど……」
ネッサは深く息を吐くと、庭の端に設けられた墓標へと目を向けた。
「命が燃え尽きちまうってのは、どうにも、こたえるねぇ……」
この、盛られた土に棒が立てられているだけの簡易的な墓は、キャンのものだ。買ったばかりの首輪を墓標に掛けて、供えてある。
ピスカ、プカ、パックの少年トリオとフレーゲルが森に入って、花を摘んでくれている。もうじき帰ってくる頃だろう。
裏の森は街の際に沿って燃えてしまったが、奥までは火がまわらなかったそう。大規模な山火事にならずに済んだことは、不幸中の幸いだ。
領主フィデリオは総力を挙げて犯人を捜している最中だとか。家を失った民たちの仮住まいとして、屋敷の一部を開放している。情に厚い領主だ。エリーゼとネッサも、昨夜からお世話になっている。
ほどなくして、焼け焦げた低木をかき分けて、少年たちが帰ってきた。両腕いっぱいに供花と木の実を抱えている。
「ただいま」
「花いっぱい摘んできたよ」
「あと、キャンが好きだった木の実も」
片付けの手を休めて、エリーゼとネッサは彼らと一緒に、キャンの墓へと歩み寄った。
「ずいぶんと採ってきたねぇ、野リンゴかい。キャンがよだれを垂らしそうだ」
「ここに供えてあげて。きっと喜ぶわ」
墓は一気に華やかになり、笑顔を浮かべて走りまわるキャンの姿が見えるようだった。
これで墓としての体裁は整えられた。……けれど、肝心の亡骸は収められていない。小さな体は、灰に成り果ててしまったのだろう。骨の一つも拾ってやれず、何も、納めることができなかったのだ。
見かけだけの空の墓。まるで、悪妃エリーゼの墓みたいだ。
重い気持ちを振り切って、子供たちに声を掛ける。
「フレーゲルは? まだ森にいるの?」
「なんかねぇ、もっと奥行っちゃった」
「川の方に行ってくるって」
「川辺イチゴ採りに行ったのかも」
川辺イチゴという小粒の苺も、キャンの大好物だ。手厚い供養を受けて、キャンの天国への旅は順風満帆であるに違いない。
「先にお祈りしてていい?」
「えぇ。祈りましょう」
年少トリオは『早く祈りたい!』と、エリーゼとネッサを急かした。後でフレーゲルがそろったら改めて、もう一度、皆で祈りを捧げるとして――……まずは彼らと、先に手を合わせることにした。
「天の神よ、旅立つ者に安らぎと幸福のご加護を」
胸の位置で両手を組んで目をつぶる。ネッサは祈りもそこそこに、目頭を押さえて文句を言っていた。
「まったく……せっかく首輪を選んでやったのに、付ける前に逝っちまって。似合ってるかどうか、わからず仕舞いじゃないか」
エリーゼもまぶたの裏を潤ませながら、想いを口にする。
「キャン……ごめんね……」
一人で旅立たせることになってしまって、ごめんなさい……。
とめどなくあふれ出てくる後悔と懺悔の言葉を、胸の内で繰り返した。すると、『キャン!』と、応えるかのような声が聞こえた気がした。
『キャンキャン! キャン!』
幻聴は次第に大きく、はっきりとしてきた。……――あまりにも鮮明に感じられたので、思わず目を開けてしまった。
ふと隣を見ると、ネッサも同じように怪訝な面持ちで、口を半開きにしていた。
(……あれ……? わたくしの幻聴じゃ……ない……?)
