貝を探しに遠い場所へ
電車が動き出す。速度が上がり、隣の車両が輪郭が滲んでいく。走り去ったその後の窓に見えるのは止まったままのホーム。乗っている電車が本当の身震いをして初めて、さっき走り始めたのは隣の電車だと気づいた。今の今まで確かに感じていたはずの振動が本物の揺れに上書きされていく。
「あ、そっちやんな」
父ちゃんはそう言って流れ出した車窓に目を凝らした。三ノ宮駅は店も電車の発着も人も多い。ビルもホテルも地下もある。ICカードはおろか自動改札すら導入されていない地元の駅とは、同じJRの駅でもまるっきり違う建物だ。
父ちゃんは交差点を歩く人を見つめながらぽつりと、
「人が多かね」
壁に沿ってまっすぐ伸びたシートに腰掛けている父ちゃんは、子供みたいに顔を横に向けて高架下の街並みを見つめている。元々線が細くて無駄な脂肪なんかこれっぽっちもついていないというような体型だったけど、ガンになって二年も入退院を繰り返したら必要な肉までこけてしまった。一時期はチューブに繋がれて飯も食べれない、歩くことはおろか寝返りもろくにうてない時もあって、その頃の父ちゃんは本当に骨と皮だけだった。頭蓋骨の形がありありと浮き出た顔は浮世絵の老人みたいで、目だけが爛々と光って動けない四肢に変わりぎょろぎょろとしていた。母ちゃんも姉ちゃんもみんなもう長くはないと思っていたらしいけど、年末年始とゴールデンウィーク、それに本当に父ちゃんの容態が危なくなった時だけしか帰っていなかった俺はそんな弱った父ちゃんを見て、意外と元気そうじゃんと思っていた。
結果的に俺の楽天的な考えが現実になり、今では九州の片田舎から神戸へ遊びに来るくらいには回復している。失った肉はまだ取り戻せていないようだけど、生きている。
「大阪はもっと多いんよ」
家を出て五年になる。散々いじられた九州の訛りも近頃は全然出なくなったが、家族と話す時は不思議と戻ってしまう。その事を「屁みたいなもんだ」と、ついこの間父ちゃんに言った。人前じゃ我慢するけど家族の前じゃ自然と出るやろ? そう言うと父ちゃんは、かっかっかっ、とぎこちない笑い声をあげて「なん言いよっとか」と口にした。
「大阪駅はここよりもよう大きかよ。あっちもこっちも人ばっかやかい。盆祭りくらいの人が、毎日歩いとる」
「ヒロもよう行くんか?」
「いや、あんま。買い物も飯食いも大概近場で事足りるかい。やから、誰かと遊びいく時くらいか」
「そうか」
だけどよくよく考えたら、父ちゃんの前で屁をしたことは多分ない。狭い家の中で、父ちゃんは一人だけ別の部屋で飯を食べていた。リビングで母ちゃんと姉ちゃんと俺がテレビを見ながらご飯を食べている間、父ちゃんは一人別の部屋でラジオを聴きながら夕食を口にしていた。父ちゃんが家族の誰かと一緒にいるのは、俺が盤と駒を持って「将棋しよう」と言った時と、母ちゃんが金の話をしているぐらいだった。物心ついた時から我が家は貧乏で、父と母は膝をつき合わせれば金の話をしていた。
俺が覚えている父ちゃんの仕事はトラック運転手で、それ以外はよく覚えていない。覚えたところですぐに変わってしまうから、いつの頃からか覚える事自体をやめてしまった。俺が小六の時に離婚して家を出て行ってしまったから、その後にどんな仕事をしていたかは本当にわからない。
もっとも、家を出たと言っても父ちゃんの実家は歩いてすぐだから、会おうと思えばいつでも会えた。だけど中学に上がったら友達と遊ぶ方が楽しくて、何かの理由が無い限りは父の実家に立ち寄ることもなくなった。それは父も同じで、月に一回、養育費を母ちゃんに手渡しに来る時以外は、ろくに顔を見ることも無くなった。
