15 魔物の谷
街はずれにある屋敷を出て、延々と馬車に揺られる。次第に民家はなくなり、景色は荒野へと変わっていった。
そうして半日かけて、夜の帳が下りた頃、戦地とやらに到着した。
砂と岩と草だけがある、荒れた土地。そこに、視界の端から端まで続く、長い壁が設けられている。高く、分厚い石の壁は、戦地を隔絶するためのものだそう。
リュミエラはウルリヒと共に石階段を登って、壁の上の通路へと案内された。
「向こう側が戦地です。ご覧ください、今宵も祓魔の騎士たちが戦っている。日が暮れると谷から魔物が湧いてくるんです」
「祓魔……」
通路の端に立ち、壁の向こう側を見渡す。暗くてよく見えないが、この先はゴツゴツとした岩場が続いているみたいだ。さらにその先は落ちくぼんでいて、谷になっている。
『魔物の谷』と呼ばれるこの谷からは、その名の通り、魔物が湧いてくる。
オトフリート家は古の時代から魔物を祓い、抑える役目を負っている家だ。自国はもちろんのこと、近隣の国々からも膨大な援助を受けているため、財の豊かさを保っている。
ウルリヒが遠眼鏡を持ってきて、有無を言わさずリュミエラに覗かせた。
「これをどうぞ。あそこの大きな、かがり火の近くにいるのが兄、アルノーです。騎士たちの勇姿も、ご高覧ください」
「では……お借りします」
「魔物の目は、あまり見つめ過ぎないように。魔力にあてられてしまいますので」
半ば押し付けられた遠眼鏡を両手に構えて、戦地を見下ろす。高い位置から騎士隊の指揮を執っているのが、次男のアルノーだそう。
その先の方、前線では騎士たちが馬を駆って、魔物と戦っている。遠眼鏡越しに目を凝らして、思わず顔をしかめてしまった。
闇に紛れて、谷から巨大な蛇のような魔物が這い上がってきている。真っ黒で、人の胴体と同じくらいの太さ。長さは建物の三階に届きそうなほど。頭には二本の鋭い角があり、伝承にある、竜のようにも見える。
両目はギラギラとした深紅の光を放ち、点々と、数えきれないほど、闇の中に浮かび上がっていた。
襲い来る魔物の群れを相手に、騎士たちは怯みもせずに立ち向かう。人馬一体となって飛び掛かり、大剣を振るって頭を落とし、ぎらつく両目を刺しえぐる。黒い体液が吹き出し、騎士たちを闇色に染めていた。
うごめく黒い巨体の群れと、ギラギラとした赤光。気持ちの悪い魔物と、騎士たちの容赦のない殺しがおぞましくて、遠眼鏡を下ろそうとしてしまったが――……ウルリヒの手に支えられてしまった。言外に『目を背けるな』とでも言うように、彼はリュミエラに見物を勧める。
静かに、穏やかに、それでいて底知れぬ重さを含んだ声で、彼は言う。
「どうです? 我が家の騎士隊の戦いぶりは」
「……勇ましくて、頼もしいですね。国の守りとして誇らしい限りです」
「ふふっ、まるでバルド国の所有物のようにおっしゃいますね。彼らは国を越えてかき集められた、孤児や捨て子の成れの果てですのに」
「そう……なのですか……」
「騎士隊長の兄に縁を求めるのに、妃殿下は隊のことをよく存じておられないようだ」
侮られた気がして、表情を険しくする。こちらの様子に構うことなく、彼は話を続けた。
「騎士たちは魔物の体液を浴びるほどに、呪いを受けて、人ならざる者へと変容していくんです。人格が歪み、暴力を好み、戦いに依存して戦地に縛り付けられる。呪いにまみれて戦い死んでいくことが、生きがいになっていく。僕に言わせれば、紛い物の幸福だけれど……でも、騎士たちは喜んで戦い、喜んで死んでいくのです。その人生を『誇り』と呼んで」
オトフリート家の祓魔の騎士たちは、勇猛さで名を馳せているが――……そういう仕組みに囚われているのか。まったく知らずにいた。