呆けた顔を見合わせていると、脇の森の方からガサガサと音が聞こえてきた。
そちらへ目を向けると――……黒く汚れた綿玉を抱えたフレーゲルが、顔を出したのだった。
綿玉はグリンと首を回してこちらを見た。つぶらな黒い瞳と丸い鼻。ニコリと大きく上がった口角、牙の覗く口からはペロンと舌が垂れている。
ヘッヘッヘと上がった息の合間に、綿玉はまた、『キャン!』と高らかに鳴いた。
庭にいた一同は、皆、ポカンとした顔のまま固まってしまった。
フレーゲルは焦げ木の茂みから出てきて、苦笑まじりに説明する。
「いやぁ~、見てよこれ! よかったよかった! 瓦礫をどかしても遺骸がなかったから、もしかしてって思ってさ~。一応、森の奥とかも探してみたんだ。こいつ、結構すばしっこいし、ちゃっかり難を逃れて、川辺イチゴでも食ってるんじゃないか――って思ったら、本当に貪り食ってたよ!」
のん気な奴め~! と、彼は飛び切り陽気な声で笑ってみせた。
抱えられた綿玉は、間違いなくキャンだった。
体は煤まみれで汚れているし、熱にやられたのか、毛先が縮れているけれど――……まごうことなき、キャンであった。ボロの首輪だって、そのままだ。
「うそ……嘘……っ……キャン!」
力が抜けきった体を叱咤して、よろめくように歩み寄る。
綿玉の体に触れた瞬間に、堪える間もなく涙があふれ出てきて……縋りついて、思い切り泣いてしまった。
「……生きてた……! あぁ、キャン……っ! よかった……よかったぁ……っ」
「昨日、俺が両手を貸してあげた時より泣いてるじゃん……犬に負けた」
フレーゲルが何か呟いていたが、自分の泣き声にかき消されて、耳には届かなかった。
「なんて図太い犬っころなんだ……! さすがあたしの犬だよ! あぁ、よかった……! 墓じゃなくて犬小屋を作らないといかんね!」
ネッサも大泣きしながらキャンに縋りつき、フレーゲルに代わって抱き留めた。
胸が喜びに満ち満ちて、あふれ返った気持ちは涙となり、こぼれていく。これほどまでの僥倖に恵まれたことがあっただろうか。
抑えきれない想いに泣きじゃくっていると、フレーゲルが冗談めかして腕を広げてきた。
「今度こそ胸を貸してあげようか? な~んて――……」
「ありがとう! お借りします!」
「へぇっ!?」
裏返った悲鳴を無視して、エリーゼは胸の中に飛び込んだ。
どうやら人間というものは、極限まで気持ちが昂ると、普段しないことを簡単にやってのけてしまう勢いが出るらしい。
フレーゲルの背中にガバリと腕を回して、力一杯、抱き着いてしまった。
顔を寄せた彼の胸からは、熱い体温と騒がしい心臓の音を感じる。それがまた、なんとも可笑しくて、こそばゆくて、愛おしく感じられて――……今まで生きてきて、感じたこともないような、たまらなく、良い心地がした。
エリーゼの背中にも、恐る恐るといった様子で、腕がまわされていく。
悪ガキトリオはヒューヒューと口笛を吹いて囃し立て、他の子どもたちも黄色い声を上げていた。
今、この場に満ちる空気を、この気持ちを、どう例えたらよいだろう。すべてが心を高鳴らせ、踊らせる。
城の中で大仕事を成し遂げ、人々に礼賛された時にも、高揚と感慨深さを覚える事はあったけれど……そういう感覚とは違う。根底から異なる種類の、不思議な心地良さだ。これは――……。
(――そうか。きっとこれが、『幸せ』という心地なのだろう)
はたと理解して、感じ入ってしまった。
こんな、至高といってよいほどの、素敵な気持ちがあるなんて……知らなかった。少なくとも、自分とは縁遠いものだと思っていたのだけれど。こうして身をもって享受する日が来るとは。
(わたくしにも、こういう気持ちの享受が許されるのなら……城に戻ってからも、もっと、幸せだと思えることを探して、追い求めて、手にしてみてもいいかしら)
ふわふわとした心地の中で、ふと、そんなことを思ってしまった。
課せられた務め、義務――。ひたすらに、そればかりをこなしてきた人生だった。
それだけを見つめていなければいけないのだと、思ってきた。思い込んで、きたのだ。
けれど、今、視界が開けた気がした。
もっと、自分が幸せだと思える物事にも、目を向けてみてよいのかもしれない。心地良いこと、楽しいこと、好きなこと――。己を滅して、それらを拒む必要があるのだろうか。
義務を果たしながら、同時に、幸せを追うこともできるのでは――。
(そういうことが、可能ならば――……やりたいこと、やってみたいことがたくさんあるわ。まずは、民のための開かれた施設を作ってみたい。学校、図書館、相談所、他にも色々。身分を問わず利用できる、有益な場を作ろう。人々の幸福な暮らしを助ける場を、たくさん――)
そういう公共施設を、国中に作り上げたならば、きっとここにいる皆も、喜んでくれるに違いない。フレーゲルだって、笑ってくれるはず。
皆のために、彼のために、何かできるのならば、それは自分にとっての、この上ない幸せだ。
王の世継ぎを生む、という義務から、新王権の発足へと目標が変わり、そして今、新たな夢ができた。
この夢に向かって、邁進していきたいけれど――……一つだけ、胸にくすぶる想いがある。
(でも――……この抱擁から抜け出すのは、少し惜しい気もする。玉座よりもこの胸の方が、ずっと温かだわ)
城に戻り、冷たい玉座に寄り添うよりも……フレーゲルの胸元に身を寄せている方が、ずっと心地良い。
腕の中にいる、今この瞬間だけは、そんな甘えに浸ってもいいだろうか。
「フレーゲル真っ赤だ!」
「わははっ、トマトみたい!」
子供たちにからかわれるフレーゲルを見上げて、エリーゼも、今、この瞬間を思い切り楽しむように、弾んだ声を上げて笑った。




