#004 感謝の気持ち
聖燐学園から駅までは、バスと徒歩で十五分前後といったところだ。
とは言っても、学園所有の通学バスを使えば、という注釈がつく上に、今は夏休みという事もあって、学園のシャトルバスは動いていない。
必然的に早めに出て、バスを拾うか三十分程歩くかの二択になってしまう。
結局、市営バスを捕まえて乗る方向で話はまとまったのは、このクソ暑い中を歩くには、少々駅が遠すぎるのだ。
俺と雪那、それに水琴は昼食がてら十二時に食堂に集合し、昼食を済ませてから出るという流れで決定した。
巧達、チームハーレムとは駅前で落ち合う予定だ。
「……あっつ……」
相変わらずの蒸し風呂状態になっている食堂は、窓から入り口まで全てが開け放たれているが、今日は風のない真夏日。詰まるところ、食堂は完全に蒸し風呂と化していて、大きめの窓から射し込む日差しのせいで顔が引き攣る暑さだ。
クーラーが効いている部屋にすぐにでも退避したくなる。
どうしてこうも暑いんだ……。
これでもし巧だけとの約束だったら、俺はきっと「暑いから今日はパス」と日付の延期を懇願するレベルだ。
「おはよう、悠木くん」
「おっはよー。うわっ、あっついねぇ……」
雪那は白いチュニックに七分丈のジーンズ。
水琴はホットパンツにだぼついた大きめのシャツ。
二人の私服を見てテンションを上げたいところなのだが……どうにもこの暑さでそういった元気が足りない。
「ここで昼を食べるのはちょっと辛いねぇ……」
「だな……。クーラー効いてるトコに行くか」
「そうね……。今から部屋に戻って作ってからじゃ時間もかかりそうだし、外の方が良さそうだわ」
「だったらファミレスとかだな」
こういう時、何も言わずとも飯が出てくる家は羨ましい……とか思ったが、よくよく考えてみたら、読書部で親に家でご飯を用意してもらってるのって瑠衣ぐらいなのか。
篠ノ井は巧の世話して作ってるらしいし、巧は愛妻弁当というか、篠ノ井の作るご飯を食べているらしいが……アイツはまぁ除外するとして。
ともあれ、予定を変更。
俺達は早めに駅前へと向かい、そちらで涼みながら昼飯を食べようという話になった。
「ファミレスって言えば、水琴さん。アルバイトしてたお店とかどう?」
「……いやー、辞めたお店に気軽に遊びに行けるのは、グループ作って遊べちゃうような、よっぽど仲が良かった人達だけだよー……。もしくは、空気読めてない先輩とか、ね」
空気読めてない先輩とか、なかなか辛辣だな……。
「まぁ、私は仕事は仕事として割り切ってたからねー。人付き合いもそこそこで切り上げちゃってたし、できればパスしたいかなー」
駅に向かうバスを待つ途中、雪那の言葉に水琴が苦笑を浮かべながら答える。
アルバイトか、俺はやった事ないんだよなぁ。
仕事として割り切る派と、グループで遊んじゃう仲間派に分かれるんだとしたら、俺はどっちだろうな……。
そこはかとなく前者になりそうな予感がする。
水琴に余計な事を言うのはやめておこう。
「雪那。今日こそクーポンでも使うか?」
「……遠慮するわ。まだ普通のメニュー知らないもの」
「ん、どゆこと?」
「あぁ、雪那ってジャンクフード系のお店とかあんまり行った事がないんだよ」
「へ? そうなの?」
雪那がちょっと恥ずかしそうに頷く。
何あの恥じらい。久々に俺の好感度グラフがちょっと振り切れかけた。
「んじゃ、そういうお店行こー」
今日も雪那嬢の昼食は冒険となった。
余談だが、前に雪那とクーポンを試そうとしたバーガーショップに行く事になり、そこへ行ったのだが……あの時のお姉さんが店員をしていた。
俺を見て笑顔が引き攣っていた様な気がしたが、気のせいだろうか。
季節ものを頼もうかと迷う雪那には、「夏だからってバーベキューって謳ってるかもしれないが、別にそこにバーベキュー的な要素はないぞ」と、やんわりと店員の前でオススメから外しておいた。
店員のお姉さんの泣きそうな顔は、きっと暑さでまいっているせいだろう。
働くのは大変そうだ。
「お、巧達も着いたみたいだな」
「おー、じゃあいこっか」
「ね、ねぇ、水琴さん。動けるの……?」
「ん? 何が?」
雪那はどうやら水琴が食った、尋常ではないバーガーの数に驚いたらしい。
昨日は食い溜めがどうとか言っていたが、やっぱりこいつが食べる量はお世辞にも普通とは言えない量だった。
Lサイズのセットを頼み、さらに単品でデカいバーガーを二つ――合計でバーガーを三つも食べる水琴と、かたや、Mサイズのセットでポテトを残す雪那。
実にバランスが悪い。
「ゆっきー、しっかり食べないと大きくならないよー」
「ちょ、ちょっと、水琴さん。何処を見て言ってるの! 私は普通だから!」
女子同士の会話に釣られて、俺も視線が向いてしまいそうだ。
一応雪那の名誉の為にも言っておくが、雪那は決して胸が小さいという訳ではない。
どちらかと言えば篠ノ井と同じぐらいで、それなりだと思われるのだが……瑠衣は背の大きさに不釣合いにそれなりに大きく、水琴がデカいだけだ。
――っと、いかん。この目を抉られる……!
