喪失
「……離婚して下さい。今なら財産分与だけで済ましますから」
妻が思い詰めた顔で、そう言い放ったのは大型連休前のある日のリビングだった。
明日から妻の実家(と言うよりも姑の住まう場所)に泊まりがけで遊びに行く、そうした計画だったのだが。
「……な、何故だ」
酒も晩酌メインで浮気もせず、喫煙は喘息気味なので吸った事もない。
残業はあるが、会社での付き合いも抑えて早々に帰ってきていた。
それの何が不満だ……そう顔に出たのだろう。
妻は思いっきり眉を顰めて、それから溜息を吐いていた。
「……何度も何度も何度も言っていたはずよね。私の実母の話で申し訳ないけれど、付き合うに価しない人だと。いいえ付き合えば食い潰されると。そ・う・し・て・今現在食い潰され掛けていると」
なに。
カッとなって声を上げかけたら、妻の瞳が恐ろしく冷たかった。
「……あの人は悪い人じゃないけれど、駄目な人だわ。自分以外に甘えて、自分以外を見下している。お節介焼きに見えて、単なる説教好きよ――そこに深みはないもの」
だが、君は血の繋がった親子じゃないか。
今まで言ってきた通り、そう叫ぼうとした。
だがさらに深い溜息が、俺の言葉を防ぐ。
「……貴方が凄いセレブなら、その家族ごっこを続けても文句はないわ。でもね、私たちはごく平均的な、共働きのサラリーマンにすぎないの。一応は正社員で共働きな分、世帯収入はちょっとは多めだけれど、正直に言ってあの母を豪遊させる程の収入はないわ」
冷たい瞳でそう吐き捨てる妻。
でも。
だって。
「貴方の「俺にも血の繋がった親を作ってくれ」、そうした言葉に黙らせられたけれど、この半年間は地獄だったわ。何度も言ったはずよね、あの人は自分に甘く他人の生活なんて気にしないって。あればあるだけ食い潰す底なし沼だって」
「それを諭すでもなく与え続けるなんて。ねえ貴方の貯金はまだあるの? 夫婦の共同貯金には手を付けていない? 寄る辺のない私たちだから、子共はある程度貯金が出来てからって話だったけれど……」
でも。
でも
「もうね、沢山なのよ。あの母に関わるのも、あの母の無軌道な散財に付き合わされるのも。20代半ばも過ぎて、そろそろ子共を、なんて思っていたけれども。その為の貯金が無意味な、あの母の豪遊で消えるなんて嫌よ」
だけど、お義母さんは年金すらなくて……。
「……半年で、あの母に幾ら使ったと思っているの。世間には申し訳ないけれど、生活保護だって何だってあるわ……むしろ働きゃいいのよ。そもそもまだ50代だし年金がないのも当然でしょう」
そう何度も言われたが。
孝行したい時に親は無し、と言うではないか。
そう口を開こうとしたが、また溜息を吐かれた。
「……身の丈に合わない七桁もする毛皮のコートって必要? 週ごとの高級レストランの支払いをホイホイ払うのは孝行なの? 半年に一度は海外旅行に行きたいって戯言に頷くのって優しさ?」
「……いいえ。あの母が、自分の稼ぎで贅沢するのなら別に良いのよ。私が言う筋合いではないもの。でも貴方がしているのは、野良猫に餌をばらまいているにも似て酷いわ。貴方はカワイイカワイイで済むけれど、餌目当てに寄って来る猫の後始末をするご近所さんは堪ったモノではないわね」
凄く冷たい目をして妻は言う。
だが段々腹が立ってきた。
俺は幼少期に両親を亡くし、苦労に苦労を重ねて大学まで卒業したのだ。
彼女の言う通りセレブには遠いいが、30代半ばで奨学金は返し終えているし、家の頭金ぐらいは貯まっている。
ならば妻の母親に援助の一つもしても良いじゃないか。
「お前に親のいない俺の気持ちが分かるか。生きているだけお前の方がマシだ。だからお前の母親に援助しているのに、それを何だ」
そう俺はテーブルに拳を叩き続けながら、そう言った。
だが妻は怯えるでもなく、一層冷たい目で睨み付けてきた。
「……そう金科玉条のように言うのね。ならば私も言い返しましょうか」
そう据わった目で俺を睨む。
今までは、この言葉を俺が言えば、溜息を吐きながらも従ってくれた。
だが……これは。
