#002 二人の溝
長く続いた階段を駆け上がった巧が、息を切らせながら日和神社の境内へと辿り着いた。
「はぁ、はぁ……ッ、ゆず……」
「……巧……?」
「お前……、何でこんなトコに……」
「来ないで」
「は……?」
歩み寄ろうとした巧が、ゆずの一言に足を止めた。
「……ねぇ巧。憶えてる? ここで昔遊んだよね」
「あ、あぁ。そりゃ憶えてるけど」
「私は、つい最近まで憶えてなかったよ。忘れてたんだよ」
「そりゃ仕方ないだろ? あんな事があったんだから」
巧の言葉は最もである。しかし、ゆずが望んでいたのはそんな安っぽい慰めではなかった。
「……ねぇ巧。私達がここで遊んでいた頃の事、話そう?」
「思い出したって良い事なんてねぇだろ……? お前にとって、あの時の事は辛いんだからさ」
ゆずが顔をあげて巧へと声をかけると、巧は頭を掻いて話をはぐらかそうとする。
ここ最近、ゆずと巧の間で何度も繰り返されてきたやり取りだ。
「……私なら大丈夫だよ。だから巧……」
「大丈夫って言っても……」
「お願い、巧。じゃないと私、お父さんの事をまた忘れちゃうよ……」
「……ゆず……?」
「せっかく思い出したのに段々と色褪せていくみたいで、怖いの……。ねぇ、巧。お願い、あの夏の前の事でも良いから、話して」
まっすぐ光のない双眸を向けたゆずに、巧は言葉を詰まらせた。
あの夏を忘れたままでいたゆずは、過去の記憶が欠落していた。だからこそ、これまではそれに対して巧なり気を遣い、触れないようにと心掛けてきた。
しかしあの夏休みの前、ゆずの母――薫によって知らされた真実と共に蘇ったものだとばかり思っていたのだ。
例えば同じ記憶を共有している相手がいて、毎日その相手と普通に会話をしていれば過去は風化しない。話せば話す程に過去の情景が、その当時の記憶が蘇る。
これまで「ゆずの為に」と自ら蓋をして過去の話を引き合いに出さずにきた巧は、以前のゆず程ではないにしろ、過去を遠い記憶の底へと追いやってしまっていた。
昔の事を話したい。話せる相手がいるゆず。
昔の事を話そうとはしない。話してはいけないと思っていた巧。
これまでの癖とこれまでの経験が、ここ最近の二人の心に擦れ違いを生んでいた事に巧は気付いていない。
この所、ゆずは努めて明るく振る舞っていた。
それは過去に対して決別を告げたゆずなりの態度ではなく、きっかけを得て洪水のように溢れて来た記憶を追いやる為だったのだ。
そのサインは出ていた。
しかし巧はそれに気付かず、見落としてきたのだ。
――――そして今日を迎え、ゆずは悪癖を再発させてしまったのだ。
悠木にとってみれば、あの言葉とやり方が気に喰わないという程度の怒りだった。
それをして欲しくないからこそ生まれた怒りだ。当然、ゆずもまた自分の過ちに気付いている。
それでもゆずがこうして落ち込んでいるのは、何よりも自分に対するものが原因であると言えた。
それに気付こうかと言う所で、ゆずが再び口を開いた。
「私ダメだよ、巧……。どうして、どうしてか分からないけどボロボロになってる。どうすれば良いのか分からなくなって混乱しちゃう。ねぇ、巧。私はこのまま忘れちゃえば良いの? それとも忘れずに憶えていた方が良いの?」
「な、何言ってんだよ、ゆず……」
「……解らないよね? 私がどんな風に思ってるのかとか、どうしたいのか解らないよね」
「……ッ」
ゆずの言葉に、再び巧の言葉が詰まった。
巧にとってのゆずは、幼馴染であっていつも自分に引っ付いて来る家族の様な存在だ。
そんなゆずがどう思っているのか、どう感じているのか。分かった気でいただけだったのかもしれない。
そんな想いが胸中を支配した。言葉にし難い感情が、巧の言葉を詰まらせてしまったのだ。
――――それが、ゆずにとっては「解らない」という答えになると、この時の巧は理解していなかったのだろう。
ゆずは一度深く深呼吸すると立ち上がり、空っぽとも言える様な笑みを浮かべて巧を見つめた。
「ゆず……」
「何でもない。心配かけてごめんね」
「え……、いや、うん。まぁ何でもないなら良いんだけど……。というか、何でもないとは思えないっていうか――」
「――帰ろ、巧」
さっさとそれだけ言い残して、ゆずが巧の隣を歩き抜けようとする。それを行かせてはいけないような感覚に襲われて巧が腕を掴んで声をかけると、ゆずが笑みを浮かべて巧へと振り返った。
「良いの、巧。これは私の問題だから」
「……でもお前……」
「大丈夫だから。だから帰ろ」
ゆずに言葉を断たれ、巧はゆずについて行くかのように帰路へとついた。
◆ ◆ ◆
……そんな光景を目の当たりにしていた今の俺。
痒い。
