17 それぞれの生きる世界
「改めまして、フィデリオ・ハイコと申します。ご挨拶が遅くなり、申し訳ございません、エリーゼ妃殿下」
案内された応接間で、領主フィデリオはうやうやしく敬礼をした。
勧められたソファーに腰を下ろし、彼の着席も許す。向かいに座って、フィデリオはちょび髭をもごもごと動かした。
「ご療養に入られたと、お噂を耳にしておりましたが……まさか我が街にいらしていたとは。お忍びですか? なにゆえ……?」
「王城の情報に通じているとは。あなたを、地方の開拓途上地の一領主と、侮ってはいけないようだ。事情をお話しします。他言無用にて」
「ははぁ」
フィデリオが人払いをして、応接間には二人だけになった。
「――では、話そうか。実はわたくしは、陛下に殺されたことになっているのです」
「は、はぁ!?」
「死んだふりをして陛下を騙し、城を脱しました。色々と事情はあるのだが……大雑把に言うと、王権を覆すために、今は忍んでいる」
「な、なんと……!」
目と口をポカンと大きく開けて面食らっているフィデリオに、エリーゼは鋭い眼差しを向けて言う。
「これを聞いて、あなたはどうする? わたくしを捕らえて、ソーベルビア王に突き出すか? そうすれば、陛下の賞賜にあずかれるだろう」
「いいえ、そのようなことはいたしません。神に誓って!」
フィデリオは表情と背筋を正し、きっぱりと口にした。
「不敬を承知で申し上げますが、私の主は国王ソーベルビア様ではなく、いつだってエリーゼ妃殿下でありましたから」
「なんと。光栄だが、なぜでしょう? 城で関わりがあった訳でもないのに」
「実は一度だけ、幼き頃にお目見えしたことがあったのですよ。些細な事でしたから、覚えていらっしゃらないでしょうけれど――……」
彼は遠くを見るような目をして、思い出を語り始めた。
それはエリーゼが四歳、フィデリオが六歳の頃のこと――。
ソーベルビアの誕生を祝って、王城では大きな祝宴が開かれたのだった。諸侯を招いた大規模なパーティーで、地方貴族のハイコ家も招かれたのだそう。
そんな祝宴の最中、幼い子供たちも参加する、昼のガーデンパーティーにて。フィデリオとエリーゼは出逢っていたらしい。
「恥ずかしながら、私は庭の端のぬかるみで転び、泥まみれになってしまいまして……。当時はまだ、ハイコ家は新興貴族の端くれ。ただでさえ、皆に侮られているというのに、こんな見苦しい姿を晒したら……父の激怒を買うだろうと、私は隠れて泣いていたのです。そこに、あなた様が来てくださった」
茂みに隠れて泣いていたら、幼い少女が顔を出した。転んでしまって父に怒られる……としゃくりあげながら事情を話すと、彼女は『大丈夫』と言って、手を引いたのだった。
そうして父の前に出て、こう言ってのけたのだ。
『この子、わたくしが転びそうになったところを、支えてくださいました。逆に転ばせてしまって……申し訳ございません』
「当時のあなた様は、未来の王の妃として内定した直後――。そんな尊き身分のお方を助けたとあって、私は逆に、父に褒められてしまいました。さらには、この件がきっかけで、我が家の足を引っ張っていた貴族たちの嫌がらせも止み、ハイコ家とこの街の発展にまで、益を繋げていただくことになりました」
「……なるほど。それで、わたくしを慕ってくださっていると」
言われてみれば、幼い頃にそういうことがあったような気がする。記憶が遠くて申し訳ないが、フィデリオは気にするでもなく、大らかに笑った。
「何を隠そう、私の初恋の思い出でございます」
「まぁ」
「不敬をお許しください。そういうわけで、私は公私ともに、あなた様を主とお慕いしております。なので、この先も、王ではなく妃殿下に従いたく存じます」
フィデリオはソファーから腰を浮かせて、エリーゼに歩み寄る。片膝をついて、手を差し出した。
彼の肉付きの良い丸っこい手を取って、エリーゼは忠誠の誓いを許した。
「そなたの忠心を信じよう」
「ありがたき幸せ。ご用命がありましたら、なんなりと」
滑らかな白い手の甲に、フィデリオの口づけが落とされた。
(思わぬ忠臣を得ることになった。とはいえ、心を許し切ることはないけれど……。この先も、一応、用心はしておきましょう)
フィデリオは、そんなエリーゼの胸中をも、理解しているようだった。あれこれ問い詰めて首を突っ込むこともせず、かといって蔑ろにする様子もなく、エリーゼの街への潜伏を許してくれた。
そうして忠誠を誓うキスを終え、彼が立ち上がったところで、ふと、外が騒がしいことに気が付いた。
何の気なしに、窓へと目を向けたのだが――……とんでもないものを見てしまって、エリーゼはギョッと目をむいた。
外の庭木に巨大な虫……いや、大柄の男がへばりついて、じとりとした目でこちらを見ているではないか。
すっかり見慣れてしまった眼帯の容貌。言わずもがな、フレーゲルだ。
ここは三階だ。どういう運動神経をしているのか。それとも、平民男にとっては木登りなど造作もないことなのか……?
