2 賢妃の失態と罰
「この無礼者めが!! 国王たる私を侮辱するか!! 責任逃れの能無し悪妃めっ!!」
若き王、ソーベルビアは憤怒に顔を赤くして、これでもかと力を込めた拳をエリーゼの頬に叩き込んだ。
彼の金髪碧眼の煌びやかな容姿は、まるで絵本の中の王子様みたいで、うっとりするほど理想的だというのに。中身はと言うと、手を付けられない暴君でしかない。
エリーゼはなすすべもなく殴り飛ばされて、ソファー脇のサイドチェストに頭を打ち付けた。
世に稀な美しい銀の長髪は無残に乱されて、正妃の証であるティアラは床の上に放り出された。
打ち付けたこめかみから血しぶきが飛び、談話室の壁紙と絨毯に、赤色が添えられる。拳をくらった頬は、歯が食い込み、内側の肉が切れてしまった。口の端から血があふれ出し、ぽたぽたと垂れていく。
室内にいた人々は一斉に悲鳴を上げたようだったが、キーンという耳鳴りに襲われて、聴覚は断たれてしまった。
(……なんという暴虐の王だろう。言葉より先に手が出るとは……)
突然の凄まじい衝撃に、頭の中にはチカチカと星が散っていたが……そんな中でも、深い嘆きが脳裏をよぎった。
床に這いつくばったまま、どうにか顔を上げようと身じろぐ。
ぐらついた奥歯は、次の一撃でいよいよ抜け落ちてしまった。ソーベルビアはエリーゼの顔を蹴りつけて言う。
「今の侮辱甚だしい進言とやらを、即刻、撤回しろ! 床に頭をついて、もう一度、正しい見解を述べてみよ! 『世継ぎができないのは、わたくしエリーゼの腹が無能だからです』と!」
エリーゼの頭を踏みつけて、彼は魔王じみた形相で見下ろしてきた。
よろめきながら上体を起こし、眩暈をこらえて、もう一度、伝えるべきことを正しく口にする。
「……陛下……どうか、冷静にお聞きくださいませ。恐れながら、バルド王家の血は、わたくしたちの代で絶える可能性があります。今日まで子を授かれていないのですから……。今一度、陛下が選ぶべき道を、進言させていただきます」
医者も、大臣も、宰相も、王の母である王太后ですらも、暴君ソーベルビアのことを恐れている。もはや誰一人として、彼に対して滅多なことを言えないという状況だ。
そんな中で、エリーゼは進言役を買って出る覚悟を決めたのだ。王と並び立つ裏の女王として、義務を果たすべく。
「陛下、まずは王族の魔法をお捨てください。魔法の負荷によって、王族は皆、短命です。子ができないのも、きっとそのあたりに由来している……。魔法の力に頼らずとも、国を治めることはできます。わたくしが隣に立ち、力を尽くしますから、どうか――……」
言い終える前に、ソーベルビアの革靴が、脇腹にめり込んだ。冷静に聞いてほしい、という前置きは、まったく役に立たなかったみたいだ。
彼は怒りに我を忘れて、蹲るエリーゼをガツガツと蹴りながら喚き散らす。
「貴様ぁ!! まだ戯言を口にするか! 魔法のせいで私が不能だと!? 黙れ! 子ができないのは貴様の腹が劣化しているからだろうが! このババアが!!」
聞くに堪えない罵詈雑言だ。確かにエリーゼは彼よりも歳が高いし、一般的な初産年齢をずいぶんと過ぎているけれど……。
烈火のごとく怒り散らす王を前にして、室内に控えている侍女たちは怯えて固まり、王の側近も怯みきって立ち尽くしている。
そんな中、エリーゼに覆いかぶさるようにして、側妃リュミエラが庇ってくれた。
「おやめください陛下……! 死んでしまいます……!!」
リュミエラは大きな垂れ目からポロポロと涙をこぼして、ソーベルビアを見上げた。
リュミエラの瞳は温かみのあるオレンジ色をしている。氷のような碧眼、と評されているエリーゼとは正反対だ。優し気なミルクティー色の、ふわふわとした髪を持ち、肉付きの良い女性的な体型をしている。
エリーゼとは何もかも対照的な、この側妃のことを、ソーベルビアは寵愛しているのだった。
彼女のおかげで、彼の沸騰していた感情は、いくらか落ち着いたようだ。嵐のような暴力が止んだ。
が、言葉と権力による暴力は続くようだった。
フンと鼻を鳴らした後、エリーゼの前に仁王立ちして吐き捨てる。
「エリーゼ、貴様は側妃に格下げだ。私を侮辱したお前には、もう二度と子種などくれてやらん。抱きはしないが、毎夜、閨で折檻をしてやろう。お前の胎に熱湯を注いでやろうか。その不出来な腹に罰を与えてやろうじゃないか」
「……っ」
ソーベルビアは最後の一撃とばかりに、エリーゼの下腹に蹴りを入れた。
「お前には拷問の罰を下す。さらに、不敬の罪の償いとして、ベルホルト宰相と秘書、それから母親を処刑する。明日を楽しみに待て」
宰相である父、秘書の兄、そして母までもを処刑する、と、彼は言い放った。
「そんな……! 陛下、お待ちくださ――」