昔から付き合いのある保険屋のおじさんが、父ちゃんがガンになって保険金の話をしに来た時の言葉を今でも思い出す。
「おいは離婚して良かったと思っちょるんよ。あいつも悪いんやけどな、こん家じゃ、あいつの場所はトイレと廊下しか無かから」
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父ちゃんが神戸に遊びに行きたいらしいという事は、母ちゃんから聞いた。
父ちゃんが癌で入院中にばあちゃんが死んでしまって、じいちゃんはそもそも俺が家を出る前に死んでいて、後はもう父ちゃんしか実家に残っていなかった。癌が治ってからはまた一緒に暮らすのかと思っていたけど当人たちに……特に母ちゃんにその気はないらしい。それでも愛情はともかく同情はあるのかガンになった時も、治療の間も、退院した後も何かと父の事は気にかけていた。
そんな母から電話をもらったのは一ヶ月前で、いわく父ちゃんが俺のところに行ってみたいと言っていたらしい。退院して一年が経ち、経過は順調で転移は幸いなことにない。何度目かの検査でそう医者から告げらた時、父ちゃんは「遠出はできるとですか?」と訊ねたらしい。どこに、と医者が聞き返すと「息子の所に」と。
「意外やなぁ」
と俺は電話口で言った。
「意外やろ」
と母ちゃんも同じ口調でそう言った。父ちゃんは九州から出た事がなく、人生の大半をあの田舎で過ごしていた。直接本人の口から聞いたわけではないが多分旅行とか、自分の知らない場所に行くのは苦手なはずで、新しくできたスーパーにだってろくに足を運びはせず地元の知り合いがやっている商店にばかり行っていた。
「人間死にかけるとちっとは変わるもんやな」
そうやな、と俺は母ちゃんに同意した。
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そんな父ちゃんだからそもそも公共の乗り物に乗れるかすらも怪しかった。俺が覚えている限り新幹線や飛行機はもちろん、バスにすら乗っている所を見たことがない。唯一乗れる物といえば昔からの愛車である古いスカイラインーーいまだにハンドルを回して窓を開けるような骨董品ぐらいだから、むしろ自分で運転してくるのではないか、でもさすがに一旦死にかけた人間にそんな事をさせる訳にはいかないだろう、だったら俺が迎えにいくしかないのか、でもそんな時間も交通費ももったいないし、と言う事を延々母ちゃんと話していた。
俺たちの不安をよそに父ちゃんはきちんと新幹線に乗って神戸までやってきた。それが三日前の水曜日。仕事を無理やり定時に切り上げて新神戸駅に迎えに行くと、父ちゃんは待合スペースのベンチにポツンと、まるでこの駅ができる前からそこに存在していたかのように座っていた。
そこから地下鉄に乗り、俺が住むワンルームの壁の薄いアパートに着くと、
「タバコはよかと?」
父ちゃんくらいの年齢の人が大抵そうであるように、父ちゃんもまたヘビースモーカーだった。実家でも、毎晩必ず玄関先で何分も煙草を吸っていた。家の引き戸はすりガラスで、居間に父がいない時は必ずモザイクがかったガラス戸に父の後ろ姿が映っていた。
「医者はよか言うとったん?」
そう訊ねたら、くしゃりと顔中に皺を作って困ったように笑った。昔から、返事に詰まると何か口にする前に必ずその笑顔を作っていた。
「んにゃ、吸いすぎはあかんて」
「じゃ、あかんやろ」
「やんなぁ」
と困ったように後ろ頭をかく。ワイシャツの胸ポケットにはもう封が切られたたばこがあって、きっと俺がいない時はそれなりに吸っているだろうと思った。その姿がいたたまれなく、
