#001 宗吾の頼み
櫻家。
日本家屋らしい造りをしたその家には、その日櫻家の一家が集まっていた。
なんだかんだと聖燐学園を受験して以来、夏休みと冬休みでも櫻家の両親と雪那と沙那の4人が揃ったのはこの夏が初めての出来事だ。
聖燐学園の受験を強行した雪那と、雪那の父である宗吾の関係はあの受験以来、未だどこかギクシャクとしたものであった。
だからこそ、雪那はその夜。
久しぶりに集まった宗吾と母親である月葉の二人に、ゆずとの和解について話すつもりでいた。
これはひとえに、自分が聖燐学園に進む際に二人が最も懸念していた不安材料。その人物こそが、篠ノ井ゆずの存在であったからだ。
沙那にもゆずとの関係についてはすでに伝えてあり、それを告げる援護の準備はしてくれている。
あとは伝えるだけ、といったところであった。
しかし夕食も食べ終わり、普段会わない間の話をしている最中。
ちょうど雪那が話を始めようと頃合いを見計らっているその前に、宗吾が口を開いた。
「雪那、今度の土曜日に始まるウチの会社の設立記念パーティーには雪那と沙那の二人に出てもらおうと思っているんだ。良いね?」
「え……?」
先んじて告げられた宗吾の言葉に雪那は瞠目しつつ尋ね返した。
これまで両親が経営してきた『SAKURA』の会社関係のパーティーには、今まで雪那が関与する事はなかったのだ。
あまりにも唐突な申し出である。
もちろん、それだけではない。
――――『日和祭り』が行われるのはその土曜日の夜なのだ。
「ちょっと待って、お父さん。いつも通り私が出るだけじゃ何か問題があるの?」
雪那が『日和祭り』に参加する旨はすでに雪那自身から聞かされていた。沙那はそんな妹の、あの夏以来大事にしていた約束を不意にはさせてしまうような真似をしたくなかったのだ。
しかし宗吾は首を左右に振った。
「今回は先方側から、是非雪那にも参加して欲しいと誘いが来たのだ」
「どうして……? だって、雪那は今まで一度だって――」
「――美堂コンツェルン。あちらのご令嬢が今、聖燐学園に通っているのは知っているね?」
美堂コンツェルンと言えば、現在数多くの外資系の子会社を有し、化粧品メーカー「SAKURA」との関係においても大事な取引先として重要視している相手だ。
社交会に顔を出す沙那はもちろん、そういった部分に携わる事もなかった雪那でさえ知っている相手。
(……美堂……さん。彼女ね)
思い出したのは、つい先日華流院園美の誕生パーティーで会った少女の姿である。
よりにもよってこのタイミングで声をかけてくるなんて、どういう風の吹き回しだと言及してやりたい相手ではあるが、それをぐっと呑み込んで雪那は宗吾に双眸を向けた。
「何でも学園で常に成績が優秀な雪那に公的な場ではあるが興味があるそうでな。同年代のいないレイカ嬢にとってはどうしても会いたいとお願いされてしまってな。急で申し訳ないのだが、頼まれてはくれないか?」
――――嫌です。
そう答えられたらどれだけ気楽なものだろうかと思いながら、雪那は心の中で小さく嘆息した。
立場的には断れない申し出なのだ。宗吾とて、雪那を公的な場に連れて行くというのはあまり気乗りしていない事は、その苦い表情を見れば一目瞭然である。
これが一方的な取り決めであったならば無下にしてやっても良いのかもしれないが、幸か不幸か宗吾も月葉も良き親である。
しかしどうしても、承諾はしたくなかった。
春を過ぎた辺りからずっと約束し、ようやく叶えられると思っていたあの夏の約束を、今再び破ってしまう事になる。
もちろん、今の悠木ならば理解はしてくれるだろうとは思う。思うが、自分から誘っておいてそれを破るのは、不本意極まりない。
「……分かりました、引き受けます」
「そうか。そう言ってくれて助かったよ。私達も断れる立場ではなかったのでな。もしも雪那が嫌だと言っていたら、無理に連れて行く訳にもいかないからな」
安堵した様子で告げる宗吾の言葉を聞いた雪那は、偽物の笑みを貼り付けて立ち上がった。
「それじゃ、お風呂に入ってくるわね」
「あぁ、行っておいで」
部屋を後にした雪那を見送って宗吾は改めて溜息を漏らす。その視線の先には、険しい表情を浮かべた沙那の姿があったのだ。