「黙れ、エリーゼ」
彼はこちらに右手を掲げてきた。
中指には王族に伝わる指輪がはめられている。大粒の深紅の魔石が、ギラギラとした光を放った。
真っ赤な光を浴びると、途端に体の自由が効かなくなる。蛇に睨まれた蛙のように、エリーゼは体をこわばらせた。
「身の程をわきまえよ。お前の主は誰だ?」
「……ソーベルビア陛下でございます……」
「今、私が伝えた処遇について、不満があると?」
「……いいえ、何もありません。すべては、あなた様の思うがままに。お慕いしております、陛下……」
「いいだろう。忠誠の口づけを」
差し出された右手に輝く指輪に、エリーゼは口づけを落とした。
これがバルド王族が操る魔法だ。この魔法によって成り上がり、王国を築き上げるまでに至ったという歴史がある。
歴史、といっても、伝説という曖昧な形で伝わっているだけだが。真実は焚書によってうやむやにされ、『王族の祖先は尊い竜人だったのだ!』とかいう話まで、まかり通っている。
尊大な作り話のようではあるが……人々を納得させるだけの力を、王家は引き継いでいる。
指輪に輝く深紅の魔石には、人を支配する魔力が込められているそう。王族の血を引く人間のみが、自在に操ることができる。
一度指にはめたら、もうどれだけ力を込めようと、二度と外すことができない呪物のような指輪――……。
こんなものがあるから、愚行がまかり通っているのだ。人々は強大な魔法を持つ王に逆らえず、恐れている。
歴代の王族たちも、傍若無人に振る舞う者が多かったと聞く。前王も、ソーベルビアも、残念なことに例にもれなかった。すっかり力に取り付かれている。
隷属の口づけを終えると、ソーベルビアは歪んだ笑みを浮かべ、踵を返した。部屋を出て行こうとする彼に、リュミエラが恐る恐る声をかける。
「陛下……? どちらへ……?」
「血で汚れた部屋になどいられるか。気分が悪い。気晴らしに庭を歩いてくる。リュミエラ、お前も来い」
「え……ええと……はい」
リュミエラは、ソーベルビアとエリーゼに何度も視線を往復させた後、迷いながらも立ち上がった。
近くに転がっていたティアラを拾い上げ、エリーゼにそっと手渡し、王の側へと歩いていく。
王と側妃が部屋を後にすると、部屋の端で固まっていた侍女たちが、震えながら寄ってきた。
「エリーゼ様……! も……申し訳ございません……。わたくし共が、身を挺してお守りするべきでした……」
「気にせずとも良い。使用人が手を出したら、殺されていただろう。わたくしだからこの程度で済んだのです。これでも一応、加減されている」
「で、でも……」
血の気の引いた顔の侍女に支えられながら立ち上がる。
(わたくしはいいとして……お父様とお兄様、お母様にまで処刑の命が下ってしまう)
ふらつく体を叱咤しながら、考えを回した。
「実家に……ベルホルト家に向かいます。お父様と話をしなければ。――そこの者、人を集めて談話室の掃除を。陛下は汚れを嫌うから、綺麗に血を落としてちょうだい。汚してしまってごめんなさいね」
使用人たちに命を出しつつ、部屋を後にして廊下を歩き出した。
すれ違った人々は皆、ギョッとした面持ちで声を掛けてきたが、転んだだけだと茶を濁しておく。哀れみの目を向けてきた何人かは、事態を正しく悟っているようで、苦笑を返すしかなかった。
侍女から差し出されたハンカチで、顔の血を拭いながら城を出る。
王城から馬車ですぐの実家――ベルホルト家に向かう道中で、改めて状況を振り返り、ため息をこぼした。
(進言は失策だった、か……。お爺様の轍を踏んでしまったわね……)
口の中に残っていた、抜けた奥歯を吐き出すと、馬車に同席している侍女が、さらに顔を青くしていた。
(でも、誰かが言わなければいけなかった。このままでは陛下も短命の運命により没し、空になった玉座を奪い合って戦が起きる。今まで抑圧されていた反動もあって、国が割れる大戦が起きかねない。そこに、漁夫の利を狙った他国も加わるだろう)
国の母として、自分には民の暮らしを守る義務がある。
荒れることがないよう、国を守る義務。不用意に玉座を空けず、王権を存続させる義務があり、そのためには正妃として跡取りをもうける義務がある。
すべてが繋がっていて、すべてを遵守したかった。けれど、進言の策は敗北という形で終わった。
無念とは、こういう心地のことを言うのだろう。
進言によってソーベルビアが怒ることは、ある程度、想定していたが……ここまで猛然と、瞬間沸騰してしまうとは。予想を上回る激しさだった。
口の悪さや横暴な態度はいつものこと。でも、正妃である自分に対して一線を越えたことはなかったのに。直接的な暴力をくらったのは初めてだ……。