「……良かったわね。親類縁者がいない上に両親兄弟が死に絶えていて。私のように家族に振り回されなくていいのだから」
その言葉を聞いた瞬間に、カッとなって立ち上がりかけて。
妻の瞳を見てしまった。
今まであった情のような物が削ぎ落ちた――無機質と言うのも虚しい、敵を見つめるような冷徹で冷酷な瞳を。
「……私は何度も言ったわよね。私にとって両親は敵だって。確執を知らないと、口を出してくる親類を憎んでいるって。父にされたことも、母に掛けられた迷惑も。そうして私を傷付け続けた兄のことも……ずっとずっと言い続けたわよね?」
そうだ、だから俺は……。
「だから自分と家族になろう、それがどんなに嬉しかったか。人生って捨てたものじゃない、そう思っていたわ」
冷たい瞳に冷たい言葉だ。だってもう過去のようにしか聞こえない。
「成績に問題ないのに、高校に行くのも出し渋っていたから、中学の時から自分でバイトしたわ。結局、高校には通えなくって。家を飛び出して必死で四年間切り詰めながら働いたわ。お金を貯め込んで専門学校に行って、漸く今の仕事に就けた。専門学校に通う間も大変だったけれど、やっと今の生活の土壌が出来た」
淡々と感情をこめずに妻が呟く。
「今時ね、父に「嫁に行くまで家事手伝いでいいだろう」なんて言われて、従わないと酷い目にあった。母は母で私が中学時代に高校に行く為に貯めたお金を、受験前に勝手に使って、バックを買っていたわ――「だって欲しかったのだもの」そう言われて、納得出来る訳もない。私が責めたら泣き叫んで母に優しくないと詰られていた。あの人は自分にだけ極甘だったから」
だけどだけど。
「ええ兄が憂さ晴らしにセクハラをしたのも、殴り蹴りつけてきたのも、貴方にしてみれば「生きているだけマシ」なわけね……ええ、そうでしょうとも。レイプされないだけマシだったのでしょう……咥えさせられたけれども。あのまま家にいたら、遠からずされていたでしょうけれども。父母に言ったら聞いてない振りをされたわよ……でも昔の事と割り切って付き合えばいいのでしょう、生きているから許し合えるのですものね」
妻の目は、まるで俺自身が彼女を踏みにじった家族と同じと断じているようだった。
俺はただ、ただ温かい家族が欲しかっただけだ。
なのに……。
「……そうした家族に接触しようと言うからどうするかと思えば、ただ胡麻を擂りお金をばらまくなんて。泥棒に追い銭って言葉は御存知? 教え諭すなり何なりしても呆れたろうけれど、ただ御機嫌取りをするなんてね。貴方の年収が10倍ならば好きにすれば良い。けれど半年で五百万円使うって、どういうおつもり?」
俺はただ頼られることが嬉しかっただけだ。
「……何度も頼んだわよね? 私の家族と関わらないでって。悪意がある方がまだマシな、無邪気な浪費家や、自分の欲求の捌け口にしかしない家族たちに関わって、このままでいられるつもりだったの?」
だけれど、せっかく出来た家族だったのだ。
だから、だから。
「……1人で自分を磨き上げ、1人で生きてきた……その男に焦がれたけれど、まさかね。いいえ、私の家族が、せめて援助して惜しくない人たちだったなら、分からなくはないけれども」
妻は、ああ妻は私を冷たく見据えていた、敵を見るかのように。
ただ俺は家族との溝を埋めようと……。
「貴方は、私がどんなに言っても自分の想いだけを押し通した。中学生の頃の私は何時もこう思っていたのに――「私が天涯孤独な孤児ならいいのに」。私にそこまで思わせた家族に媚を売って、ただただお金を注ぎ込んだのよ――別々に貯めていたとはいえ、家を建てたらそれぞれ理想の部屋にしようといって貯めていたお金でね……それ以前に、この半年の間は生活費も入れてなかったでしょう? 子供を作る為の貯金にも入れていない……私たちの将来もどうでも良かったのよね?」
でも。でも。
口を開こうとしたら、底冷えのするような目で睨まれる。だからないも言えなかった。
それに「~よりまし」は俺を気遣って、決して言っていない台詞だった……昔TVドラマを一緒に見ている時に、この種の言葉を登場人物がぶつけ合っていた時に妻は言ったのだ。