「……お父さん。ゆきだけは仕事に巻き込まないって約束したの、忘れたの?」
「そう言ってくれるな……。私も不本意ではあるのだ……」
「……ゆき、学校での生活でようやく心を開いてくれてたのよ。それなのにこれじゃあ、また前みたいに戻っちゃうじゃない……」
沙那の最後の呟きは、宗吾に向けられたものではなかった。
――――沙那はもともと両親の仕事を継ぐ為に、自分のやりたい事を押し殺してでも「SAKURA」を継ぐつもりでいる。
それはひとえに、雪那を自分の身代わりにしない為だ。
長女という立場である沙那は、この日和町を離れて以来ずっと両親の仕事を手伝う為に積極的に社交の場にも顔を出すようになった。
かつての篠ノ井護の裏切り行為によって大人の汚さを知った沙那が、雪那がそんな世界に足を突っ込むべきではないと判断し、自ら決意した結果の行動だ。
だからこそ、沙那は昔から「ゆきだけは大人になるまで仕事に巻き込まないで」と宗吾に何度も告げて来たのである。
しかしそれが、まさかよりにもよって『日和祭り』を楽しみにしてきた雪那に、そのタイミングで断れない頼みをした形になってしまったのだ。
聖燐学園に進む前の雪那は、無口な少女となってしまった。
自己主張もせずに、ただただ人形の様な存在になってしまった雪那の姿を沙那は憶えている。
それは悠木を騙し、雪那に「裏切る」という痛みを知ってもらい、かつての自分の様な黒い感情に巻き込まれないで欲しいという想いから画策した、沙那自身の業でもあると感じていた。当然、悔やんでいたのだ。
そんな雪那が聖燐を選び、結果として悠木と再開したおかげで少しずつ少女らしくなっていった。
それが沙那にとっても嬉しかったのだ。
しかし、これではまた雪那が以前の様に戻ってしまうかもしれない。
そんな想像が沙那の胸中に渦巻いていた。
――――櫻宗吾の両親は、風呂に対して異常なまでのこだわりを抱いていたと言って良いだろう。
露天風呂を星空を見ながら堪能したいと豪語していた彼は、自宅の外に露天風呂を作り、檜を使った湯船が舞い上がる。
雪那と沙那が生まれてからは仕切りの高さが更に上がり、確実に外からは覗けない程の広さになった露天風呂は、誰も住まなくなったこの櫻家でも未だ健在だ。
櫻家のハウスキーパーによるしっかりとした掃除や手入れのおかげか、相変わらず綺麗なまま保存されていた櫻家の露天風呂で、雪那は頭や身体を洗った後でお湯の中に胸元まで浸かる程度に身体を沈めた。
湯気がもうもうとお湯の上を走っていく姿を見て、小さく嘆息した。
当然、それは風呂に入って力が抜けていく溜息ではなく、ただただ憂鬱な気持ちを吐き出したものに過ぎず、表情は悲しげなものではあるが。
風呂に入る前に悠木に断りのメッセージを入れたが、返事を待つのが怖くてスマフォを置いて逃げる様に湯船に浸かっている。
こんな状態ではせっかくの広々とした風呂も、ただ広く感じるだけのものでしかない。
そこに嬉しいだの気持ち良いだのという感想が浮かんで来るはずもなかった。
「ゆき、入るよー」
「え……? あぁ、うん」
一声かけて入ってきた沙那の身体に、同じ女性として目がいってしまう。
出る所は出て、締まる所の締まった身体。白磁の様な白くてツヤのある肌は、女性らしい柔らかさも見て取れる。
たった3つしか違わない姉と自分の胸の膨らみを見て敗北感を僅かに感じてしまったのは、雪那にとってのコンプレックスが関係しているのだろう。
沙那は複雑そうな顔をした雪那に気付きながらも、敢えてそこに言及しようとはしなかった。
汗ばんだ身体を湯で流し、頭の身体を洗った後で湯船に浸かる。
雪那とは斜めに向かい合う様な位置に座った沙那が、雪那に向かって声をかけた。
「……ゆき、無理して付き合わなくて良いのよ」
「そうはいかないわ。櫻家の次女として指名までされて断ったりなんてしたら、お父さんの顔を潰す事にもなるもの」
堂々とした模範解答。しかしその実、雪那の表情は明らかに曇っている。
沙那は小さく嘆息すると、空に輝いた星を見上げた。
日和町は田舎町だ。空の星は普段沙那が暮らしている都会の空とは全く違う。
ちらちらと明滅を繰り返す星を見上げながら、沙那は再び口を開いた。
「……悠木クンとの約束は?」