機嫌を損ねて側妃に降格するだろうとは読んでいたが、苛烈な暴力と、狂気じみた拷問の宣告と、見せしめの一族処刑まで加わるなんて。
妃は毎月の月経の程度まで、記録を取られているというのに、王は『子作りに障りがあるから、魔法を控えて養生しろ』と忠言をくらっただけで、取り乱すというのか。
(王族男のプライドというものを過小に見ていた。わたくしの過ちだ)
もう一度ため息をついた時、馬車がベルホルト家の門を潜り抜けた。
屋敷に入ると、すぐさま使用人たちの叫び声に包まれた。妃が顔を腫らして、血みどろになって帰ってきたのだ。慌てるのも無理はない。
騒ぎを聞きつけて母が顔を出し、同じように悲鳴を上げて駆け寄ってきた。騒ぐ皆を制して、母に声を掛ける。
「驚かせてしまってごめんなさい。どうかお静かに。急ぎ、父と兄に話があるのです。お母様も同席してください。お願いします」
「……わかったわ。二人は執務室にいます。向かいましょう、エリーゼ」
母はすぐに何かを察したのか、表情を切り替えて、背中に手を添えてくれた。こういうささやかな気遣い、頼もしさが、ありがたい。
執務室へ向かうと、仕事をしていた父と兄、そして老齢の執事がギョッとした顔をした。が、彼らも、何か良からぬ事が起きたのだ、と即座に察した様子で、冷静に次の行動へと移る。
執事は気を利かせて廊下に出て、外から扉を守り、父と兄は仕事の手を止めて歩み寄ってきた。
「エリーゼ……何という怪我だろう。あの愚王にやられたのだな?」
「はい。無様な失態を演じてしまい、申し訳ございません。世継ぎの件に関して進言をいたしましたが、聞き入れてもらえず……罰を頂戴することになりました。……とても、大きな罰です」
「良くてお家取り潰しの追放刑、悪くて一族処刑、といったところか」
「……後者でございます。わたくしは降格と拷問、ベルホルト家は……お詫びの言葉もありません」
苦渋に顔を歪ませ、両膝を床について頭を垂れた。
重苦しい空気ではあるが、皆、落ち着いて報告に耳を傾けている。進言について、家族には事前に相談していたため、ある程度の想定や覚悟があったのだろう。
項垂れたエリーゼの肩に手を置き、父は静かに告げた。
「お前が悪いのではない。王の器が小さすぎただけだ。遅かれ早かれ、あの王は何か大きな過ちを犯すだろうと思っていたよ。本当ならば、私たち宰相陣が、皆で諫めなくてはならないところを……妃に貧乏くじを引かせてしまって、本当に申し訳ない」
兄も肩を支えながら、空気を和らげるように笑いかけてくれた。
「まずは治療を。怪我を悪化させてはいけない。どうすべきかは、私と父上で考えるから、エリーゼは休みなさい」
兄はそう言いながら、未だ膝をついているエリーゼを立ち上がらせてくれた。が、休めと言われても、頭は勝手に高速で回ってしまっている。
(どうすべきか。どうすれば家族の処刑を撤回できるか……)
何か、現状を打開する妙案を、ひねり出さなければ――。
全力で回る脳は、直前にもたらされた兄の言葉を引っ張ってきた。
『怪我を悪化させてはいけない――』
瞬間的に、エリーゼの脳内に光がはじけた。
「――そうだわ。わたくし、いっそのこと、怪我をこじらせて死んでしまったらいいのかも」
そう言い放つと、一瞬、室内に無音の間が流れた。父母兄が、それぞれ目をぱちくりさせて、エリーゼの次の言葉を待っている。
素早く考えをまとめて、思い浮かんだ案を語った。
「陛下は一族処刑を口にしたものの、わたくし当人の処刑は考えておられないご様子。それはなぜか。陛下はわたくしに甘えておられるからです。自身が王として君臨するには、裏で支えるわたくしの力が不可欠だから。あのお方は、膨大かつ重大な王の務めの多くを、わたくしに託しておられる。――そんなわたくしが死んでしまったら、どうなるでしょう?」
不敵な笑みを浮かべると、父が涼し気な顔で応えた。
「頼りにしていた支えを失って、大いに焦ることだろうな。それも、自分自身で殺してしまったとあれば、その動揺は計り知れない」
「『交渉を優位に進めたくば、まず相手を揺さぶれ』とは、よく言ったものです。死んだふりをして陛下を揺さぶり、付け入る隙を作ります。わたくしの死を、処刑撤回の交渉材料に使ってくださいませ」
エリーゼの死で王に揺さぶりをかけ、交渉する隙を作る――。これが、ひねり出した妙案だ。
「しかし、お前はその後どうするのだ?」
「おおよその筋書きは考えております。詳しくお話ししますが――……その前に、少し、休みます……」
「エリーゼ!?」
良い案を閃いて、頭の中で一気に道筋ができた。が、頭の血流が増したせいか、怪我の痛みが増してきて、眩暈に襲われてしまった。
ふらついて倒れかけたエリーゼは、兄に抱き留められて部屋へと運ばれた。