scene:捕虜*
scene:捕虜
交渉の余地はない。元より片言でしか意思の疎通が不可能だったからか、或いは≪○-|≫を同一視出来るか、否かの問題でもあるのだろうか。だが、国際法が言う所の捕虜以上の扱いで保護を受ける中、様々に思う所もあった。
昔、戦地に赴き、テロリストに捕まった戦場カメラマンの顛末を自己責任の一言で片付けようとした報道が思い出される。人道的な見地から救おうと奔走した政府だったが、政治的な立場から身代金の要求に応じる事は出来ず、結果的に人質を見殺しにしてしまった事件だ。
「大丈夫か?」
ふと耳に障るような唸り声で、そう尋ねられたらしい私は、どうやら思い悩む姿が随分と深刻そうに見えたようだ。声の方へ振り返ると、私がデミと呼ぶ、この国の民が心苦しそうな表情をぶら下げ、戸口の傍らに立っていた。手には、私の知らない鉱山植物から作ったと言う名産品のお茶がある。差し入れに来たのだろうか。ならば、要らぬ心配と誤解を与えてしまったようだ。
「いいえ、ごめんなさい。大丈夫です」
作り笑いを浮かべ、私は心配ないと≪デミ≫に返事した。
「***。(否定)、**少量***(推定)、心配***」
未だ理解の足りない≪○-|≫らの異国語に首を傾げると、デミは私に笑顔を向け、無言のままお茶を差し出した。
「ありがとう」
お茶を受け取った私は、決して熱くない適温のそれで唇を濡らすと、窓の向こうに広がる異世界に想いを馳せた。
安易な言葉ながら異世界と例える他ないここに私は迷い込んだ。まるで樹海で方向を失うように、或いは路地裏で迷子になるように何気なくと。実際は各地に出現した可視化特異点≪_『/≫へ足を踏み入れてしまった事が原因である。場所や渡航法に不思議、且つ超常現象的な部分はあるものの、知らずと国境を越えたようなものだ。
この異世界。≪;<#】≫は、≪#&$≫と≪○-|≫が戦っている。単純にどちらが正義と言えるものではない。主義、思想、文化など、何れも根本的に違うと言うだけだ。≪#&$≫は私達に近い思想と文化を持ち、宗教に依存した煩雑な主義を掲げており、一枚岩ではない所がある他方、≪○-|≫は、私達の知る言葉で表せば先住民や原住民に近いだろうか。文化的なレベルは≪#&$≫に比べるとやや低いものの、自然との調和に長けている。
戦争するに至った理由はもはや定かではない。国境となる大地の裂け目を隔て、百年以上も戦っているらしい。が、最近は専ら資源を巡る≪#&$≫の侵略に対して≪○-|≫が専守防衛に努めている状況となっている。勿論、これだけを聞けば如何にも≪#&$≫が侵略しようとしているように聞こえるが、三世代ほど前の戦争では、飢饉と伝染病により内政を悪くした≪○-|≫が、新天地……植民地を求めて、≪#&$≫の国へと侵攻した歴史もあり、どちらかが悪だった時代を繰り返しているだけだ。
「美味しい」
鉱山植物のお茶が私の胸を温める。実物は見た事ないものの、精緻な図画で見たそれは、結晶のような花びらを広げる綺麗な植物だった。名前の通り、産出される鉱物を栄養に育つ為、場所によって形態も異なってくる。私が飲んでいるものの元は、氷の結晶のような不思議な花を咲かせる代物だ。現物の粉末はやや刺激臭に近いものもあるが、加工済みのそれはアルコールなどに通じる芳醇なものへと変わり、私の気持ちをいつも落ち着かせる。いや、酩酊させているのかも知れなかった。
とは言え、まるで薬漬けにするように頻繁に出されるものでもなく、ひどく欲してしまうものでもない。デミに聞いたところによれば、もてなしの定番の一品と言う事だ。他にも食事などで一定のルールがあり、異文化故の戸惑いもあるが、概ね賓客に近い扱いを受けている為、生活に不便はないが、この戦闘の状況下では、何時、向こうに帰れるのかは分からないままだ。
「ナ、ヴォエ」
デミが不慣れな言語の発音に苦心しつつ、私を呼んだ。感情は豊かでも、表情筋が複雑な動きを見せない≪○-|≫の内面はなかなか読み取れない。尻尾や耳などの器官の動きから推測するのが精一杯だ。
この部屋はいわゆる教育ルームと言った装いをしている。私が賓客と同じような扱いを受けつつも、捕虜と呼ばれる事から脱し切れない理由がここにあった。私はこちら側である≪;<#】≫のルールをまるで知らない。何が誤解を生むのかも分からないし、言葉を知らない為、相互に理解する事さえ儘ならない状況である。だから外に出られず、とある屋敷の中に軟禁される形となっており、対外的には捕虜と理解されているようだ。
「こっちの生活には随分と慣れたようですね」
デミの後ろから顔を出したのは、ここへ派遣された外交官のシェンフー……≪;<#】≫では数少ない通訳者であり、私の教育者だ。
「いえ、まだ、全然」
≪○-|≫は私達の国民性のひとつでもある謙遜をよく理解している。向こう側の世界でさえ謙遜が理解されない事も多い為、意外と言葉さえ通じれば私達はお互いに親密になれるのではないかと期待する私は、ここ最近の勉強にも自ずと熱が入った。
「まぁ、こちらの生活に必要な最低限のルールと習慣が理解出来れば充分でしょ」
経典のような質素な装丁に金帛が捺されたテキストを前に、私は言った。
「私も早く外を自由に見て回りたいですよ」
≪○-|≫との間を取り持つ懸け橋になりたいとは、やや烏滸がましい考えかも知れないが、こちらに迷い込んだ以上、またお互いの衝突が絶えないこの状況の中、私にも何か出来る事をしたかった。
「では、復習しましょうか。先ず、私達が規範とする≪゜。+=≫について質問しますよ」
シェンフーは小鼻の上に乗せた眼鏡を直すと、≪゜。+=≫の主題でもある≪orecllon≫、≪onutte≫、≪sodavt≫、≪sertert≫などの様式について質問してきた。