「吸いすぎなけりゃ、よかのやろ?」
父ちゃんは肯定とも否定ともつかないうなり声を喉の奥で鳴らした。それは、俺が仕事でミスをして上司から詰められている時に鳴らす喉の音と、とても似ていた。
「よか、よか。中はあかんけど、そこで吸いや」
そう言ってベランダを開ける。ぶら下げていた洗濯物を中に入れると、父ちゃんは「ありがとな」と言って俺のサンダルを履いて外に出た。十月の夜気は少し肌寒かったけど、ガラス越しじゃない父ちゃんの背中を見ていたくてそのままにしていた。だけど父ちゃんはLARKに火をつけると後ろ手でガラス戸を閉めてしまう。
すりガラスの入っていない、一面透明なガラス戸の向こう側で、父ちゃんは昔より幾分も小さくなったように思える背中をピンと伸ばしている。吐き出した白煙は夜に消えていった。
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わざわざ来たのだから何かやりたいことがあるのかと思ったがそうではないらしく、父ちゃんは家にいる時と同じようなことをしていた。家事はしなかったし、代わりに部屋を汚すこともなかった。昨日まで暮らしていた部屋に、焼酎とラジオと父ちゃんが増えた、ただそれだけだった。
俺が仕事から帰ると、父ちゃんは関西の焼酎を飲みながら、ポータブルラジオから流れるパーソナリティの関西弁に耳を済ましていた。
「いつもこげん遅いと?」
俺はスーパーの半額弁当をレンジに入れて『あたためる』ボタンを押す。
「今は忙しかいね。テレビ作っとるんよ。ケツだけは決まっとるかい、大変や」
レンジの駆動音と重なって父ちゃんの感嘆の声が聞こえた。
「ムズカシか事やっちょるんやな」
そう言われて俺は思わず苦笑する。大手総合電器メーカー、の下請けの下請けである我が社での仕事は言葉で言うほど難しいことは無い。そのくせ期限と上からの要求の板挟みで、くだらない書類の往復ばかりに時間がかかる。
「んにゃ。つまらん部品の設計ばっかや。それでも仕事やかい、やらなあかん」
「それでもすごか。俺はあかんやったから」
あかん、とはきっと仕事が長続きしなかった、ということだろう。俺はふと気になり、
「父ちゃんは仕事好きやった?」
父ちゃんは間髪入れず、
「いんや、よう好かん」
と言った。直後、照臭そうに笑ってグラスに入った焼酎を一気にあおる。
すでに赤らんだ顔を見て、俺は昔の父ちゃんを思い出した。母ちゃんとお金の話をする父ちゃんの声は初めは大きく、だけど母ちゃんが捲し立てると徐々に声を小さくして小刻みに頷いてばかりいた。あまり口の上手い人ではなかったのだ。家を出ていくことも母ちゃんから聞いたし、月に一度養育費を渡しに来る時も、親子だと言うのに挨拶ばかりでろくに会話もなかった。
いつだったか、母ちゃんが父ちゃんの事を『真面目な人』と称していたのを覚えている。悪い人ではないし仕事も真面目にやる、だからそれなりに昇進もしたけどそこにかかる責任に耐えれる人ではなかった、ヒロはああなったらあかんよ。半ば聞き流していたその言葉の意味がーー父がどう言う人間だったかが、働くようになった今では良くわかる。そして実際に仕事の責任が肩にかかるたびに、母ちゃんには申し訳ないが、俺は父ちゃんの息子なんだと強く感じている。
「やろな」
と俺は笑いながら言う。父ちゃんはグラスに新しい焼酎を注ぐ。注ぐたびに泡立つ気泡を俺も父ちゃんもじっと見つめていた。
「あんま無理せんと、体壊す前に仕事やめなあかんで。ほんと、死んだら元も子も無かから」
明日の天気のことでも話しているような口調だった。俺は頬に笑みを引っ張り、