でも、それを自分に話して、彼はどうしようというのか……。意図が読めずに怪訝な顔を向けてしまった。
ウルリヒは遠眼鏡の向きを変えて、前線とは反対の、壁際の方を見るよう促してきた。
地面が平らにならされた広場があり、複数人の騎士たちが集まっている。皆が囲う中、中央で一人が膝をついている。
「こちらは……皆で何をしているのでしょう。何かの儀式ですか?」
「見ていればわかります。あなたが縁を繋ごうとしている我が家の、古くからのしきたりです」
「……?」
何をするのだろう、と訝しがりながら見ていたが……次第に、嫌な予感が胸に湧き、体がこわばった。
中央で膝をついた騎士は、短剣を抜き、天を仰いで剣先を顔の前に向けたのだった。そして何かを叫び――……自らの眼窩を、刺し貫いた。
血を吹き出しながら倒れ込み、全身を痙攣させる。死にきれずに、のたうち回って苦しんでいる。断末魔の壮絶な呻き声が、壁の上まで届いた。
周囲の騎士たちが、剣を体中に突き刺した。肉も、骨も、ぐちゃぐちゃに破壊され……ほどなくして、騎士は動かぬ死体に成り果てた。
「呪いを身に宿した者は、大きな災いをもたらす、と、言い伝えられていまして。なので、呪いが進行した者は、あぁして死ぬ掟なのです。戦い、呪われ、死ぬ。死にきれないほど呪いがまわってしまった者は、皆で殺す。その生き様の監督者が、我がオトフリート家です」
暗闇の中でも、その鮮烈な光景は網膜に焼き付いた。あまりの惨さに耐えきれず、リュミエラは咄嗟に遠眼鏡から顔を離した。ウルリヒに背を向けて、込み上げてきた吐き気に蹲ってしまった。
口元を押さえて、えずくリュミエラを見遣り、ウルリヒは言う。
「二年前、僕の弟もあのようにして死にました。オトフリート家は三男までを家に残して、後は前線で剣を振るう騎士になる。数分の差で生まれた双子の弟が、祓魔の騎士となって……命をまっとうしました。立場は別れたけれど、ずっと仲が良くて……。こうして戦地を訪問しては、二人で語らいを楽しんだものです」
相槌を打つ余裕などなく、体を震わせながら耳だけを傾ける。彼は淡々と、思い出を語った。
「でも、弟は呪いがまわるのが早かった。片目が魔物色に変わり、あっという間に栄誉の自死の時を迎えた。でも、先ほどの騎士のように、死にきれなくて……。痛い、助けてくれ、死にたくない。それが最期の言葉です。悲鳴を上げてのたうち回って、僕が介助してやりました。大好きな弟の首を、この手で、切り落とした」
腑抜けた印象。覇気がない。覚悟がなさそう――。屋敷で彼を前にして、自分はそう評してしまった。名もなき三男だからと見下して、話を聞こうともしなかった。時間を無駄にした、と、上から目線でため息をついていた。
自分は一体、何をしていたのだろう。何を、見ていたというのだろう。何一つとして、ウルリヒという人物を、見定められていなかった……。
ウルリヒは穏やかな口調ながら、揺るぎない声音で心の内を明かす。
「僕は騎士たちの待遇を、この戦地を、改善したいと思うのです。既に識者の手も借りて、どうにかしようと足掻いています。でも、僻地貴族の三男ごときの力じゃ、やはりたかが知れている。……だからね、妃殿下。僕はあなたの密約書に、心が高鳴ったのですよ。絶大な権力を手にできる、と。僕にはその覚悟があります。良い機会があるのならば、どれほどの汚れを被ろうとも構わない。たとえ王を手にかけようとも、力が欲しい。……――でも、」
彼は口調を強くして、こちらを見下ろしてきた。
「逆に問いますが、あなたにご覚悟はあるのですか?」
(……覚、悟……? わたくしに……?)