階段から横を抜けて、境内を囲む雑木林の中に身を潜めていた訳だ。
そして蚊に食われて痒さが悲惨。
って、そんな事言ってる場合じゃなさそうだけどな……。
篠ノ井と巧の間で、あれから何があったのかは知らない。
知らないが、何だかきな臭い雰囲気になっているのは確かだった。
篠ノ井の気持ちが解らない訳ではない。
かの鈍感系主人公体質は、普段から鈍感ぶりを発揮しているのだろう。
それが篠ノ井の気持ちを揺さぶって、今回の騒動に至った。
会話の流れから察するに、そんなトコだとは思う。
どうすりゃ良いのかね、ホント。
俺が首を突っ込む問題じゃないだろう。
かと言って、ついつい行く末を見守ろうなんて考えたせいで問題を知ってしまった。
――いや、迷う事なんてないってのは分かってる。
篠ノ井は俺にとって最初に名前呼びをしてきた美少女であって、『読書部』の仲間だ。
前者の方が大事な気はするが、まぁ仲間である事には変わりない。
そんなアイツが困っているのなら、俺はそれを知った以上は放っておけない。
放っておいて良いはずがない。
だから俺は……――――。
――――俺に相談が飛んで来ない限りは無視しようと思うんだ。
……いや、うん。
知るべきタイミングじゃないし、知っていてもおかしい話だからな。
別にヤンデレ怖いとか、首突っ込むのが面倒臭いとか、そんなこと思ってない。
思ってなどいない。
ただまぁ、所詮は立ち聞きだからな。
忘れよう。うん、それが良い。
触らぬ神に祟りなし、だ。
よし、帰るか。
――そう思って寮に帰っている最中。
校門を抜けて学園の敷地内へと入った俺のスマフォが鳴動した。
『ゆず、お前の言ってた通り日和神社にいたよ。でも、なんか様子がおかしいんだ。悠木、何があったのか教えて――――』
――そこまで読んで画面を切り替える。
ふぅ、危ない危ない。
まさかこの状況から俺を巻き込もうとするなんて、何てヤツだ。
フラグメイクだけじゃ飽き足らず、トラブルメイクまで手広くフォローとかそういうのやってない。
今日はスマフォの電源を切っておこう。
それが良い。
◆
翌朝、目が覚めて窓を開けて熱気を歓迎する。
相変わらずの騒がしい夏の蝉の声は大合唱を奏でており、久しぶりに寝過ごしたのだと自覚した。
すでに太陽はそれなりに高い位置にある。
スマフォの電源を切っていた事をすっかり忘れた俺は、充電から解放して早速ポチっと電源を入れた。
メッセージは、5件。
何これ、俺そんなに人気者になった記憶ないんですけど。
そういえば雪那にメッセージ返し忘れてたし、了解の旨を伝えておかないとな。
『悠木クン、怒ってる?』
……やばい。
雪那からのメッセージを確認して、昨日のトラブルカップルのせいですっかり返信を忘れていた事に焦りを感じた。
『悪い、昨日バタバタしてたんだわ。日和祭り行けないってのは了解。まぁ雪那にも色々あるんだろうし、俺の事は気にすんな』
うん、送信。
器の広さを見せる俺のモテたいアピールは今も続く訳だ。
なんだよもおおお、せっかくのデートイベントがああぁぁぁ……。
……気を取り直して、と。
次のメッセージを確認。
『悠木、頼む。俺、どうしたら良いか解らないんだ』
……何なのこいつ、マジで。
俺、男から頼られるとかってあんまり嬉しくないんですけど。
って言うか、基本的にそういうのやってないんですけど。
巧からのメッセージは4件に及んだ。
一歩間違えたらストーカーじゃね、これ。
重い溜息を吐いて、巧に返信。
『まずは難聴を治せ。良い耳鼻科は知らんが』
続いて篠ノ井にも探りと昨日のフォローを入れておく。
『昨日は悪かったな。ちょっとは落ち着いたか?』
送信。
なんか朝から疲れたんですけど。
俺の体力はもうゼロよ。
とか思った瞬間、再びスマフォが鳴った。
『私、今寮の前にいるの。時間ある?』
…………おい、何処のホラーさんですか。
篠ノ井からのメッセージに、俺は夏の怪談の鉄板台詞を呟きながら網戸を開けてベランダへと出る。
そしてあのベンチには、篠ノ井の姿があった。
「おい、篠ノ井」
「……おはよう、悠木クン」
「おはようは良いんだが、とりあえず入って来い。の前に、凶器とか持ってないですよね?」
「……? きょうき?」
「いえ、何でもないです。ロビーじゃ話しにくいしな。上がって来いよ」
「うん」
ロビーに向かった篠ノ井を見送って、俺は早速クーラーをつけて刃物になりそうな物を片付け始めた。
救急車って何番だっけ……。
次話 2/24 18時
もともと18時更新していたので、18時に戻そうかな……。
と言う訳で18時に戻します。
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