「死ぬ前やった人が言うと、説得力がちゃうね」
父ちゃんはクックックッと喉をくぐもらせる。
「そうや。おいも、本当なら今ごろ死んどるはずやったんや。でも生きとる。やかい、ヒロもあかんで。死んだらあかんで」
俺は「酔うとるな」と言って笑った。「酔うとる、酔えとるで」と言いながら父ちゃんはまたグラスを飲み干す。そして俺を見て「ヒロも飲むか?」と言った。俺は首を横に振り、でも少しだけ考えて「ちょっとだけ」と言う。父ちゃんは、それこそ嬉しそうに笑いながら立ち上がって「コップはどこかね」と言った。ふらふらで今にも倒れそうだった。レンジが止まり甲高い電子音が鳴り響く。
「よかよか、持っていくかい座っとき」
父ちゃんは立ち止まり、呂律の回らない口でなにか言いながらまた座った。俺は備え付けの棚からマグカップを出して父ちゃんに渡す。レンジを開けて、火照ったのり弁と唐揚げ弁当を取り出し、ほとんど投げ出すようにテーブル置いた。
父ちゃんはマグカップの縁に一升瓶の口を置いてゆっくり注ぎ始めた。「そんないらんで。もうよか、そこで」と止めたとこからだいぶオーバーして、一升瓶を立てる。
カップを持ち「おつかれ」と言って父ちゃんのグラスにぶつける。お酒自体飲むのはひさしぶりだったし、焼酎はそれこそ最後に飲んだのは同窓会の席以来だ。独特の臭みは少し苦手で、今飲んでもやっぱりで好きになれなかった。それでも父ちゃんがあまりに嬉しそうな顔をしているから、ゆっくり、ちびちびと傾けてお腹に落としていった。
そんな俺を見ながら、
「初めて飲むな」
「焼酎?」
「んにゃ、お前と飲むのがよ」
あぁ、と俺はうなる。顔が熱く、鏡を見なくても真っ赤になっているのが分かる。少しずつぼんやりしていく感覚の中で、弁当のフィルムをはがす。
父ちゃんは小さく、
「良かね」
と呟いた。
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金曜日、会社の先輩から焼酎のおいしい店を聞いた。いわゆるキタと呼ばれる、JR大阪駅から歩いて十分程の繁華街に、日本中の焼酎を取りそろえた店があるらしい。
金曜は少し早く帰れたけど、家に父ちゃんの姿は無かった。いつも首から下げている二つ折りのガラケーと、『散歩に行ってくる』と書かれた裏返しのレシートが机に置かれていた。
俺は迷った挙句、レシートの余白に『十時には戻る』と書いて家を出た。探す当てなんてなかったから、父ちゃんが行きそうな場所を思いつくだけ立ち寄った。小さな公園や小学校のグラウンド、シャッターを下ろした商店街、仄かな灯りを灯して人を集める小さな居酒屋、昔の地震で倒壊してそっくりそのまま建てられた高速道路。
当てずっぽうの場所にはどこにもいなかった。あるいは立ち去った後なのかもしれないし、もしくはこれから立ち寄る場所なのかもしれない。父ちゃんが生まれ育った田舎とはかけ離れたこの街に、父ちゃんの痕跡はどこにも無かった。空気の汚れと街の明かりで星が消えた夜空に、月だけが輝いている。
心配しているわけではないはずなのに、不安が胸の中にわだかまっていた。その不安は父の身に何かが起こるかも、という類のものではなく、むしろ父と一緒に過ごさなかった過去から来る不安に思えた。あの日にきちんと話をしていたら、一緒に食事をする当たり前の家族だったら、父ちゃんのいるところなんてすぐわかったのかもしれないのに。