雪那がこっちを見てきたので気付かないフリをしておいた。
「しっかし水琴はホントよく食うよな」
「うーん? どうだろうねー。食べる時は食べるんだけど、仕事してるとご飯抜いちゃったりとか結構あるんだよねー」
「その、体重増えたりとかしないの?」
「変わらないんだよねー。あ、でも胸は大きくなったかも……あれ、ゆっきー、ゆっきー? なんか目が怖いんだけど……!」
そういう発言をされると、つい確認の意味で目を向けたくなるのだが。
だがそんな脳天気発言の横で、絶対零度のブリザードを感じた俺は視線を動かせない。
……明日はそれをとくと見せて頂こうではないか。
連絡を何度かやり取りして、ようやく合流。
早速女性四人が水着談義に花を咲かせて歩き出し、俺と巧はその後ろをダラダラとついて歩く。
今日は土曜日だ。
休日なせいか、駅前はそれなりに混雑している。
きっと水着売り場も人が多い事だろう。
「それじゃ、選び終わったら合流しよー」
「あいよ」
「悠木、俺達も選ぼうぜ」
「……おう」
ショッピングモールの中で別れる。
試着イベントは残念ながら有り得ないらしい。
明日だ。
そうとも、明日こそは……合法的に視線を泳がせられるではないか……!
そんな事を考えながら、男性用の水着売り場へとやってきた。
「ほれ、巧。競泳用」
「……履かねぇって……」
「だよな……」
なんともくだらない会話である。
「そういえば。あれから篠ノ井はどうだ?」
篠ノ井の親父さんの一件から、俺は風邪で学校を休んだり、夏休みに入ってしまったりとなかなか巧達とゆっくり話す機会がなかった。
そんな訳で訊いてみたのだが、巧は力なく笑ってみせた。
「あー、うん。だいぶ落ち着いた、って言うか。おじさんの事もちょっとずつ思い出せてるみたいで、なんだか元気にはなってきてるよ」
「そっか。だったら良かったのかねー」
篠ノ井も、ある意味では成長しているのだろう。
まぁ、だからと言って早々に病みっぷりを卒業できるとも思えないんだが。
「ほら、巧。貝殻」
「それどこから見つけたんだ……?」
「わからんが、置いてあったんだ。男物なのにな、この売場」
こういうウケ狙いに喜べるようなタイプではないのだ、俺は。
だいたい、男の水着売り場にキャッキャウフフな要素はないのだと言いたい。こんなネタに対する反応は、必然的に絶対零度になる。
「なぁ、悠木」
「あー?」
「ありがとな、色々さ。お前がいなかったら、俺とゆずはきっと櫻さんを傷付けてただろうし、さ。あんな風に、俺達が考えるべき事さえ考えられないままだったかもしれないからさ」
……まぁ、あの時俺がぶん殴るに至った際の巧を見ていたら、そうなっていた可能性は否定できない。
雪那を責め立て、雪那は雪那でそれを素直に受け入れて、きっと篠ノ井の前から姿を消そうとしていただろう。
「だから、ありがとうな。お前に殴られて、目が覚めたんだ」
「ほう、なら水着買ってくれたらチャラにしてやろう」
「……ごめん、そんなにお金ない」
「冗談だっつの」
……まったく。
なんでこいつは、こういうちょっとした恥ずかしい事を言うんだろう。
微妙にひねくれてる俺とは違って、青春してるな、こいつ。
「なんて言うか、悠木って大人だよな」
「……は? どうした? 暑さで頭焼けたのか?」
「いや、そんなんじゃなくて。俺、前にゆずの事で迷った時も今回も、悠木に怒られてようやく気付く事って多くてさ」
「……そりゃ、俺が当事者じゃないからだろ」
「ん?」
当たり前の事を口にしているのに、巧は小首を傾げるだけで理解できなかったらしい。
「篠ノ井に関してとお前に関して、俺はあくまでも当事者じゃないから分かるだけだ。俺がお前の立場なら、お前以上にあたふたすると思うぞ、俺」
「……想像つかないな」
俺は当事者じゃなくて、だから問題が見えるだけ。
これはきっと間違ってない。
例えば巧と俺が逆の立場だったら、巧とは違った方向に突っ走るだろう。
多分、巧よりもタチが悪い方向に。
「そうだ、巧。大事な相談があるんだが」
「珍しいな。どうしたんだよ」
「ゴーグルって必要だろうか……っておい、なんだその目は」
「…………さっきまでの真剣な話の流れは……?」
「おい、考えてみろ。プールでゴーグルってつけるべきかそうじゃないか、迷う代物だと思わないか?」
結局、ゴーグルは持って行かない事になった。
◆ ◆ ◆
女性用水着売り場。
さすがに水着を買うには多少出遅れているとは言え、それでも客足は多いらしく、私――櫻雪那――達はそれぞれに別れて水着を選んでいた。
