瘴気
後日、リリアンは分所にてシオンから恐ろしい報告を受けて驚いていた。
「うちで瘴気が見つかったんですか!?」
一緒にテーブルを囲むボンカルも同じように目を丸くしている。
彼は既に騎士を引退はしているが、リリアンを心配して職場に顔を出してくれる。
「場所は、国境付近の山の麓か」
ボンカルがテーブルに置かれた地図を見下ろしながら呟く。
瘴気は魔物から流れた血を放置すると発生する。瘴気は魔物が凶暴化して人を襲う原因になるので、必ず浄化する必要がある。
なので、それが見つかれば、魔物の存在を意味する。
「そんな、うちに魔物がいるだなんて……」
ボーヘン男爵領は、他国と隣接しているが、国境付近に険しい山脈があるため、侵略の心配がほとんどない地域だ。
領民の脅威となる魔物も長年確認されていない。
だから、魔物はいないと思われていた。
国境付近の安全のために騎士団の分所が領内に設置されているが、ボーヘン男爵領のような安全地帯は、派遣された騎士が一人だけで制度が形骸化している。
だから分所の場所によっては、騎士の地方派遣は、使えないと上から判断されたが首にもできない騎士用の閑職だった。
「災害の話を聞いておかしいと思っていたんだ。だから、何か異変が起きているのかと思い、調査をしていたんだ。この瘴気を見つけたのは最近だけどね」
シオンは同じように地図を眺めながら説明してくれる。
以前、シオンの服が土で汚れていたのは、この調査のためだったようだ。
「でも、どうして魔物が突然現れたんだ?」
「謎だわ」
ボンカルの呟きにリリアンも相槌を打つ。
「突然現れたってことはねぇよな。もしかして、魔物が移動してきたってことか?」
ボンカルの問いにシオンは頷く。
「うん、一番怪しいのは陸続きの隣国だよね」
「災害を起こす魔物なんて、大物に違いねぇな。隣国を調べれば何か情報があるんじゃないのか?」
「ボンカルさん、そのとおりだよ。俺もそう考えて調べてみたんだ」
「まぁ、シオンさん、仕事が速いですね!」
「まぁね。俺がここに来て一年近く経つからね。時間はあったから」
「そんなことないですよ! シオンさんすごいです!」
「そうだ。みんな気付いてなかったのにすごいな。それで調査の結果はどうだったんだ?」
「隣国ハルベキヤの魔物特定固有種を調べたら、いくつかあったんだけど、ボーヘン男爵領との国境付近にいる魔物は、水竜だったね」
そのシオンの説明にボンカルが顔色を変える。
竜は魔物の中でも、上位の脅威さだ。
「じゃあ、その魔物がうちの領地に来たってことか?」
「恐らくね」
シオンの答えにボンカルが表情を曇らせる。
「そりゃ困ったな。魔物に対抗できる手段がねぇや」
「そうよね。王都に応援を要請するしかないけど……」
もちろん無料と言うわけにはいかない。
でも、苦しい財源から捻出は非常に厳しい。
「大丈夫だよ。魔物協定により、国ごとで認定されている特定固有種の魔物については、その国が所有の権利を持つんだ。だから、魔物については、隣国に対処を要請すればいい」
「なるほど」
(魔物の正体が水竜だったら、私たちで対応しなくてもいいのね)
「まず魔物の正体を調査する必要がある。それから隣国との交渉が必要となると、男爵家だけの話で済まないから、国同士のやりとりになる」
「魔物の調査のために国から人がやって来ますよね?」
そうなれば、シオンの左腕に気づかれて、理由を問われるだろう。
「そうだけど、俺としては騎士団に口を出されたくない。だから、俺たちで魔物を調査して、できれば討伐したい。そのあとに国に報告する」
「あのっ、私たちだけで狩るんですか!?」
「そうだよ。俺とリリアンさんで」
シオンは何の不安もない笑顔を浮かべている。
聖女は魔物討伐の際、浄化の力で魔物の能力を弱体化させる。
その役目を指示されたのだ。
「おいおい、竜を二人で討伐だと!? 正気か?」
