13 予期せぬ領主の来訪
青空教室では本日も、男女数人の生徒たちが勉強道具を広げて、せっせと課題に取り組んでいる。
エリーゼの課題を十問解いたら、各々の自由学習の時間が与えられる。そうしてまた時間が来たら、次の課題を与えられる。こうして区切りながら学習を進める、という授業方針にしてから、早数ヶ月――。
この方法は功を奏しているようで、子供たちは飽きることなくテーブルに嚙り付いている。
いや、子供だけでなく、一人、大柄の男もテーブルの一角を陣取っているのだけれど。
フレーゲルが尻尾を振りながら、『先生! 先生!』とご機嫌な声をかけてくるのも、すっかり馴染みの光景になった。
彼は今日も、お気に入りの本の読解に取り組んでいる。
「リセ先生、ここの文章、意味がわからない」
「この箇所は他とは違う文法で綴られていますね。古めかしい飾った言い回しをして、文を雅やかな雰囲気にしているのです」
彼が手渡してきた本を受け取り、文章を指でなぞって解説する。
と、今日もそんな、いつも通りの授業風景が展開されていたのだけれど――……突然の来訪者によって、庭の風景は一変することになったのだった。
小屋の向こう側――敷地の表の方から、ザッザッと大人数の足音が聞こえてきて、キャンがいち早く反応し、けたたましく吠え出した。
犬の声に応えるかのように、表から来訪者の挨拶が届いた。
「いるのだろう? ネッサ・クルーガー! 邪魔をするぞ!」
軒下のベンチで論文を書いていたネッサは、素早く立ち上がり、エリーゼの腕を引っ張ってきた。こそりと早口の小声で言う。
「ジル=ハイコの領主だ。念のため、あんたは隠れときな」
「領主……確か、名は」
「ほれ、早く!」
ネッサは力任せにエリーゼの背を押して、小屋脇の植木の茂みへと突っ込んだ。
続いて、ポカンとしたまま席に着いている生徒たちにも、声を掛ける。
「領主様がおいでだ。お前たちも下がってな」
領主の来訪は、子供たちにとっても驚くべき出来事のよう。皆、オロオロしながら席を立ち、庭の端へ移動し始めた。
そんな慌ただしい空気の中、領主とやらがズカズカと庭に踏み入ってきた。腰に剣を下げた、ものものしい私兵、十数人を率いている。
もたもたしている子供の背を押しながら、ネッサが声をかけた。
「どうもこんにちは、フィデリオ・ハイコ様。ま~たあたしの研究に、ケチでもつけに来たのかい?」
「そうだな。あんたの胡散臭い研究には、物申してやりたいところだ。が、今日は別件だ!」
領主は小柄で小太りな男だ。エリーゼと同じくらいか、少し年上くらいの年齢だろうか。整えられたちょび髭と、七三で分けられた茶髪が印象的である。
領主は言葉尻を荒くして、ネッサから視線を外した。そうして眉を吊り上げて睨みつけたのは、未だテーブルの端にいた、フレーゲルだった。
「おい、そこの眼帯男! お前に用がある! 大人しく地面に伏せよ!!」
怒鳴り声を飛ばして、領主は腰の剣を抜き放った。剣先で、ビシリとフレーゲルを指す。それを合図に、私兵たちも剣を抜いてフレーゲルを囲った。
いや、囲おうとした。の、だが――。
フレーゲルが力任せにテーブルを蹴り倒したことで、私兵の動きは乱されたのだった。
がっしりとした大きなテーブルは、彼の猛烈なひと蹴りでひっくり返り、私兵との盾となった。机の上の物は勢いよく飛んでいき、テーブルの端は音を立てて、ひび割れた。
兵は飛びのいて避けたが、領主を庇った数人はぶち当たって倒れ込んだ。一緒になって地面を転がった領主は、それでも剣を振りかざし、怒声の命令を飛ばした。
「おのれ……っ!! やはり貴様か! この不届き者を捕らえよっ!!」
兵が一斉に剣を振りかぶり、今度こそフレーゲルに襲い掛かった。フレーゲルも腰元に下げていた護身の短剣を抜き、刃を兵へと向けた。
両者共に間合いを詰め、剣身がぶつかり合う――……直前に、耳をつんざく大声が放たれた。
「控えよ!! 子供らの前で剣を振るうとは何事か!!」
渾身の怒声を発したのは、エリーゼだった。
思わぬところから凄まじい威圧をくらい、フレーゲルも私兵も面食らって、一瞬で意識を持っていかれた。
エリーゼは大股で歩み寄り、動きを止めた両者の剣の間に割って入った。
「もう一度言う! 剣を収めて控えよ、無作法者どもが! 領主の私兵だろうが、人の庭で争うことは許さぬ!」
