16 騎士になれない半端者
朝食を終えたら庭に出て掃除をする。テーブルと椅子を拭き、落ち葉を掃いて授業に備える。
今日は午前中に用事があるので、エリーゼが教鞭をとるのは昼過ぎからだ。それまではネッサが生徒たちを見てくれる。
という予定なのだけれど。箒を手にしたエリーゼの肩を、いつもの男がポンと陽気に叩いてきた。
「おはよう、リセ先生! 今日も良い天気だね! 学校日和だ!」
「おはようございます。朝からご機嫌ですこと」
「最近、夢見がいいんだ。すごく!」
「それは結構なことで。というか、今日の授業は午後からですよ。表に張り紙をしておいたでしょう」
「そう言わず。熱く甘やかな、二人きりの特別授業を――」
「いかがわしい学びは自習でどうぞ」
落ち葉と一緒にフレーゲルを掃き出そうとしたが、彼はヒョイと避けてエリーゼの側に居座っていた。
掃除道具を戻し、代わりに買い物鞄を手にして、ネッサに声を掛ける。
「博士、出掛けてきます。買い出しはメモの通りで大丈夫ですか?」
「あぁ、頼んだよ」
「買い物? 俺も行く! 荷物持つよ!」
返事をする前に買い物鞄をひったくられてしまった。最近いつもこんな感じなので、もはや慣れを感じてきている自分がいて、複雑だ。
渋い面持ちで歩き出すエリーゼと、ウキウキとついていくフレーゲルを見送りながら、ネッサはキャンを抱き上げた。
「やれやれ。犬っころが二匹に増えちまったね」
老婆の苦笑を背にして、二人は庭を後にした。
この街の朝の空気はとても澄んでいて、心地が良い。周囲の森から鳥たちが遊びにきていて、高らかな歌声が楽しめるのも素敵だ。
最近は鳥の歌よりも、隣から聞こえてくる、でたらめな鼻歌の方が耳につくようになってしまったけれど。
フレーゲルはぶんぶんと尻尾を振り回しながら――いや、現実には尻尾など生えていないのだが――ペラペラと口をまわす。
「空の色が綺麗だね。キラキラした青色。リセ先生の目みたいだ」
「それは光栄です」
「日差しも銀色に輝いていて素晴らしい。先生の髪の方が素敵だけど」
「光栄です」
こうして二人で街を歩くのは、もう何度目か、と、カウントすらもしなくなってしまったけれど……彼は毎度、飽きることなく口説き文句を寄越す。
初めのうちは、あまりにも語彙力が乏しいものだから、都度、言い回しを指導してやっていた。が、最近はそれなりに、詩的な言葉を紡げるようになってきた、と思う。成長が見られる。
「口説きが板についてきましたね。その練習成果を、恋人探しのナンパで披露したらよいものを」
「もうナンパはやめたんだ。実は好きな人ができまして」
「一応聞いておきますが……それはもしかして、銀髪の人妻ですか?」
「おっと、いけない。バレてしまったか! でも残念なことに、まだ片想いなんだよね。お相手に好きになってもらうために、もっと頑張らないと」
「……その頑張りを、もっとこう、別の方向へ持っていく気は?」
「ない。俺はこの恋にすべてを懸けると決めたんだ。命を懸けたっていい」
「そういうのを、若気の至りと言うのですよ」
何それ、どういうこと? と、彼は笑顔のままポカンとしていた。後で辞書を引かせよう。
(口説きの練習相手になってあげましょう……なんて、軽いことを言わない方が良かったかしら)
良縁を掴むためには、雑なナンパを改善するべきだ――との、お節介心で、冗談を口にしてしまったのが、この前のこと。
それからというもの、徐々に、彼の目の奥に熱が見て取れるようになってしまったのだが……さて、どうしたものか。
考え事をしつつ、他愛もない話をしながら市場通りに出ると、途端に人の数が増す。人混みに流される前に、フレーゲルが手を握ってきた。
「どこの店からまわる?」
「じゃあ、近くの野菜店から」
「わかった。行こう」
彼は手を引いたまま歩き出す。エリーゼを庇うように、前を歩いて人波を割っていく。たぶん、本人としては無意識の行いなのだろうけれど、その心配りに頬をゆるめてしまった。
(指導しておいて、アレだけれど……飾った口説き文句を練習するより、あなたは素でいる方が、ずっと格好良いわね)
頼もしい背中を見て、つい、そんなことを思ってしまった。
(……――いや、格好良いって……。わたくし、何を思っているのだか)
苦笑して首を振った。
きっと街暮らしの民たちは、こういう交流の中で想いを深めて、そのうちに恋をして、身を結ぶのだろう。
物心ついた時にはもう、添う相手が設定されていた自分とは、まるで別世界の話。
ときめく心の変遷など、想像もしたことがなかったけれど……彼と過ごす日々の中で、何となく、恋愛の過程を理解した気がする。
湧き上がりかけた想いは、ぐっと呑み込んで、胸の深くに沈めておいた。