「俺は正気だし、過去に火竜と戦った経験から勝算はあるから大丈夫だよ」
「それは魔剣士としての経験か?」
「そうだよ。魔物と戦える手段はある」
シオンの返答にリリアンも頷く。
彼は以前魔剣士だと教えてくれたからだ。
「そうか。なら俺は文句はないが、お嬢様はどうだ?」
「すみません。私には難しいです。討伐に参加したこともないし、浄化の評価だって……」
一番低いはずだ。
「そのことだけど、ポーションの件があるから、王都での評価を全く信じられないんだ。一体、どんなやり取りがあったの?」
「それは……」
リリアンは当時の出来事を思い出しながら説明する。
ポーション作りで低評価だったあと、聖女の先輩エマから瘴気の浄化のやり方も教えてもらった。
座学は問題なくこなせた。浄化の基礎もこなせた。
しかし、実地での実技で問題が発生したのだ。
魔物を討伐したあと、瘴気で汚された土地の浄化作業のため、騎士団と共にリリアンも参加することになった。
依頼のあった森の地面には、瘴気が黒い染みのように点在していた。
魔物がこの地で死んでいたらしい。
「手分けして瘴気を浄化してください」
上官の騎士の指示に他の聖女はすぐに従ったが、リリアンは違った。
「あのっ、すみません。なぜみんなで浄化しないんですか?」
リリアンの目には瘴気が最も濃い部分から広がっているように見えていた。
だから指差しして、その部分から集中して浄化した方が効率的だと感じていた。
「君、新入りだよね? さっさと仕事してくれないかな」
「いえ、あのっ、そうじゃなくて」
「なんだよ」
「だから、あそこがアレなんですよ、濃くないですか?」
「だから何なの? 先輩を見習って早く仕事を始めなよ」
「すみません」
どうやら瘴気の濃さは、気にしなくても良かったみたいだ。
騎士には怒られ、先輩たちには嘲笑され、リリアンは黙って仕事をこなすしかなかった。
もちろん、一番気になった瘴気の濃い部分からだ。
リリアンがやっとその箇所の浄化を終えたとき、周りの瘴気は他の聖女のおかげで全部消えていた。
「君が長い時間をかけて消した瘴気だが、他の者ならもっと早くこなせるぞ。真面目にやれ」
「すみません」
リリアンはその説明で、他の聖女の力のほうが自分よりも遥かに優秀で、自分は人並みに仕事をこなせない落ちこぼれだと理解せざるをえなかった。
「それで評価が低かったんです」
「なるほど。なんとなく、誤解の原因が俺には分かったよ」
「誤解、ですか?」
「うん、他の人には瘴気の濃さまで分からなかったんだよ。だからリリアンさんの話が理解できなかったんだと思うよ」
「なるほどな。濃い瘴気だったから時間が掛かって当然だったってことか」
横でボンカルが納得して頷いている。
(見えているものが違ったの? そんな可能性に全然気づかなかった)
「それに、瘴気の濃さが分かるリリアンさんなら、隠れている魔物を探し出せるかもしれない」
「魔物が隠れているんですか?」
「うん。だから今まで誰も魔物の存在に気づけなかったんだ。まずは探索からやってみようか」
「はい」
(探すくらいなら、私でもできるかもしれないわね)
方針がまとまったので、シオンは領主であるリリアンの父に話を通した。
父はリリアンが大聖女ほどの実力を持っていたことに驚いていたが、王都で下された低すぎる評価に呆れていた。
「騎士団長は竜刻を待つ優秀な方だと聞いていたが、人を見る目はなかったようだな。そんな方に助けを求めるよりも、リリアンを認めてくれたリヒュエル卿の指示どおりにしよう」
実のところ、騎士団に応援の要請をできるような財力の余裕はなく、内輪で片付くなら、もし作戦が上手くいけば大助かりな状況だった。
という訳で後日。
周辺住民の避難などを済ませて、リリアンはシオンたちと瘴気が発見された現地に向かった。