突然現れた知らぬ女に命令をくらって、私兵たちは困惑していた。が、そんな兵たちをよそに、領主は一人、愕然とした面持ちで、剣を取り落としたのだった。
「あ……あなたは……!?」
目を見開いて、口をはくはくしながら呟いた。彼の様子を見て、エリーゼは胸の内でため息を吐いた。
(この者はわたくしを知っているのか)
領主フィデリオ・ハイコ。容姿に覚えはなかったが、名前だけは記憶の端にあった。新興貴族で、開拓途上の街の若き領主。
言葉は悪いが、取るに足らない地方の一領主でしかない。城の謁見の間などで、相対したことはなかったはずだが……この一瞬でエリーゼの正体を察してみせるとは。なかなか食えない男だ。
唖然とした面持ちで、領主フィデリオが、何か言おうと唇を動かしたが――……その前に、視界の端を人影がよぎった。フレーゲルが逃げ出したのだ。
彼は庭に連なっている裏の森へと飛び込み、あっという間に姿を消した。
フィデリオがハッとして身じろいだ。
「あっ……!? 逃げやがったな! 罪人め!!」
「罪人? フレーゲルが?」
森の茂みとエリーゼを交互に見ながら、フィデリオは慌てた様子で説明する。
「あっ、っと、あの、最近街で放火が相次いでいまして! 現場から黒髪の男が逃げるのを見た、という民の情報を頼りに、怪しい輩を探していたんです。その折に、眼帯で顔を隠している男がいる、と聞いたもので、捕らえに来たのですが……」
「火事があった日は?」
「ええと、先週の水の曜日です」
「その曜日は、彼は終日仕事のはず。馬の駅で働いているはずだから、馬飼いたちに聞いてみるといい」
「な、何……!?」
フィデリオは渋い顔をして目を泳がせた。
「いかん、私としたことが……早まったか。いやはや、失礼しました。あなた様がそうおっしゃるのなら、あの男は無罪でありましょう」
「謝るのならわたくしではなく、彼に。それから庭の主であるネッサ博士にも」
「ははぁ。……というか、あの、一体なにゆえ、妃殿下がこんなところに――……」
込み入った話が始まる前に、唇に人差し指をあてて制した。
「その話は後日、また。他言無用、命令です」
「ははぁっ! ……改めまして、この度は大変な無礼をいたしまして、申し訳ございません。――皆、片付けを!」
フィデリオはもの凄くうやうやしく敬礼をして、私兵たちに庭の片付けを命じた。
ひっくり返ったテーブルや椅子を戻し、散らかった物を拾って、丁寧に砂落としまでして帰っていった。
領主一行の後ろ姿を見送りながら、エリーゼは険しい顔をする。
(つい争いごとに割って入ってしまったが……面倒なことになったかもしれない。最悪、この街を出る算段もつけておいた方がいいかも)
取るに足らない地方の一領主となると、王城に何か連絡を入れようにも、相手にされない場合が多い。なので、エリーゼの所在について、わざわざ告げ口をするとは思えないが……。
でも、万が一にも情報が渡って、ソーベルビアの耳に入ってしまったら……彼は怒り狂うことだろう。
(きっとあの王のことだから、私兵を連れて、自らわたくしの首を取りにくるだろう)
考え込んでいたら、ネッサに声をかけられた。いつの間にか子供たちと一緒に避難していたらしく、服に葉っぱをつけている。
「そう怖い顔をしなさんな。あの領主はそそっかしい男だが、そう悪い奴でもない」
確かに、自ら街の見回りをしているのは、良い心がけだ。街と民を大事にしているのだろう。
表情をゆるめると、ネッサが話題を変えた。
「で? フレーゲルの奴は?」
「裏の森に逃げていきました」
「柄にもなく暴れて……どうしたんだか。パニックを起こした時のキャンみたいだったね」
ネッサはやれやれ、と顔をしかめて、キャンを抱き上げた。エリーゼは手にしたままになっていたフレーゲルの本と、森とを、交互に見遣る。
手早く新しい付箋を挟んだ後、森の方へと歩を向けた。
「この森は険しいのでしょうか? 少し探してみます」
「あまり深くまでいくと獣が出るから気を付けな」
茂みをかき分けて、彼が走っていった獣道を歩き出した。
獣道は一直線に続いていて、明るいうちは迷うこともなさそうだ。
木漏れ日の下をずっと進んでいくと、崖の岩壁に突き当たった。
(さすがに、ここを登って進むのは……。怪我をしそうだわ)