夜道は記憶と現実の間を曖昧にして、ふとすれば昔の中をさ迷い歩いているような感覚に陥ってしまう。一歩進むたびに視線が低くなり、世界が広大で不変だと信じ切っていた子供の頃に戻っていているようだった。この街に暮らすようになって初めて見たはずの風景に、どうしようもないほどの懐かしさを感じる。公園のばね馬や手狭なグラウンド、小さなカウンターに身を寄せ合って座るおじさんとすっかり元通りになった高速道路。どれもこれも俺の胸の中にある光景が網膜に映り込んでいるような気がした。
ふいに風が吹いて潮の匂いがした。俺は立ち止まってその方向を見る。夜でも往来が途絶えない国道に交差する、少しだけ車線が狭くなったその道の先には海があった。俺の地元に、父が生まれ育ってまた帰るあの田舎に海はない。どこまでも広がる広大な海は、テレビの向こう側にある特別な景色だった。
俺は海に足を向けた。近づくほどに人も車も少なくなり、代わりに爽やかな湿り気を帯びる風が体を流れる。防波堤を上り、街灯の無い砂浜に目を向ける。海と砂の境目が黒く塗り潰された闇の中に小さく、赤い光が見えたような気がした。俺は砂浜を歩く。跳ね上げた砂が靴の中に入った。夜よりも濃い影がポツンと立っている。ちょうど新しいのを咥えたところなのか、口元にボっとライターの炎が灯る。
「ポイ捨てはあかんよ」
父ちゃんはゆっくりと振り向いて、少しだけ固まった後いつもの苦笑いを浮かべた。
「ようわかったな」
俺は少しだけ黙り込んで「親子やかい」と答えた。
「んで、何しよったと?」
「何って、散歩や、散歩」
「どこか良かとこはあった?」
「んにゃ、どこも」
父ちゃんはタバコを吸って、吐き出し、「いろんなもんがあっけど、行きたいとこはなか」と首を振りながら呟いた。
「ーー明日の夜は飲みいこか」
俺はそう言った。遥か彼方で空と交わる真っ黒な海を、父ちゃんはひたすらに見つめている。
「会社の人に聞いたんよ。焼酎が美味か店があるんやって。梅田に。日本中の焼酎があるんよ、父ちゃん好きやろ?」
「良かね。なんでもあっとやな、こっちには」
「やね」
「その、梅田ってとこは遠いんか?」
「梅田は大阪や。こっから一時間もかからんくらいやと思う」
「一時間もか?」
そうや、と言おうとしてふと口を噤む。一時間で行ける距離は、この世界の全てに等しい。父ちゃんの、そして俺の生活のほとんどが半径一時間に収まっていた。生まれた病院も、父ちゃんの実家も、昔勤めていたいくつもの会社も、祖父母の葬式を上げた式場や火葬場も、癌で入院した病院も、何もかも。
いつの頃からか、俺はその事をひどく恐ろしく感じていた。閉じられた世界が異常な事に思えた。それが嫌で家を出て、人口が一桁も二桁も違う街に来た。それまでなかった新しい世界が確かにそこにはあって、そしてその中にまた、新しい半径一時間を作って生きている。知らず知らずその中に、昔見た懐かしい景色を探している。
「たった一時間や。たった」
父ちゃんはしばらく何も言わなかった。海のずっと遠くには造船所の明かりが見えた。時折海沿いの道路を車やスクーターが走り去る。海が砂浜の端を舐めては平らにし、耳にざわつく水音を絶え間なく残している。
「昔、潮干狩り行ったな」
唐突に父ちゃんが言った。俺に語りかけていると言うより、独り言を言っているようだった。波の音も相まって、父ちゃんの声がノイズ混じりのラジオみたいに聞こえる。
「母ちゃんが仕事で、チカも友達のとこ遊び行ったから、二人だけで。まだヒロが小学校上がる前やったか。道は随分車が多くて、着いたら着いたで浜は人でいっぱいやった。ヒロはアサリよりも海で遊びたがって、波打ち際を走り回っとったな。そういや、あん時はオイが弁当を忘れたんやったか。近くの店はどこもいっぱいで、仕方なくスーパーでおにぎりを買って、車ん中で食べたな。午後はお互いずーっと砂浜掘っとって、バケツいっぱいにアサリが採れたな。あれは食い切るんに随分とかかった」
