第六話 沈黙の日々 その1(6)
千恵子の死を確認し、呆然と立ち尽くす健一。親族が集まり、葬儀などの手続きを進める中、一人千恵子との出会いの日々を思い出すのだった。
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死亡が確認された千恵子は、視界が悪く雨脚が強くなる中、帰りを急ぐ余り、車道を不注意に歩いているところを、後から来たトラックにはねられてしまった。
すぐに病院に運ばれたものの、搬送途中に息を引き取った。
仕事の量を増やしたための、疲労からだったのだろうか?
恐らく注意力が散漫になったのが理由の事故。
千恵子と遺体と対面した大畑健一は、しばらくその場で立ち尽くした。
後から福井真理も来た。福井は、健一の母・京子と同じ年の49歳であったが、今まで独身と言うことと、喫茶店を数店経営している実業家だけあって、年よりも若く見え、背が高く、髪も長く、プロポーションも美貌も保っていた。
だが、福井にしても、放心状態の健一の姿をただ黙って見守るほかなかった。
「千恵子になんて酷いことをしてしまったんだ。早すぎたんだ!すべてが・・・。
もう取り返しがつかない!」
やがて自分自身をひたすら責め続ける健一に、福井は少し大きな声で健一に叱る。
「どうして何も言ってくれなかったの?千恵子さんにこんなにも負担をかけさせるなんて!」
それに対して健一は、大粒の涙をこぼしながら、「でもどうしてもこれ以上福井のおばさんに迷惑をかけられなかったんだ。千恵子も同じ考えで...」
と言葉にするのが精いっぱいで、後は只泣きじゃくるのだった。
千恵子の通夜・葬儀は、気が動転したままの健一に代わって、福井と大阪から飛んで戻ってきた、母・京子の2人が取り仕切り、横浜に住んでいた弟の健二夫妻や千恵子のご両親などの親族が次々と集まった。
だが、集まった誰もが、突然の不幸に声は失われ、沈黙が続く中、一人泰男だけが状況がわからず無邪気にはしゃいでいるのだった。
この間、ほとんどうつむいたままの健一は、静かに千恵子と始めて台北で出会った時のことが脳裏に浮かんでいた。
〜〜〜
あれは、7年前、1984年。
健一は春から大学院に進む事が決まり、その間の休みを利用して、3度目のバンコクに旅立っていた。
1度目の最後に出会い、2度目に、更なる探求し続けたタイ料理であったが、
帰国後、食べたくても、当時また日本では食べる所がほとんど無く、「それならば」と自分で料理を学んで、日本でも自作で食べることができるようにするのが今回の旅の主目的であった。
ただ、今までとの違いは、あえて経由便を使った事。
院生になり、あくまで中国史の研究を続ける立場として、タイばかりに行くわけにもいかず、帰りに台湾の台北に立ち寄ろうと考えていたのであった。
全行程10日間のうち、1週間バンコクに滞在。
外国人向け英語の料理教室で、存分に学んだ後、最終日に、タイ料理の出会いを作ってもらった“居酒屋源次”の城山源次郎に、学んだばかりのタイ料理を試しに作って欲しいと言われ、初めて作った料理は次の5品。
この世界に嵌るきっかけになった世界3大スープ「トムヤンクン」、春雨を使ったサラダ「ヤムウンセン」、鶏の焼き物「ガイヤーン」、前年に日本のある中華料理店でメニューに入っていたので、店の人に作り方を教えてもらおうとしたものの、あっさり門前払いを食らった
タイの焼きそば「パッタイ」、そして緑色をしたタイカレー「ゲーンキァオワーン」
これらの料理を恐る恐る店の常連さんに、振舞った後、そのまま宴会に突入。
朝からの緊張から解き放たれた健一の酒量もいつも以上に増えてしまったのだった。
特に健一が、料理を作っている最中から、フラッシュを光らせながら、一部始終を撮影する
髪を後ろで結んでいる若者がいた。
彼の名は吉野一也。
主に東南アジアを旅しながら、撮影を続ける写真家で、バンコクに立ち寄る時には必ず
“源次”に立ち寄っていた。
「大畑さん、若いのに努力家ですね。料理も既に美味いし、将来きっと立派な料理人になれるよ」
ビール片手に健一を褒めちぎる吉野に乗せられたのか、健一の酒量が増えていっただけでなく、さらにタイ料理の世界に嵌るきっかけとなってしまうのだった。
そのためバンコクを飛び立つ朝は、完全なる2日酔いの重苦しい状態であった。