どうしようか……と見上げて迷っていると、思いがけず、崖の上ではなく脇の茂みの方で、フレーゲルを見つけた。
「こんなところにいた。フレーゲル――……」
「っ……!!」
茂みをかき分けて声を掛けると、彼は弾かれたように短剣を構えた。剣先を真っ直ぐこちらに向けて、鋭い視線でじっとエリーゼを見ている。
先ほどネッサがキャンに例えていたが、本当に、威嚇をする犬のようだ。
けれど、エリーゼは構うことなく、澄ました顔で言う。
「領主様にはお帰りいただきましたよ。放火犯と間違えたみたいで、謝っていたわ。――ほら、忘れ物」
本を差し出し、怯むことなく歩み寄る。
フレーゲルは未だ剣を構えているが……恐れるに値しない。その緑色の左目は、本気で人を傷つけようとしている目ではないから。
先ほどの庭での争いもそうだった。彼も、私兵たちも、言動を荒らしてはいたが、目に殺意を宿してはいなかった。
城で暴君に寄り添い続けてきた自分にはわかる。本気で人を殺そうとする時には、もっと目の奥がぎらつくものだ。今の彼は大丈夫――。
向けられている短剣の側面を、手の甲でカツンと叩いて払い除ける。剣先を逸らして、本を手渡した。
「宿題のページに付箋を挟んでおきました。次に来るまでにやっておくように」
「……あ……ど、どうも……」
「それとも、今から学校に戻って、一緒に進めますか?」
フレーゲルは片手に短剣、片手に本を持ち、呆けた様子で立ち尽くしている。歩みを促したが、動かずにいた。
エリーゼも立ち止まり、もう一度、正面から向き合った。
「もしくは、他に何か話したいことでも? それなら、ここで聞きますよ」
そう言うと、彼は口を開け閉めしていた。向かい合ったまま、動かずに待つ。
しばらくの間を置いて、囁きのような小さな声がこぼされた。
「俺、昔……罪を犯したことがあって……。してはいけないことをして、逃げたんだ」
「そう。何をしたのか、話せますか」
「言えない……けど、すごく悪いことだ。絶対にしてはいけないことだったのに、俺は決まり事を破ってしまった。こんなに遠くまで逃げてきたのに……さっき、バレたのかと思った。領主に捕まるかと思った。捕まったら、殺されると思った」
ごめんなさい。と、蚊の鳴くような声を最後に付け加えて、彼は顔を伏せた。
(死刑をくらうような過ちを……フレーゲルが……?)
口を閉ざして、目の前の男を見遣る。
浮ついた能天気な男だと思っていたことを、胸の内で詫びた。
人を上っ面で判断していた自分は、なんと浅はかな人間だろう。傲慢さを反省しないといけない……。
彼が何をしたのかは知らない。以前の、『女王』の立場のエリーゼだったら、事によっては裁いたかもしれない。――けれど、今は違う。罪を裁くのはエリーゼの務めではない。
今の自分は、しがない街角の先生だ。生徒に教えを授けるのが務めである。怯えと罪悪感で心を乱す教え子に寄り添うことが、今の自分の、なすべきことだろう。
そう考えて、未だ短剣を握りしめている彼の手に触れた。
「誰にでも、他人に明かせない暗い部分があるものです。でも、自身の闇に囚われるあまり、自棄になってはいけませんよ、絶対に。――さぁ、ほら、顔を上げて。剣を収めてちょうだい」
「……安い慰めだな。先生らしくない……。そうやって適当にいなして、領主に突き出すつもり……?」
「まぁ、ずいぶんな言いよう。ありきたりな慰め文句ですみませんね。わたくし自身も、身にしみているからこその言葉だというのに」
「……先生にも後ろめたいことがあるの……? ……嘘だ。想像つかない」
「ありますよ。心の底の底に隠して、鍵をかけた澱みが」
エリーゼが誰にも明かしていない、心の底の底に押しやって、鍵をかけたもの。死んだふりをして王都を脱したあの日に、心に湧いた想い。相応しくないから隠し通すと決めた、恥ずべき想いが、一つある。
本当の死を迎える時まで、しまっておくと決めたこと――。
「フレーゲル。わたくしは、あなたの心の底を無理やり開けることはしません。鍵は自分で持っておくこと。もし開けたくなった時が来たら、わたくしが聞きましょう。教会の神父様でもいいですけれど」
「……いや、先生がいい。その時は先生に聞いてほしい」
そう言うと、フレーゲルはようやく表情を緩めて、剣を鞘に収めた。
