1.コソ泥と天使
どんよりと厚い雲が覆い、霧のような雨が体に降りかかる。
スコットランドの空は、いつだって気まぐれに降ったりやんだりの繰り返しだ。
ゴミステーションのゴミ山の上にぼろ雑巾のようにうち捨てられた男は、恨めしげに寝ころんだままその憂鬱な空を見上げていた。
ああ、畜生。
まったくもってろくでもない人生だ。
自分の身の上に起こったアンラッキーを思い出し、男―シドニー・クラインは臍を噛む。
スコットランド北部のド田舎の村のとある館。そこにあるという噂のお宝は、過去何人もの賊たちが挑み、失敗してきたいわくつきのヤマだった。
その難しい案件に意気揚々と挑んだのは昨晩のこと。
下調べは十分だった。対策もしっかり立てた。
それなのに、蓋を開けてみれば田舎の屋敷のくせにセキュリティはまるで女王陛下の宮殿並みという大誤算。
「…いてぇ…」
屋敷の領主が雇っていたのであろうその筋の男達に間抜けにもつかまり、ぼこぼこにされた挙句ほうほうの体でここまで逃げ帰ってきたのだ。
容赦なく殴られた顔は明日にはパンパンに腫れて今の倍には膨らむだろうし、口の中は切れて血の味しかしない。体を動かす気力もなくぼんやりと空を眺めていると、奇妙な鳴き声の何かが近寄ってくる気配がした。
「バフゥ?」
ちらりと視線を横にやればやけに太った犬がシドニーをのぞき込むように見下ろしていた。凶悪な顔をしているくせに、体型はころころしていてどこか愛嬌のある犬だ。
「あっちへいけよ…。デブ犬」
追い払うように手で払うも、犬はバカにしたようにその場から動かず尾っぽでシドニーの顔をはたきはじめた。
「おいやめろ、このくそ犬っ…!」
「クー・シー、どうしたの?」
小走りで走ってくる足音に、シドニーは顔をそちらへ向ける。
視線の先には一人の少女が立っていた。
白にも見える腰までの艶やかな銀の髪に薄い空色の瞳。繊細な顔立ちの、まごうことなき美少女にシドニーは息をのむ。
一瞬、天使のお迎えがきたのかと勘違いした。
この治安の悪い場所にそぐわない存在だ。
ぶさいくな犬を抱き抱えた天使は、シドニーをまじまじと見ると不思議そうな顔をした。
「どうしてこんなところで寝ているの?」
「あいにくベッドが売り切れ中だったんだよ。…つーか見世物じゃねぇぞ、ガキ」
「ガキじゃないわ。あなたがそんなところで寝ているとゴミが捨てられないの」
そう言う少女の手には黒いゴミ袋が握られていた。
「そうかい、悪かったな」
痛む体を無理やり起こし、シドニーはよろよろと立ち上がる。
「怪我してるみたいだけど、大丈夫?」
ゴミ袋を捨てながら興味無さそうにつぶやく少女に、シドニーは舌打ちした。
「これが大丈夫に見えるのかよ。…いっ…ててっ…。おら、どけよ…」
「よかったら怪我の手当てをしましょうか?うち、このフラットの3階なの」
少女の何気ない一言に、シドニーは呆れたように笑った。
「あんた、馬鹿か?こんな怪しげな奴自宅に引き入れるなん…」
その瞬間、急に頭がもうろうとする。
無理やり立ち上がったせいか、頭に血が上らない。
「う…あ…」
足元がふらつき、視界が反転する。
白濁する意識の中、最後に目に映ったのは天使のような少女の困惑したような顔だった。
※
かすかに歌が聞こえてくる。
不思議な歌だった。
英語なのかドイツ語なのかそれともフランス語なのか、それすらよくわからない。
それなのになぜか懐かしい。
遠い昔、この歌を聞いていた気がする。
じんわりと胸に広がる温かさに、涙が頬を伝った。
「泣いているの?」
突然の声に、シドニーはハッと目を覚ます。
つい先ほどまで見ていたどんよりとした空でなく、白い天井が視界に映る。目だけで辺りを探れば、どうやら自分は見知らぬ部屋の床に転がされているようだと理解する。
ゆっくりと体を起こすと、先程ゴミ捨て場で出会った美少女が椅子に座りこちらを見ていた。
「…ここは?」
「私の家。あなた、私の目の前で倒れたのよ」
「あんたが一人で俺を運んだのか?」
シドニーの言葉に、少女は首を振る。
「私じゃ無理よ。この子があなたを運んでくれたの。首のところをくわえてね」
シドニーは少女の足元で悠々と寝そべる犬を見た。
つまり犬に首根っこくわえられ、引きずられながら3階にあるこの部屋まで運ばれたらしい。
どうりで体のあちこちが痛いはずだ。
「そりゃあ、悪かったな」
「別に…」
「だがな、お嬢ちゃん、この街じゃそういう親切は身を滅ぼすぜ?悪い奴は山ほどいるんだ」
グラスゴーのイーストエンド地区といえば、スコットランド国内では治安が悪いことで有名な場所だ。シドニーは自分のことは棚上げし、少女に忠告してやる。
「誰でも助けるほど馬鹿じゃないわ」
少女は淡々と告げると、シドニーをじっと見た。
「あなたの中には悲しみと怒りしかなかった。それなのに、心は透き通った水晶みたい。だから興味があったの」
「…は?」
少女は不思議なことを言うと、シドニーを一瞥するとキッチンのほうへと向かった。
「あなた、名前は?」
「…シドニー」
自分でも驚くほどに素直に答えてしまい、思わず狼狽する。警戒心は人並み以上に強いはずなのに、どうもこの少女を前にするとペースが狂うらしい。
「ねえ、シド。行く当てがないのならしばらくここへ居たら?うちは兄さんと二人暮らしだし、兄さんは優しいからきっと許してくれるわ」
「おいおいおい!」
あまりにも無防備すぎる少女に、シドニーは思わず頭を抱えた。
「俺が凶悪な殺人犯だったらどうするつもりだ?今あんたを刺し殺して有り金全部奪っていくかも知れねーんだぞ?」
脅すように言うと、少女は不思議そうな顔をした。
「だって、あなたはそんな人間じゃないでしょう?」
きっぱりと言い切る少女に、シドニーは思わず言葉を失う。今まで自分にそんなことを言った人間は一人としていなかった。
「…あんた、名前なんて言うんだ?」
ぽつりと聞くシドニーに、少女は目をぱちくりさせた。
「エレノア」
「いい名前だな」
「ありふれた名前だわ」
「…あんたに、似合ってる」
シドニーの言葉に、エレノアは驚いたように目を見開き、そしてふんわりと嬉しそうに笑った。