潮干狩りの事は微かに覚えている。だけど今父ちゃんが語った内容と俺の記憶は所々違った。俺は来た時からずっとアサリを掘るのに夢中で、父ちゃんに声をかけられるまでひたすらプラスチックのスコップで砂浜を掘り起こしていたはずだ。お昼もおにぎりではなく、海の家に長い時間並んでラーメンを食べた。でもそのどれれもが本物である自信はなかった。いつかの記憶とごっちゃになっているか、もしくはドラマで見たシチュエーションを自分の物だと勘違いしているのか。父もまた、そうなのかもしれない。
「そうやな、そうやった」
海風は心地よさを通り越して少し冷たくもあった。
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父ちゃんは初めて降りる大阪駅にどこか緊張しているようだった。隣ではなく後ろに、決して俺の背中を見失わないようにと視線を尖らせていた。JRから阪急電鉄への連絡通路を通り、ヘップと高架の間の細長い道を抜ける。居酒屋『久遠』はキャッチが蔓延るアーケード街の中にあって、暖簾を潜り、連鎖するいらっしゃいませを抜けてカウンター席に座った。
「人が多かね」
ようやく一息ついたと言った感じで、父ちゃんが呟いた。
「言うたやろ? 盆祭りくらいの人がおるって」
「こげん多かとは思わんかった。みんなどこ行っとるんや」
「俺らみたいに飲みに行ったり、遊び行ったり、仕事に行ったり」
「土日に仕事か」
「そげん人もおるやろ」
お通しのもやしが運ばれてくる。父ちゃんは焼酎の銘柄が並んだメニュー表を眺めた後、結局いつも飲んでいる地元の焼酎を頼んだ。せっかくだから他のを頼みやん、と言えば苦笑いをして、後で頼む、と言う。そういう俺もメニューの端に少しだけ並んだカクテルからカシスオレンジを選んで、父ちゃんからジュースを飲むのか、と笑われた。
「店で酒を飲むのも、初めてやな」
グラスをぶつけて一口目を飲み、父ちゃんがそう呟いた。来た時に空いていた席は、飲み物を注文するこの短い時間にみるみる埋まっていく。テレビでは野球中継が流れていた。どこかしこの席から一日の疲れをねぎらう声や笑い声が聞こえてくる。
「飲むのどころか」
家でもよう一緒に飲み食いせんかったやろ、という言葉を飲み込む。父ちゃんは途中で言葉を止めた俺をチラリと見て、またなんでもなかったかのようにメニューに目を落とす。ラミネート加工されたメニューには文字だけがぎっしりと埋まっていて、だけどどれが父ちゃんの好物なのか、さっぱりわからなかった。
「なんでも良かよ、食いたいもん食い」
「ヒロはどれを食うとね?」
俺は「そやねぇ」と呟きメニューをじっと見つめる。焼酎とカシスオレンジが来て、焼き鳥と串カツの盛り合わせと土手焼き、揚げたこ焼きに冷奴を頼んだ。乾杯し、お互い一口でグラスを半分空にする。
次々に注文が運ばれる中、ぽつりぽつりと話をした。主に仕事のことでたまにこっちで出来た友達のこと。父ちゃんは相槌ばかりで、時折口元を緩ませながら話を聞いていた。二杯目、三杯目と進み、食事も取り敢えずのものからお互い気になったものを一品一品頼んでいると、
「良い人は見つかったね」
気づいたら父ちゃんの顔も赤くなっていた。俺も手まで真っ赤だ。外から見える血の巡り方で親子の縁を感じるのは中々面白かった。
「いや」
と俺は首を横に振って、
「よう、出会いも無かから」
「ぼちぼちと見つけな」
「そう言う父ちゃんは母ちゃんとどこで会ったん?」
「おいか?」
父ちゃんは背もたれに体を預けてカウンターの向こうがを見つめた。法被を着たスタッフが声を上げて忙しく歩き回っている。虚ろな目をしていた父ちゃんは唐突に、ふっと吹き出した。