そうして自由になった手で本をめくり、目をパチクリさせる。
「……気のせいかな。宿題のページ数が、いつもの四倍くらいあるんだけど……」
「気のせいですよ。まさか、『庭をめちゃくちゃにした挙句、わたくしを盾にして逃げ出した罰』なんて私怨を、宿題にぶつけるわけないでしょうに」
「……ご……ごめんなさい……頑張ります……」
エリーゼの澄ました微笑とは反対に、フレーゲルは渋い顔をして体を縮こめた。
潜伏中に領主と接触し、素性を悟られるというのは、エリーゼの計画にはない不測の事態だ。
領主が王城に余計な告げ口をしたら、こちらはおしまい。最悪、逃亡生活をしなければいけなくなる。
(でも、あなたには関係のないことだから。宿題くらいで済ませてあげる)
そういう腹いせもかねて、宿題を増量したのだけれど。フレーゲル当人は、言動とは裏腹に、どことなく嬉しそうにしていた。
「さぁ、帰りましょう。こんなところにいつまでもいたら、虫に食われてしまうわ」
彼の手を引いて歩き出す。リードを引かれた犬のように、フレーゲルはされるがまま、エリーゼについて歩いて森を抜けた。
その日の夜。フレーゲルはいつものように、寝床の上で夢を見た。
ドキドキと、忙しなく心臓を鳴らして飛び起きるのは、いつものことだが――……この夜は、夢の内容が大きく違っていた。
過去の罪の悪夢ではなく、今の自分と、リセの夢を見た。
美しい花の咲く、緑の庭で。フレーゲルはリセの前で片膝をついた。
彼女の白い手を取り、そっと、甲へと口づけを落として――……。
「……っ」
そこで、飛び起きてしまった。
いつもは血の気が引いた状態で目覚めるというのに、今日は体が火照ってしまって仕方ない。
手をパタパタとはためかせて顔をあおぎ、口元を押さえた。
夢の中の事だが……リセの滑らかな手の甲を、唇でなぞった感覚がまだ残っている。たまらない気持ちになって倒れ伏し、見悶えてしまった。
(俺は何という夢を……! クソッ、起きるんじゃなかった……)
もう一度眠りについたら、夢の続きを見られるだろうか。そう思って目を閉じるも、もうすっかり眠気は飛んでしまっていた。無念だ……。
仕方ないので目を開けて、ぼんやりと寝転がり、正常な左目一つで暗い天井を仰ぎ見る。
なんだか、とても幸せな気分だ。胸がほわほわするような、それでいて苦しいような、でも心地良くて……例えようのない感覚。
最近、ふとした時に、こういう心地を覚えるようになった。学校にいる時が多いかもしれない。リセと喋っている時とか、ふいに目が合った時とかに、なんだかふわふわとした気分になるのだ。
今日、手を引かれて森の中を歩いていた時も、胸の中が熱くて仕方なかった。今まで以上に、この、不思議で幸せな心地が強くなった気がする……。
(本の中に、確か、似たような事が書いてあったっけ……)
ふと思い至り、ランプを点けて本を手に取る。開いたのは、恋愛について綴られている章だ。
(これだ……この感覚だ……違いない!)
自分は女の子が好きで、恋人を欲している。これまで幾人にもナンパを仕掛けてきた。その度に、ウキウキと心を弾ませてきた……の、だけれど。それは、ずいぶんと軽やかなものだった。十歩も歩けば、あっさりと手放せるほどに。
それが、今はどうか。胸の高鳴りは一向におさまらず、それどころか強まるばかりで、もはや見悶えるしかなくなっている。
これが本物の、恋心。
真実の愛、というものではなかろうか――。
恋愛の章を読み返して、ベッドの上をゴロゴロと転がってしまった。
章の中には、騎士が恋人にキスをするシーンの挿絵がある。頭の中に残っていたこの絵と、今日、繋いでもらった優しい手の記憶とが交じり合って、先ほどの素敵な夢が出来上がったのだろうか。自分の脳を褒め称えたい。
(リセ先生にだったら、罰の死刑をくらってもいいかもしれない)
領主に捕まって殺されるのは嫌だが、リセなら……受け入れられる気がする。笑顔で天に昇れそうだ。
そんな浮ついた気持ちで、しばらくの間、ありとあらゆる恋愛空想に思いを馳せてしまったが――……この空想は、心の底の底に仕舞っておこう。
もし、彼女に知られでもしたら、本当に殺されかねない事まで、うっかり想像してしまったので。
恋する男はしょうもない妄想をしがちだ。と、本にも書かれていた。