虫を見た時と同じくらい、のけぞってしまった。
フィデリオも驚きに目を見開いて、大慌てで窓を開け放った。
「なっ……!? こ、こらー! 貴様! 何をしている! ええい、皆の者、ひっ捕らえよ! 引きずり落とせー!!」
外の騒がしさの正体は、侵入者を捕らえようと四苦八苦している、衛兵たちのざわめきだったらしい。
『知人なので、どうかお手柔らかに』とだけ伝えて、エリーゼは出されていた紅茶をすすった。素晴らしく良い香り。現実逃避が捗る――……。
■
捕まって、フィデリオから延々と説教を受けた後、フレーゲルの身柄はエリーゼに引き渡された。
引き続き、説教をしながらの帰り道となったが、彼はずっと不貞腐れた顔をしていた。
「こら、聞いていますか、フレーゲル。まったく、覗き見など……品のないことはおやめなさい」
「……領主様と何の話をしてたの」
「あなたには関係のないことです」
会話の内容までは聞かれていなかったことに、胸をなでおろす。が、そんなエリーゼの様子を見て、彼はさらに機嫌を悪くした。
「俺の手は振り払ったのに……領主のキスはいいんだ。なんだよ、あんなちんちくりんな男……。……なんで、俺じゃ駄目なの? 身分がないから? 釣り合わないから?」
「釣り合う、釣り合わない、という話ではないのです」
通りの端で足を止めて、エリーゼは諭すように言う。
「そもそも、住む世界が違うのです。あなたと、わたくしは。――地位高き者は己を滅し、義務に生きよ。最初に会った時に教えましたね。わたくしは義務の世界に生きる身なのです。だから、私情であなたの手を取ることはない。決して」
フレーゲルも立ち止まった。険しい面持ちを深めて、沈んだ声音で問い返す。
「何だよそれ……。同じ地面に立って、同じ空気吸ってるのに……手だって繋げるのに、世界が違うって言うのか」
「えぇ、そうです」
「……俺はリセ先生と同じところにはいけないの? どう頑張っても、騎士にはなれない……?」
「そうですね。残念ながら」
「……絶対に……?」
「絶対に」
迷わずに返すと、フレーゲルは『そう……』と、一言、呟きをこぼした。
そうして目を合わせず、地面を睨んだまま、震えを抑えたような声で吐き捨てた。
「……あなたは、思っていたより心無い身分主義者なんだな。馬飼いなんぞが付きまとって、さぞ迷惑だったことだろうよ……。……もう先生と仰ぐのはやめるよ。今までありがとう。……どこぞのお貴族家の、お偉いリセ様、さようなら」
お貴族家の、お偉いリセ様――。
精一杯、捻り出した皮肉なのだろう。けれど、惜しい。皮肉になっていない。まぎれもない事実なのだから。
どこぞの貴族家どころか、妃として王家に属するエリーゼは、本来ならば、馬飼いなんぞと言葉を交わすことすらも、考えられない身分なのだ。
だというのに、今、こうして無遠慮な言葉をぶつけあっている。
あまりに近い距離。近くなりすぎてしまった距離。絆されるうちに、見誤ってしまった距離――……。
(あなたばかりに、けじめを押し付けてはいけないわね。わたくしも、乱れた襟を正さないと……)
なんだかんだ、自分はフレーゲルとの交流に楽しさを感じていた。距離を詰めてくる彼を厳しく制することもなく、娯楽じみた気持ちに甘んじてしまっていた。そうして、その結果、彼に気持ちの一線を越えさせてしまったのだ。
もう、ここが区切りだ。近づきすぎてしまった縁の糸を、断ち切るべきだろう。
冷たい声で、冷たい顔をして。思い切り突き放してやろう。それが互いのためだ。
「えぇ、さようなら。どこぞの馬飼いさん」
短い言葉で、さらりと返事をしてやった。
別れを告げると、フレーゲルは数歩、後退った後、背を向けて大股で歩き去った。
冷たい声音は上手く演じられたけれど……表情は、少し崩してしまった。冷たい顔を作れずに、苦い笑みを浮かべてしまっていたと思う。彼が見ていたかは、わからないけれど――。
フレーゲルの足は、大股の歩みから駆け足に変わり、いつしか街中を全力で疾走していた。
(クソッ……なんだよ……! 何が、さようなら、だよ……! 俺も……リセ先生も……! 余計なこと言ってんなよ……馬鹿……っ!!)
