第六回 天野八郎~男なら決して横にそれず、ただ前進あるのみ~
幕末は、乱世である。
長き泰平で鬱積した不満が、一気に噴出した未曾有の大混乱だ。
そうした乱世に於いて、起きる現象が一つある。
それが、身分秩序の崩壊。
幕末は、下級武士或いは士分にない者を多く国事に奔らせ、天下に名を示した。
長州の大村益次郎、伊藤博文。
土佐の中岡慎太郎、近藤長次郎。
新選組の近藤勇や土方歳三もそうであるし、幕臣にまでなった古屋佐久左衛門と高松凌雲もそうだ。
福岡藩も、早川勇という男を生んでいる。
また、諸隊に目を向けても、奇兵隊を代表に士分ではない者も多く戦った。
今日は、その中から一人の男を紹介したい。
いや、漢と呼ぶべきだろうから、以後そう記す。
その漢、天野八郎という。
八郎は、上野国甘楽郡磐戸村の名主大井田吉五郎忠恕の次男として生まれた。
名主のくせに諱を称し、武士ではないか!と思われるだろうが、父は武士ではない。
若き頃より剛毅な性格で、文武の修練に励み、特に剣は直心影流を学んだ。
恐らく、この漢は武士への憧れがあったのだろう、江戸町火消し与力の広浜喜之進の養子となり、晴れて士分を得るのだが、この養子組は僅か一年で破綻。すると、この漢は驚くべき一手にでる。
旗本・天野氏を自称したのだ。
勿論、嘘である。嘘であるが、罰せられていない。それどころか、将軍家直臣として徳川家茂の上洛に付き従ってさえいる。
そこに幕府権威の弱体化が判るのだが、この漢の糞度胸と腹芸は圧巻である。
この漢が歴史の表舞台に登場したのは、鳥羽伏見の戦後、彰義隊結成時からだった。
徹底抗戦派であった八郎は、渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄)が結成した彰義隊に参加。この漢は副頭取に就任するが、すぐに渋沢と内部対立が発生する。方針の違いというが、渋沢も八郎も癖の強い人物。単に「生理的に無理!」だったのかもしれない。全く、幕府の窮地に何をしているのだろうと思うと、やれやれである。
内ゲバの結果、渋沢が遁走。八郎が全権を掌握するが、程なくして上野戦争が始まるのだが、この経過については略す。
ただ一つ。
この漢は上野戦争で、剣林弾雨をかいくぐり孤軍奮闘した。
約四十の兵を連れて駆け、いざ突撃しようと後ろを振り返ったら誰もいなかったという話は有名で、それを「徳川氏の柔極まれるを知る」と振り返っている。
さて、八郎。
武運拙く新政府軍に敗れ、市中に潜んでいるところ、密告によって捕縛されてしまう。そして激しい拷問の末に獄死。享年三十八。
幕末では、大きな役割を為してはいない。
しかし、面白い漢である。そして、乱世だからこそ天野八郎という漢が世に出たのだろうと、つくづく思う。だからこそ、幕末は面白いとも。
なお、八郎は「男なら決して横にそれず、ただ前進あるのみ」と言って将棋の駒の香車を好んだという。
やはり、漢である。
天野八郎
天保2年(1831年)~明治元年11月8日(1868年12月21日)
幕府旗本。彰義隊を率いる。