第二回 会沢正志斎~水府の大先生が残した思想という血潮~
何故、この男の名は世に知られないのか。
幕末には果たした役割、与えた影響に対して、知られていない人物が多すぎる。
会沢正志斎。
この男も、その一人に数えられる。まずは一通り彼の来歴に触れよう。
正志斎は、水戸藩士・会沢恭敬の長男として、水戸城下の下谷で生まれた。通称は恒蔵。代々久慈郡諸沢村の百姓であったが、祖父の代に郷方になり、父の代で士分になった。
十歳で藤田幽谷に師事し実学を学んだ正志斎は、順調に学者武士として出世していき、尊王攘夷論について体系的にまとめた〔新論〕を発表。これは内容が過激すぎるという理由で発禁になったが、これで彼は尊攘派としてデビューする事になる。
幽谷が死ぬと彰考館総裁代役に就任。次いで、徳川斉昭の擁立に藤田東湖や山野辺義観と共に奔走。無断で江戸に出た事で処罰されるが、その後許され、以降は斉昭の参謀として藩政改革と水戸学の発展に寄与した。
晩年は、戊午の密勅の返納を進言し、尊攘でありながら徳川慶喜に開国論を説いた事から、尊攘激派からは〔老耄〕と批判され、動乱の真っ只中の文久三年に八十二歳で死去した。
彼の活躍は幕末というより、その前段階と申しましょうか、幕末志士が志とする思想を地ならし、整えた人物と言える。
彼に影響を受けた人物の中に、久留米の真木和泉、そして長州の吉田松陰の二人がいる。
特に松陰は、彼を強くリスペクトしたようだ。松陰は四か月余の東北旅行の間、一か月も水戸に滞在し、頻繁に正志斎と面会している。
〔東北遊日記〕にこうある。
「十七日、晴。会沢を訪ふ。会沢を訪ふこと数次なるに率ね酒を設く。水府の風、他邦の人に接するに歓待甚だ渥く、歓然として欣び交へ、心胸を吐露して隠匿する所なし。会々談論の聴くべきものあらば、必ず筆を把りて之を記す。是れ其の天下の事に通じ、天下の力を得る所以か」
批判の晩年を過ごした彼の思想は、松陰によって〔更に〕生きた学問として昇華され、それが松下村塾の若者に伝わり、明治維新の原動力となった。
彼を知る者は少ない。幕末ファンとて知る者は少ないだろう。だが彼の血潮は、近代日本に流れているのである。
会沢正志斎
天明2年5月25日(1782年7月5日)~文久3年7月14日(1863年8月27日)
水戸藩士、水戸学藤田派の学者・思想家。徳川斉昭の参謀として活躍する。