曰く「これは最終通告みたいなものよね。こんな言葉を言ったり言わせたりした時点で関係は終わるわよ。だって相手を全否定して自分の意見を押し通そうとしているのだから」だったか。
俺はそれを忘れて安易に何度も言ってしまっていた「俺よりはマシだ」と。だが彼女も言った時点で、もう終わりは確定的かと震えだした。
「……胃痛と頭痛が止まらないので、お医者さんに行ったのだけれども。精神科に行ってカウンセリングも受けて薬も飲んでるの。それに最近の貴方が怒鳴って引き摺って連れて行った様も録音している。この半年の散財で生活費を家に入れなかった記録も取ってある」
妻は本気だった。
この上なく本気で離婚しようとしている。
ならば妻の家族と縁を切れば。
「……既に家族と縁を切る以前の問題よ。もうね、貴方の事が好きじゃないの。貴方に会って4年、結婚して2年だけれど、好きだった貴方を嫌いになるのは、たった半年で済んだわ。私は自分の子供がずっと欲しかったけれど、貴方との子共は絶対に欲しくない」
そうして妻は懐から緑の紙と、弁護士の名刺を差し出した。
「……今なら残っている財産分与で済ますわ。使ったのは貴方名義の貯金だし。生活費云々は言わないであげる。性格の不一致で離婚で良いわよ。でも裁判になったら、徹底的にやるから。日記を付けておく習慣に感謝しているわ……だから言いたい事があるのならその弁護士におねがい。直接には連絡しないで」
そうして妻は家を出た。
妻の買った家具は消えて、俺が買った家具と、2人で買った家具が残されていた。
俺も伝手を頼って弁護士事務所に駆け込み、裁判所の調停にまで持ち込んで色々粘った。だが、家庭を維持する努力があさってだと、批難されてしまった。
それだけ妻の義理の家族たちは、金銭的にだらしなかった。
ましてや妻が隠していたならともかく、大抵の事は話してくれていた。
盗人に追い銭は言い得て妙と、ある程度冷静になった俺も思う。年収に届くほどのお金を半年で浪費しても、感謝すらされずに、追加を要求され断った時に詰られた時は目眩がした。
会社を辞めはしなかったが、彼等から逃げる為に思い出深いアパートから逃げなくてはならなかったのも苦痛だった。
調停で何度も顔を合わせたが、妻に復縁の意志が欠片もないために裁判に踏み切れず、結局は俺の有責に近い形で離婚が成立してしまった。
慰謝料は取られない代わりに、2人の名義の貯金は気持ち彼女の方が多く分けた。半年間入れていなかった生活費も考慮すれば足らないぐらいだが、自分名義の貯金の大半を貢いでいたので、引っ越し費用にはなって助かった。
それ以降妻とは会っていない。もとより彼女の専門学校時代のバイト先に客として通っただけの縁だ。
彼女の友人は俺の友人ではなくて、逆もまた然りだ。そうなれば妻との縁が切れれば共通の知人すらいない。俺も彼女もFacebookやTwitterは利用しておらず、Lineもメールも電話もブロックされていた。
妻は転勤も希望していたようで、離婚成立してからすぐに何処とも知れぬ場所に引っ越ししてしまった。
一回り年下の妻だと、保護者交じりになった気分で妻の実家を調べた。妻からだけ聞いたのではフェアではないと、なんで思っていたのか不明だ。
俺は妻の上司でも同僚でも親戚でもなくて、伴侶だった。単に折り合いが悪いだけでも、妻の意向をこそ気にするべきだった。
俺はあの家に請われ婿養子に入ったのではなくて、妻と結婚したのだから。
無断で連絡を取り、彼女の母に「家族」と呼ばれて舞い上がった――溝を俺が埋めれば感謝される、と。
俺が大切にしなければならない人の意志を蔑ろにしてまで得ようとした物は、家族と暮らす家と子供を作る為の貯金を食い潰し、妻に逃げられただけ……全て霧散して終わった。
恥ずかしくて友人たちにも愚痴れない、馬鹿な俺の失敗と喪失な顛末である。
今も出張で地方に行った時、どこにいるかも分からない彼女の姿を探してしまう。
寂しい自分を誤魔化すように、キョロキョロと。
だが最後に会った時の、煩わしさだけの目を思い出せば、偶然に見かけても声を掛ける勇気も出ないだろう。
結局、俺は何を欲していたのだろう……。