第三話 突然の悲劇 その3(3)
日本帰国まであとわずかだった夜、居酒屋源次の店主からタイ料理を勧められた健一は、辛い料理が苦手ながらも一度チャレンジする事にした。
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“居酒屋 源次”の店の入り口は障子になっており、外からは中を見ることができない。
しかし、いったん中に入ると、ここがタイであることを一瞬忘れてしまうような日本の小さな居酒屋のたたずまいで、長いカウンターと小さなテーブルが3つ置いてあった。
また、細長い店内のいたるところに日本各地の観光地の土産物と思われる民芸調の雑貨類が所狭しと、並べられていた。
健一は、気がつけば気軽に通えるこのお店に、滞在中は毎日のように通うようになっていた。
健一がそろそろ日本への帰国が近づいてきたある日の夜のこと。
いつものように健一が源次で“とんかつ定食”を食べていると、頭に鉢巻をしめ、
口とあごに髭を蓄えた、熊のような風貌である店主が、やや甲高い声をかけてきた。
「やあ、いつもの青年よ!そろそろ帰国するそうだな、バンコクは十分楽しんだかね」
「ええ、市内の観光名所はもとより、昨日は日帰りでアユタヤ遺跡も見てきました。
タイ語はさすがにわかりませんでしたが、あの文字自体が新鮮で楽しかったです」
既に常連気取りの健一。
「そうかい。ところで毎日暑くて大変だったんじゃなかったの?」「そうですね、僕は8月15日生まれのためか、元々夏の暑さには強いんですよ。
と言いながらもさすがにバテ気味ですね。でも、もうすぐ日本に戻るので大丈夫ですよ」
「そうかあ!で、青年よ、いつもここに来てくれているので、俺としちゃあ非常にうれしいんだけど、君は、タイ料理は食べたのかい?」
店主の意外な問いかけに、健一は少し不思議な表情を浮かべながら、首を横に振った。
「えー?せっかくタイに来ているのに本場の料理を食べないと」こういう店主に、
健一は、「実は僕、タイ料理は食べようと思わないんですよ。だってあれ辛いでしょう」と
小声でつぶやく。
すると、急に店主の語調が強くなり、
「何言ってるの?青年!確かにタイ料理は辛いけどさ、辛くない料理もあるし、辛いだけじゃないよ、うま味や香りもいいよ。
だまされたと思って一度体験してみるのがいい。何ならお勧めのお店を紹介するよ!」
健一は、源次の店主にそこまでいわれると、さすがに今まで避けてきたタイ料理を一度食べようという気になった。
「それでは、せっかくなので、ぜひ紹介してください。最後に記念に食べてみようと思います」と、店主にタイ料理店を紹介してもらうことになった。
翌日健一は、”居酒屋 源次”の店主から紹介してもらったあるタイ料理店を目指していた。
そこは、タイの中でも特に日本人が多く居住する“スクンビット”と言う通り沿いのエリアで、ところどころに日本料理店をはじめ、“日本語表記”のタイマッサージのお店などが並んでいた。
そして、車の通行量が多いメイン通りから、“ ソイ”と呼ばれる路地を進んでいくと、その店が現れた。
「ここだな」健一は小さくつぶやいた後、店の中へ入った。
伝統的なタイ様式の建物の造りで出来ている店内は、観光地などにある、旅行者向けの土産物屋で置いていそうな調度品や南国の大きな植木などがところ狭く並んでいて、不思議な空間を醸し出していた。
通された席は、中庭のようなところにテラス席がある一角で、目の前には大きなステージがあった。
そこではちょうど、数名の奏者がタイの民族楽器を使った演奏の最中であった。
ここは、日本人駐在員のエリアらしく、メニューも日本語で書かれたものがあり、客層も日本人駐在員とその家族の姿が目立っていた。
健一は、早速メニューを覗いてみる。
タイのカレー、パパイヤのサラダ、タイの焼きそばなどいろいろ魅力的なものが揃っていたが、健一は軽く見ただけですぐに店員にある料理を指差して注文した。




