第四回 世良修蔵~復讐するは我にあり~
可哀想な男。
メルヘンチックな僕は、その男を知った時に、まず抱いた感想がそれだった。
この男も、幕末という巨大な渦に呑み込まれ、抗う事が出来なかったのだと。
一方で、男をそう表現してしまう事で、気分を害する人もいる。彼は幕末史の中では、紛れもない悪役なのだ。
その男が悪役であり続ける事を遺憾に思う人は、(僕が知らないだけかもしれないが)おそらく少数派であろう。
つまり、男が悪役である事で、日本が丸く収まっていると解釈出来る。それは、大きな力による〔意向〕なのだと、思えるほどに。
今回は、悪役である事を宿命付けられた男について語りたいと思う。
これを読んで、
「でもない畜生野郎だ!」
「こいつが一番悪いんだ!」
「ただの屑!」
こう思う人がいるかもしれない。その気持ちを僕は否定しませんし、尊重します。
そうした側面がある事は、否めません。
「本当違うんだ!」
と、言う気もありませんので、どうかご容赦願いたい。
敢えて、〔可哀想な男〕と呼ぶ。
世良修蔵、その人を。
彼は戊辰戦役を扱う作品には、高い確率で登場する人物である。そして、それと同様に高い確率で、悪役である。
だが、彼の来歴は意外と知られていないので、それらを踏まえながら僕の私見を述べていこう。
天保六年、周防国大島郡椋野村生まれ。生家は〔中司〕の姓を名乗る庄屋だとされている。
※著者の妻は、本家を周防に持つ中司姓である。
彼には武張ったイメージがあるが、少年時代より学問に打ち込んだ、文化系男子。萩の明倫館、月性に学び、次いで安井息軒に師事。その下で塾頭にまでなった秀才である。
そんな彼を、本格的な国事に招いたのは、赤禰武人だった。赤禰の誘いで奇兵隊に入隊した世良は、持ち前の秀才ぶりを発揮して、書記そして軍監と出世。赤禰を巡る内訌で一時謹慎するが、すぐに復職。第二次長州征伐では大島口を担当。ここで松山藩を主体とする幕府軍に故郷・大島を略奪・蹂躙の上、占領されるという憂き目に遭うが、この怒りを力に変えたのか、当地で奮戦し見事幕府軍を撃破し、大島を解放している。
また鳥羽伏見の戦いでも活躍し、文化系だった彼は軍人としても、その優秀さを示していく。
※著者は、戦術家として幕末十指に入ると思っている。根拠は無いが、古屋佐久左衛門や朝倉尚武と戦えば面白いだろう。
そして、運命の奥羽鎮撫総督府下参謀に任命。僅かな人数で仙台藩に向かうのである。
通説では、世良は仙台で〔傍若無人〕な振る舞いをしたとされるが、知り合いの郷土史家(山口県出身)によれば、
「強硬な態度はしたが、傍若無人な態度をしたと示す史料は皆無だよ」
との、事。
その真偽はさて置き、強硬な態度をした事は確かなようだ。これが仙台藩士の怒りを蓄積させ、とうとう〔奥羽皆敵〕の密書で爆発する。
彼は軍人としては優秀であっても、交渉人としては未熟であったのだ。今思えば、仙台藩との交渉は曖昧な返事というグレー決着でもOKだったのかもしれないと僕は思う。しかし、彼には無理だった。復讐心故か、生来の生真面目さ故か、会津征討を愚直に要求し、その結果が慶応四年閏四月二十日に訪れる。
福島城下の金沢屋(遊郭・妓楼とよく言われるがが、実際には旅籠)に就寝中、瀬上主膳、姉歯武之進、鈴木六太郎、浅草屋宇一郎ら十余名に急襲され、二階から飛び降りて逃げようとするが捕縛。阿武隈川河原で斬首された。
彼の死を伝え聞いた白石会議の面々は、
「満座人皆万歳ヲ唱エ、悪逆天誅愉快々々ノ声一斉ニ不止」
と、喜んだそうだ。
勉強に励んだ少年時代。
奇兵隊に入り国事に奔走。
そして、発せられた長州征伐。
故郷に迫る幕府軍。
援軍に駆け付けた世良が目にしたのは、幕府軍に略奪・蹂躙された故郷の姿だった。
その惨状が、彼を復讐の鬼に変化させたのではないかと、僕は睨んでいる。彼にとって、戊辰戦争は復讐戦なのだ。
だが、倒すべき幕府は早々に消滅してしまう。となれば、その肩を持つ奥羽列藩を仇と見定め、〔奥羽皆敵〕と言いたくなる気持ちは判らなくもない。
その世良は、今でも悪役である。〔花燃ゆ〕はどうなるか判りませんが、〔八重の桜〕では強烈な悪役。俳優の小沢仁志さんには申し訳ないが、少年期はインテリだったという経歴を思わせない、知力0という感じだ。
このように、世良を悪逆非道に描けるのは、苦情を言いったり、学校でいじめられる直系の子孫が死に絶えているからであろうというのは、僕の考え過ぎだろうか。
ただ彼を極悪人に描けば、恨みは新政府ではなく世良にも向いて、丸く収まる。彼は新政府からも現代からも、憎悪の対象としてスケープゴートにされている、と僕は思えてならない。
最後に、彼が死の数日前に友人に贈った歌を紹介したい。
「一筋におもいこんだる国のため、我が身はたとへみやぎの名にうもれて死すとも、こころはよしや名取川」
彼は、〔覚悟〕をしていたのだ。
世良修蔵
天保6年7月14日(1835年8月8日)~ 慶応4年閏4月20日(1868年6月10日)
長州藩士。奇兵隊を率いて活躍後、奥羽鎮撫総督府下参謀として仙台藩との交渉を担当した。