シェア・ボランティア
僕は老人ホームに何度か行ったことがある。例えば9歳の時、初めて広島に住んでいた祖父の老人ホームに行った。
母の故郷にあるその施設はその田舎町の風景で人目を引く外観をしており、無機質な白い壁のその建物は、緑の多い平和な町に何か不吉な風習を広める基地のように見えた。
今思えば、それは病院を連想する白塗りの建物への違和感と恐怖によるものだったのだろう。
端からお別れを言うつもりで、僕は祖父の老人ホームを訪ねていった。部屋に入ると祖母に促されるままベットの横へ行き、慇懃に祖父の手を握り、「おじいちゃんカフカだよ」と言って挨拶をしたのを覚えている。
周りを見ても母と僕以外にはそんなことをする親戚は居なかった。伯父も伯母も従兄妹も、僕の妹もみんな一様に視線をベットから、あるいは今自分が中に居る「ロージンホーム」からどこか別の場所へ逸らしていた。
彼らはこの後のことばかり考えているようだった。
特に子供たちはいつもそうだった。市内へ出て買い物に行く前に祖父のところに寄ると、大人たちは大体いつもドーナツや、お菓子を多めに買ってくれた。大人たちがいつもよりすこし寛容になるのだ。
だから、澄ました顔で視線を窓の方へ向けている従兄妹も、妹も、街に出てどんな楽しいことができるかということで頭がいっぱいだった。
子供は自分が生まれた瞬間から背負っているものについて驚くほど無知だ。
彼らは感覚と感覚的な記憶によってあらゆる選択をする。
子供とは人の内面に存在するものであり、体の大きさなどの外的要因によって子供と大人を区別することはできない。
子供であるということは自分を含むこの世界について無知であるということだと思う。僕たちは祖父がそこにいるから老人ホームに行っていた。
だけど、どうして祖父がそこにいなければならなかったのか、ということについては僕たち子供は誰も知らなかった。「どうして」と聞くこともなかった。
18歳のときに新しく出来たばかりの老人ホームを訪ねて、1日ボランティア活動をしたことがある。
その施設は特別養護老人ホームと言って、かなり重度の認知症を負った入居者が20人ほど住んでいた。
僕と同僚は窓拭きを頼まれたので、施設内の窓と言う窓を拭いて回った。
その施設にいた時間は8時間くらいだったと思う。
幼児言葉で「用を足したい」という主のことを何度も施設の職員に叫ぶおばあちゃんの声がずっと聞こえていた。
B5ほどの白い紙にずっと息を吹きかけているおじいちゃんを見ながら、外から窓を拭いていた。
僕たちは施設内にいるときもマスクを付けなかった。しかし施設の職員は皆一様にマスクを着用していた。
まるで食品加工をする人たちのようにも見えた。
僕たちはそこの施設長のような人(確信はないが、ダークブラウンのシックなスーツを着ていた)に迎えられて施設の趣旨と、構造について少し教わっていた。
彼が言うには「利用者様を第一に考えた施設」なのだそうだ。
しかし、その老人ホー ムはあまりにクリーンすぎるように思えた。
その建物で暮らす老人たちの無表情な顔には白い壁に反射した電灯の光が、白く硬くへばりついていた。仕事中、同僚の一人が「いずれ俺たちもここにくるんだよな」と独り言のようにつぶやいた。
「どうせ来るならこういう綺麗な施設がいいな」とも。僕は反射的に「俺は綺麗じゃなくてもいい」と答えていた。本当にそう思ったし、今でも僕はそう思う。
僕たちは平気で嘘をつく。同情心が強くて、乾いている。僕らなりのやり方で、助けを必要としている人々に手を差し伸べようとはするが、それはほとんどの場合救いの手ではない。
救いの手と言うには余りにドライで、寛容さを欠いているし、代償を求めすぎる。
それが手というものなのだろうと僕は納得する。僕は何度か鏡ごしに見たことがある。
自分自身のカサカサとした両の手を見て冷たく、薄気味悪くフッと笑うのを。