自分から別れを口にしたくせに……返事をされると、もう、たまらない気持ちになってしまった。胸の中で激情が渦巻いて、暴れて、張り裂けてしまいそうだ。
悲しくて、辛くて、悔しくて、嫌で嫌で、苦しくて……別れを告げてなお、大好きで仕方なくて、到底諦められなくて――。言葉にできない気持ちがあふれて、溺れてしまいそうだ。
ずっと、リセとの間には、見えない壁のようなものを感じてはいた。別の世界に生きているような気はしていた。だって彼女はそこらの人々とは、あまりにも、まとっている空気が違っていたから。
でも、越えられる気がしていたのだ。気合いで何とかなるような気がしていた。――そう、あの時のように。昔、死に物狂いで壁を越えて、外の世界へ飛び出した時のように――……。
壁なんて越えて、きっとリセの手を取ってやる。そんな根拠のない自信があったのに。……自分は、盲目になっていただけみたいだ。壁は越えられないし、越えさせないと、彼女自身から突きつけられた。
走って、走って、人気のない街はずれの川べりまで走って、体が悲鳴を上げて動かなくなったところで足を止めた。
岩の護岸でへたり込むと、力を抜いてしまったせいか、途端に、堪えていた涙が滲んできた。
歪む視界の中に、先ほど見た光景が蘇ってくる。リセの手に忠誠のキスを落とす、領主の姿が――。
(……あの領主の方が、よっぽど様になってた。本当に騎士みたいだった。それに比べて俺は……虫をはらってやったくらいで騎士を語るなんて……。本当に馬鹿だな……)
リセが義務の世界に生きる身だというのなら、自分はかつて、誇りの世界に生きる身だった。その誇りを投げ出して、逃げ出して、馬飼いに成り果てたのだから、手を振りほどかれるのも仕方ない……。
『ガキの本も読めない、馬鹿なフレーゲル』――とは、今まで何度も耳にしてきた、からかい言葉だが……最近はちょっと、頭が良くなった気がしていたのに。勘違いだったみたいだ。
自分は思い上がりも甚だしい、愚かな人間のままだった。
鞄から本を取り出して、恋人にキスを贈っている騎士のページを開いた。挿絵のページを破り取り、くしゃくしゃに丸めて川に投げ捨て――……ようとしたが、できなかった。
どうしても、思い切りが付かなかった。
「……どこまで意気地なしなんだ……俺は……」
振りかぶった腕を下ろして、皺だらけになったページを丁寧に伸ばしていく。何をやっているのだか……。自分のしょうもなさに、自嘲の涙がこぼれた。
ページを本に戻して、ついでに眼帯を外した。川の水を両手ですくって、涙に濡れた顔を洗う。
水面に映った素顔……右目は、異形そのものだ。黒目と白目の境もなく、深紅に染まり、もう石のように硬く変容している。
心に渦巻く負の感情に呼応して、チリチリとうずく。眼窩が浸食されていくのを感じる――。
もはや人の目とは言えない有様なのに、それでも涙は出てくるらしい。雫はとめどなくこぼれて、水面に落ちていった。
■
この日を境に、フレーゲルは学校に顔を出さなくなった。
火の曜日も、金の曜日も。テーブルの端を陣取って辞書と睨めっこしていた、あの姿はもうない。
これでいいのだ。と、言い聞かせ、エリーゼは面影を追いそうになった目を閉じた。
(上手く縁を切れた。良かったわ)
彼はもう、学校に足を運ばずとも、先生に頼らずとも、あの本を自力で読み解けるだろう。だから何も、問題ない。
胸に湧いた寂しさには、見ないふりをした。