「忘れた、忘れてしまった」
「嘘や。恥ずかしくなったんやろ」
「ほんとに忘れたんやが。もう、勘弁してくれ」
心なしか頬の赤みも増した気がする。昔のことを恥ずかしがるその気持ちが、俺には手に取るように分かった。
「そんなんでよう母ちゃんと結婚できたな」
「母ちゃんは男運が無かからね。あかんのに引っかかったんや」
「父ちゃんの女運が強かったんやない?」
「そげんことなか」
「もう一緒には暮さんとね」
父ちゃんはそれには答えず、笑いながらグラスを傾けた。俺との間に置かれた土手焼きに箸をつけ、ゆっくり慎重に口元へと運んでいく。そうやって見ているうちに、俺はずっと昔、まだ家族全員で食卓を囲んでいた時のことを思い出した。最初から、父ちゃんは一人で食事をとっていたわけではなかった。俺が物心つくかつかないかという時にはまだ、当たり前に一つのテーブルを囲んで家族一緒に食事をとっていた。だけどその時の部屋にテレビはなく、ある日俺はどうしてもアニメが見たくて、テレビがある部屋に茶碗とおかずを持って行って晩御飯を食べていた。いつしかその「たまに」は「毎日」になり、いつしか姉ちゃんも一緒に見るようになり、母ちゃんも来て、そして父ちゃんだけはその場から動かなかった。
「このままでええ」
ぽつりと父ちゃんは呟いた。
「母ちゃんもその気はないみたいやし、おいも別に不便しとらん。色々あったけど、今が一番楽しいんよ。死んどったらこげん楽しかことはよう知らんままやった。ヒロと美味い酒も飲めるし、今がええんよ」
そう言う父ちゃんの顔はどこか寂し気で、俺はたまらなく切なくなった。なぜだかその顔が、呼吸器をつけて眠っている一年前の父ちゃんと重なって見えた。いつか来る本当のお別れの、最後の表情がそこに見えた気がした。
「また来たらええよ」
俺はそう言った。出来るだけ自然に笑いながら。
「いつでも来たらええ。一度来たんなら二度も三度もおんなじや。またこっち来たら酒でも飲もう」
父ちゃんは「そうやな」と言って笑った。もう空になったグラスを傾けて、ありもしない最後の一滴を飲もうとしていた。
:::
大阪駅の混雑は来た時よりも和らいでいた。混んでる新快速を避けて普通列車に乗り込み、空いている椅子に二人並んで座る。窓の向こうには違う電車が停まっている。
父ちゃんは瞼は半分閉じていておぼろげな視線を窓に向けている。向かいの電車が見えるその窓に、視点をずらすと二人並んで座る俺と父ちゃんが見えた。半透明でも体が真っ赤になっている事がありありと分かった。体がふわついて、自分の電車が動いているのか止まっているのかが分からない。
父ちゃんは、ぽつりと、
「昔、潮干狩りに行ったな」
あぁ、と俺は呟く。自分の喉から出た声なのに、ずっと遠くから響いた音のように聞こえる。
「覚えとるか? まだヒロが小学生に上がる前やった。道が混んとって、人もぎょうさんおって、……チカもおったんやったか。ヒロは来た時からずっと貝を掘っとって、飯は、オイが母ちゃんが作ってくれた弁当を忘れて、それで、どうしたんやったか」
「おにぎりを買うたんやろ?」
「そうやったか。そうか、そうやな」
発車のベルが鳴り響く。圧縮空気の作動音に押されて扉が閉まる。
「家までどんくらいや」
「来た時よりかかるよ。ゆっくりと帰るから」
父ちゃんはゆっくりと目を閉じた。鼻からゆっくり息を吸って、吐き出している。俺は窓に映る半透明の二人をじっと見つめる。
「遠かとこに来たとやな」
窓の向こうの景色が流れ始めた。走り出す電車の振動を、確かに感じている。