山の麓全体は枯れ果てた植物に覆われ、悪天候が続き土砂崩れが発生した箇所は地面が剥き出した状態だ。
しかも、その荒れて凹凸ができた土地には、長雨の影響で水が大量に溜まった池があちこちに発生している。
その一帯に染みのように散らばった瘴気が沢山確認された。
以前なら、山の麓に広がる自然は緑豊かで、様々な生き物の息吹に溢れていた。
でも、今は色褪せて静まり返り、異様な不気味さを漂わせていた。
「本当に瘴気がありますね」
「魔物がいるなら、凶暴化してる可能性があるぜ。お嬢様、気をつけるんだぞ」
ボンカルも剣と盾を装備してリリアンに同行していた。
非常時と言うことで領主はもちろんのこと、召集された自治団の男たちもいたが、シオンの指示により少し離れた場所で待機していた。
「はい。でも、この近くにはいないみたいです」
リリアンには何も感じられなかった。
「どっちにいるか、分かるかな?」
「調べます」
シオンの期待に応えるためにリリアンは感覚を研ぎ澄ます。
「あちらの方角に何か威圧感があります」
現在地より少し離れた箇所を指差す。
見た限り、視界には泥水の池があるだけだ。でも、非常に違和感を覚えていた。鳥肌が立つくらいに。
(得体の知れない何かがいるかも)
リリアンは遥かに恐ろしい存在を感じていた。
「それって俺よりも強く感じる?」
シオンさんの問いにリリアンは目を瞬く。
「……はい」
(彼一人では勝てるかどうか、怪しいくらいに)
姿の見えない得体の知れないものに恐怖を覚える。
「じゃあ、威圧感があるところに浄化をかけられるかな?」
「試してみます」
魔物が隠れている恐れがあるので近づいたら危険だ。
だから、遠隔武器のように遠くから浄化を放つ必要がある。
瘴気の浄化で低評価だったので、研修の実技はそこまで進んでいなかった。
知識で学んだだけだ。それを頼りに初めての挑戦を行う。
シオンの期待に応えたいからだ。
才能を認められて、純粋に嬉しかった。
リリアンは両手を向けて、標的に狙いを定める。
「えいっ!」
気合いと共に浄化の力を搾り出すように放出する。
「ポスッ」
気の抜けた音と共に小さな白い綿のような玉が、リリアンの手から発せられた。
非常に頼りない低速度で、フラフラと目的地に進んでいく。まるで風で飛んでいくシャボン玉のようだ。
「あっ、あのっ、すみません! やっぱり上手くいきませんでした」
実は本番までに練習はしていたが、広範囲の浄化をイメージしているのに、出てくるのは小さい固まりだけで、上手くできなかった。
「いやいや、初めてなのに、浄化が飛んでいくなんてすごいよ!」
「あのっ、上手くいかなかったら、何度か挑戦させてください」
「もちろんだよ」
そんな会話の最中、先ほどからヘロヘロと力なく飛んでいた浄化の玉が、さらに弱々しくなり、何とか目的地に届き、力尽きたように水面に落ちていく。
「あっ」
白い玉が水の中に吸い込まれるように消えた。
一瞬の静寂のあと、激しい音と共に池の奥が突然爆発した。
強烈な風圧と飛散物を目視した瞬間、リリアンは気づいたら、咄嗟に誰かに庇われていた。
シオンだ。
それから目の前にある盾に激しくぶつかる衝撃音が振動と共に嫌でも聞こえる。
大量の水だ。水飛沫だ。
「魔物だ! 二人は下がって!」
リリアンが盾越しに見たのは、剣を鞘から抜き、竜に立ち向かうシオンの後ろ姿だ。
領民の家一軒分くらいもある巨体を前にしても動じてない。
魔物はやはり竜だ。
蛇のように長い身体には、四本の脚があり、泥で汚れているせいか、イメージと違って色はくすみ、灰色のようだ。
頭部にはツノが生え、長い吻には尖った牙が見える。
威嚇なのか、竜から激しい咆哮が発せられる。
竜の周囲に水が幾つも渦を巻き、まさに魔法で攻撃を仕掛けようとしていた。
恐ろしい魔物を目の当たりにして、リリアンは恐ろしさのあまり息を呑んだ。