向こうでは、水琴さんが瑠衣ちゃんに水着を選んであげると迫っていて、瑠衣ちゃんが何か危険を察知したのか、怖がっている。
私もあっちに混ざりたいような気がしないでもないのだけど……そうもいかなかった。
「水着どういうのにしよっかな。ゆっきーどうするの?」
そう、さっきから私は篠ノ井さんに捕まっているのだ。
彼女のお父さんと、ウチの家族の間に起こった問題。
それを読書部のみんなで話し合ったのはつい最近の事だけれども、あれ以来、篠ノ井さんは以前にも増して私に話しかけてくるようになった。
――正直に言えば、どうすればいいのか分からないというのが私の本音だったりする。
私にとっては遠い過去で、篠ノ井さんにとっては真相を知って間もない最近の事。
悠木くんが話し合いの場を設けてくれて、あの時はそれぞれに話し合って、一応の決着を見たのは分かるけれど……篠ノ井さんはもう少しぐらい、気にするものかと思っていたから。
「ゆっきー、聞いてる?」
「あ、えぇ、ごめんなさい。とりあえず私はシンプルなタイプにすると思うわ」
「シンプル、かぁ。ゆっきーは長くてキレイな黒髪だから、黒とかも似合いそうだよね。私は明るい色がいいかなー」
楽しそうに水着を笑う篠ノ井さんを横目に見て、どうしたものかと言葉を探す。
無理をしなくていいなんて言っても、篠ノ井さんだって私には言われたくないだろうし、かと言って腹を割って話そうなんて言えるようなタイプでもないし。
そんな逡巡を感じ取ったかのように、篠ノ井さんが僅かに声をひそめた。
「ねぇ、ゆっきー」
「なに?」
「私、大丈夫だから。ゆっきーの事は嫌いじゃないよ。むしろ好きなぐらい」
「……な、何をいきなり言ってるのよ」
「ほら、前に言ってたでしょ? 私と話したりする為に、聖燐に来たって。そこまでしてくれるって思ってなかったし……。多分私だったら、きっと逃げちゃうんじゃないかな」
それは――どうなのだろう。
私がもし篠ノ井さんの立場に立っていたとしたら、大好きな父が自殺するに至ったという関係者を迎え入れられるか、分からない。
そもそも私は父とはそこまで仲良く過ごしていないし、想像がつかないという方が妥当かもしれない。
「ゆっきーは、私の事、嫌い?」
「え?」
「ほら。ゆっきーって、昔は私の事をゆずちゃんって呼んでくれてた、よね? 今はそう呼んでくれないし、もしかしたら嫌われてるのかもって思って……。ほら、巧の事で酷い事を言っちゃった事もあるし……」
まさか昔の事を出されるとは思わなかったけれど……、酷い事って言うと、私が表向きに風宮くんにアピールしているフリをした時の事、かしら。
あれはわざわざそう演出したのも私なのだし、別に気にした事はないのだけれど。
「……嫌ってなんてないわ」
「ホント!?」
「えぇ。ただ、名前で呼ぶのが、その、恥ずかしかっただけよ……」
顔が熱くなるのが、分かる。
正直に言えば、私が篠ノ井さんを昔と同じように呼ぶなんて、私がしていいものなのかと考えていただけなのだし。
……それに私、今の年齢になってまで名前にちゃん付けして呼べるような、そういう友達がいた事もないから、恥ずかしい。
「じゃあさ、名前で呼んでくれる?」
「――え……」
「だって、みこっちゃんを水琴さんって呼んでるのに、私だけ苗字なんだもん。瑠衣ちゃんは瑠衣ちゃんだし。あ、でも巧の事は風宮くんだけど、巧は男の子だもんね」
「……えっと、でもその、今更呼び名を変えるなんて恥ずかしいのだけど……」
「えー! 私は名前で呼んでくれた方が嬉しいよ?」
――これはなんの罰ゲームだろうか。
そんな風に思うのは、きっと私だけなのだろう。
確かに、悠木くんには名前で呼ぶように強制し、私の事を思い出させようと試みた事もあったし、それに合わせて私も悠木くんを、昔と同じように呼べるような空気を作ろうと試みたけれど……。
定着した呼び名を変える、というのは難しいものがある。
そんな事を思わず実感する。
けれど、どうにも篠ノ井さんは譲る気もないらしい……。
まっすぐ私の目を見て今か今かと待っている辺り、私が空気を読まずに拒んだりしたら、なんだか酷く傷ついてしまいそうだ……。
「……じゃあ、呼ぶわよ……?」
「どうぞ!」
「…………ゆず、さん?」
……………………。
「……ゆっきー。それは……」
「わ、分かってるから……! 分かってるから……っ! ……分かったわ、ゆず……」
「にっひっひっ」
「な、何よ、その笑い方……」
「いやー、顔を赤くしてるゆっきーが可愛いー!」
「っ!? も、もう呼ばない! 呼ばないから!」
「えぇー!? 謝るから! 謝るからぁー!」