「断りの連絡は入れたわ。……まだ返事は来てないけれど」
「そう……。きっと彼なら、分かってくれるんでしょうね。7年前の夏でさえ理解してくれた彼なら」
「……だからって……。こんな形になるのは、やっぱり不本意だけど……」
小さな声で呟いた雪那へと視線を向けた沙那が、小さく笑みを浮かべた。
「幸い、土曜のパーティーだからそこまで遅い時間まではやらないと思うわ。もしかしたら『日和祭り』の始まりは無理かもしれないけど、最後には間に合うかもしれないわよ」
「……でも、それで悠木クンを待たせてやっぱり行けませんでした、じゃ……。まるであの夏と一緒じゃない……」
苦い思いを噛み締めながら、雪那は表情を歪めていた――――。
◆ ◆ ◆
……うーん。
雪那が断りの連絡を入れて来た後、俺はしばらく唸り声をあげて考え事をしていた。
普通ならここでショックを受ける所だろう。
確かに俺だって、美少女との祭りデートなんてイベントは逃したくない。
とは言っても、こういうメッセージが来たって事は何か理由がある訳だ。
今は実家にいるんだし、家族の都合か何かだと考えるのが妥当だろう。
理由は知りたいとは思うけど、こういう時に問い詰めるのってどうなんだろうか。
なので返信に戸惑っている、という状況だ。
「……どーーーしよっかなーーーー」
だらーっと身体を伸ばしながら口にしてみる迷い。
まぁ、ここは俺が諦めて雪那の提案を受け入れ、来年こそはと約束をつけておくべきだろう。
そんな訳で雪那へと返信しようと、ベッドから身体を起こした途端。
俺のスマフォが鳴った。
「もしもし」
《俺! 巧だけど!》
「まぁ表示見りゃ分かるんだが。んで、どうした?」
《ゆずがいないんだ!》
「……は?」
飼い猫か、とツッコミを入れたくなる所をぐっと堪えて声を噛み殺す。
巧も何やら息を切らせている。走って探しているのか。
「……そのいないってのは、わざわざ俺に電話かけて来る程の何かがあったのかもしれないって事か?」
《アイツ、こんな時間に誰にも何も言わずに出掛けたりしないんだよ! コンビニにもいないし! なぁ、ゆずとお前の間で何があったんだよ!?》
予想通り走っている最中らしい。
しかし、まるで巧の心配する言葉がおかしいんだが。
お前が何もないからこうなってるんだろうが、と言いたい。
「……幼馴染なんだから、そこは篠ノ井から聞けば良いだろうが。とにかく俺も探してやるから、見つかったら連絡してくれ」
《あ、あぁ、分かった!》
慌てた様子で電話が切られ、俺もさっさと部屋を後にする――前に外を見る。
以前幽霊さながらにベンチに座っていた気がする。今日もそのパターンかもしれないと思ったんだが、今日はそれじゃないらしい。
とにかく俺も外に出た。
◆
篠ノ井捜索とは言え、見知らぬ所にフラフラと出て行くとは考えにくい。
だとすれば、何処か知っている場所だったりもするんだろう。
まずは今日の言い合いをした川原へと向かう。
真っ暗な川原に、月の光が僅かに反射して煌めいている。鈴虫の鳴き声と、何を間違えたのか夜に鳴いている蝉の声。それに川のせせらぎ。
夜の川原は普段通りの人気の無さに加えて、蝉の鳴き声が落ち着いたおかげか比較的に静寂に包まれている感が強い。
どうやら篠ノ井はここには来ていないらしい。
篠ノ井が行く場所なんて、正直俺には想像がつかないんだが……。
一体何処にいるんだか。
「……あ、そういえば……」
思わず独りごちる。
俺と巧と篠ノ井が小さい頃に遊んだ神社――『日和祭り』の会場となるあの神社。
俺が思いつく場所となるとそこしかない。
とりあえず、俺は神社に向かって歩いて行く。
走るとか、ただでさえ湿度が酷いのに汗が滲み出るっての。
日和神社。
長い階段を登った先の高台にある神社は、日和町を一望出来る。
俺と巧、それに篠ノ井が遊んだ場所だ。
階段を登り切って無駄に疲れた気分になりながら境内を見回すと――――いた。
俺は声をかけずに階段を数歩下りていきつつ、巧にメッセージを送る。
『篠ノ井、日和神社にでもいるんじゃないか?』
よし、投げた。
あとは巧が来るまでに篠ノ井が何処かに行かない様に見張るか。
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