すぐには問いかけの意味が理解できなかった。交渉を持ちかけているのはこちらのはずなのに、どうして逆に問われているのか。
こんな問答、エリーゼが話してくれた作戦の内にはない。聞いていない。
(……わたくしは……ただ……エリーゼ様の使いをしているだけだから……覚悟など…………)
どう答えたらいいのか、わからない……。
「無礼を承知で申し上げますが、僕は、甘い者と手を結ぶつもりはありません。荷物になる相手はいらないのです。さぁ、お立ちになってください、妃殿下。あなたは僕の隣に、並び立つことができますか? 血塗られた僕と共に、歩んでいけますか?」
壁の上の通路に、ウルリヒの凛とした声だけが響き渡り、消えていく。……続く声は、なかった。
リュミエラは強烈な吐き気にえずくばかりで、答えられなかった。立ち上がることもできず、ただただ、たった今見たおぞましい光景に恐怖し、震えていた。
もはや無意識のうちに、誰かが手を差し伸べてくれるのを待ってしまっていたのだ。背中をさすり、慰めの言葉をかけて、手を取って立たせて、優しく支えてくれる誰か――。
今この場にエリーゼがいたなら、きっとそうしてくれた。エリーゼがいたら、年下の、か弱い自分のことを気にかけて、守ってくれたに違いない。
でも……今、目の前にいるのはウルリヒだけだ。彼はリュミエラが動くのをじっと待っているだけで、決して手を貸そうとはしなかった。
そうして、動き出せずにいるリュミエラを見限って、ウルリヒはため息をついたのだった。
「……残念です。此度の話はなかったことにしましょう」
彼は上着の胸ポケットに仕舞っていた密約書を取り出し、通路のかがり火にかざす。見る間に火がまわって、燃え落ちた。
密約書を処分すると同時に、ウルリヒがまとっていた空気が、ふっとゆるんだように感じられた。
彼は心底申し訳なさそうな顔をして、しゃがみ込んで背をさすってきた。
「妃殿下ともあろうお方に、とんでもないモノをお見せしてしまいましたね。申し訳ございません」
「…………いえ……いいえ……。こちらこそ、申し訳ございません……。無礼の数々を、お許しくださいませ……。本当に……不甲斐ないです……エリーゼ様だったなら、きっと目を背けずにいられたでしょうに……。覚悟もない、軟弱者のわたくしが訪ねてしまって……ごめんなさい……」
見下げていたウルリヒよりもずっと、自分の方が意気地なしの腑抜けだった。何もかもを見誤った上に、交渉まで決裂させてしまった。
エリーゼだったなら、きっと事も無げに縁結びを成し遂げただろうに……。自分はどうしようもない軟弱者ゆえに、敗北を喫してしまったのだ。
情けなさと、どうしよう、という気持ちで涙が出てくる。けれど、ウルリヒの言葉を聞いて、泣き顔は驚きの顔へと変わった。
「リュミエラ妃殿下は、エリーゼ妃殿下と似ていらっしゃいますね。彼女も以前、足を運んでくださったことがあるのです」
「……エリーゼ様が……?」
「えぇ。現王権が揺らいだ時のために、我が家と縁を繋いでおきたい、と、数年前に」
エリーゼは既にオトフリート家を視野に入れて動いていたのか。知らなかった。
(……いや、知ろうともしていなかった、が正しいわね……。わたくしは自分の手の届く範囲くらいしか、物事を見ていなかった……)
今回の訪問で思い知った。自分はごく身近な事――自分事しか見てこなかったのだと。オトフリート家のことも、騎士隊のことも、手元の資料くらいしか見ていなかった。
大好きなエリーゼのことすらも……自分事の範囲でしか、見ていなかった。……気がする。
胸に湧いた思いを裏付けるように、ウルリヒから思わぬ言葉がもたらされた。
「エリーゼ妃殿下をご案内すると、同じようにご気分を悪くされて……うずくまって、泣きそうなお顔をしていらっしゃいました」
「……そんな……あのお方が、そんな弱みを見せるなんてこと……」
「当時は兄、アルノーが対応させていただいたのですが、兄はエリーゼ妃殿下を見限って、やはり手を結ばなかったのです。『弱い者とは共に歩めない』、と。無礼を承知で申し上げますが……リュミエラ妃殿下も、同じでございます。二度目のお断りとなり、申し訳ございません」
話を聞いて愕然としてしまった。あのエリーゼも、こういう状況を経験していたなんて。
おぞましい光景を目にして、同じように怯み、同じように恐れ、同じように失態を演じ、涙ぐむほどに打ちひしがれたなんて……。
(……わたくしと同じ……? エリーゼ様も……?)
エリーゼも自分と同じ。同じように弱かったのだと、知ってしまった。気が付いてしまった。
それならば、彼女は今までどんな気持ちで城暮らしをしていたのか。どんな気持ちで、ソーベルビア王の隣に立っていたのか――……。
必死に包み隠してきたであろう気持ちに、察しがついてしまって、リュミエラはまた泣いてしまった。
エリーゼがあの暴君に対して抱いていた感情は……きっと身を震わせるほどの、とてつもない『恐怖』だっただろう、と。
(……そうだ……。思い出した……)
昔、『色気の技が苦手なのだ』と、珍しく弱音をこぼした時……彼女は、泣いていたのだった。
ソーベルビアとの行為が、怖くて、痛くて、嫌で嫌で、たまらないのだと。庭の草陰に隠れて、身を震わせて、泣いていたのだ――。
思い出を手繰り寄せるごとに、涙の量が増していく。あふれ返った涙で、視界はまったく効かなくなってしまったけれど……心の中に思い浮かべたエリーゼの姿は、今までよりずっと、鮮明に感じられた。