今日はこの後、領主の屋敷を訪ねる予定である。早めに買い物を済ませて、フレーゲルとはそこで別れよう。
彼のポカポカとした手の温もりが、自分の手に移ってしまう前に、さっさと買い物を終わらせてしまわないと――。
市場をまわり終えて、一旦、広場の街路樹の下で休憩を取る。
目の前には領主フィデリオ・ハイコの屋敷。ここで迎えが来るのを待つ。
本日、午前中のメインの予定は、買い出しではなく、領主との面会である。
フレーゲルは市場通りで、まくつもりだったが、結局、今も隣にいる。人と会う約束がある、と用事をぼかして伝えたら、『誰と会うの?』と、ムッとした面持ちでまとわりつかれ、ここまでついてきてしまったのだ。
そういうわけで、二人でベンチに座って休憩に甘んじているのだが……傍から見たら、休日の、のん気なカップルに見えることだろう。
彼もそう感じたのか、機嫌はいくらか直っていた。先ほどから、緩んだ笑顔でこちらを見ている。
「何をそんなにニコニコと……」
「リセ先生、どの角度から見ても可愛いなぁ、と思って。あと、頭に蝶が留まってて綺麗だ」
「見てないで早く教えなさい! はらって!」
「蝶も嫌いなの? 綺麗なのに。あ、いや、待って。よく見たら蛾かも」
「はらいなさい! 早く! 命令!」
フレーゲルが頭の上で手をひらひらさせると、花びらみたいなハネを持った蛾が飛んでいった。蛾の粉が落ちたのでは……と、恐々としてしまったが、彼がハンカチで髪をはらってくれた。
「……どうも、ありがとうございます」
「礼には及ばない。これも騎士の仕事だ」
『騎士』というのは、世間一般において、大きく二つの意味に分類される。一つは、そのままの意味で、馬を操って剣を振るう戦士のこと指した語。大領主が抱えている兵隊たちのことだ。
もう一つは、『誰かを守る立場にある者』を指して、そう言う。護衛などが最たる例である。さらには、恋人関係や夫婦関係においては、男性側を『騎士』と呼ぶ。彼が意図しているのは、この意味だろう。
「騎士って……また冗談を。本の引用ですか?」
「冗談ではないし、引用でもないよ。俺は本気で、あなたの騎士になりたいと思ってる」
そう言うと、フレーゲルは表情を改めた。おもむろにベンチから腰を浮かせて、エリーゼの正面で片膝をついてみせた。
「リセ先生、俺はあなたのことが好きなんだ。心から愛してる」
「出逢って半年そこらの相手でしょうに」
「時間なんて関係ないよ。俺は先生に色んな物をもらったと思ってる。大切な物をたくさん。優しい言葉だったり、励ましだったり、慰めだったり。あとは冗談を交わすのも楽しいし……厳しい言葉だって、胸にしみたよ。今後の人生で、きっと俺は何一つ忘れないと思う」
手を差し出して、真っ直ぐに目を見つめながら、彼は言う。
「こんなに心魅かれた人は、初めてなんだ。あなたのことを考えない時はないし、寝ている時でさえ、夢の中であなたを想っている」
「それはそれは。勝手に夢にお邪魔してごめんなさいね」
「茶化すなよ」
左側の、綺麗な緑の目を細めて、低い声を寄越した。
普段の陽気な姿も、好青年といった雰囲気で、密かに好ましく感じていたのだけれど……こういう真剣な面持ちも、精悍で、なかなか様になっているじゃないか。
つい苦笑をこぼしてしまうと、フレーゲルは意地になったのか、エリーゼの手を自ら取って、握りしめてきた。
「俺はあなたの騎士になりたい。どうか、縁を繋いでほしい」
「……あなたの気持ちは受け取ったわ。ありがとうね」
返事をすると、彼はパァッと顔をほころばせた。――いや、ほころばせようとした。けれど、その前に、エリーゼは握られた手を振りほどいたのだった。
「でも、ごめんなさい。わたくしの側に、あなたは置けない。他の誰かの騎士になって」
そう告げると、フレーゲルは捨てられた仔犬のような顔をした。
可哀想ではあるが……こればかりは仕方がない。エリーゼはいずれ城に帰る身なのだ。もしくは、あまり考えたくはないけれど、帰れずに世を去る可能性すらある。
いくつか想定している未来のルートの、どこに乗ることになるのかは、まだ定まっていないけれど……。でも、一つ断言できるのは、エリーゼの未来計画において、『フレーゲルと縁を繋ぐルートはない』、ということだ。
手を宙に浮かせたまま、呆然としている彼の肩を、そっと押した。
「あなたは素敵な人よ。だからきっと同じように、素敵な真実の愛のお相手が見つかるはず。――さぁ、こんなに良い天気なのだから、街を歩いていらっしゃい。いつものように笑って、可愛い娘に声をかけておいで」
エリーゼは立ち上がり、フレーゲルの横を通り抜けた。領主の屋敷の方から、迎えと思しき男たちが歩いて来たのだ。
振り向くことなく彼らと合流して、屋敷へと歩を向けた。




