#002 忘れていた記憶
「――休憩するか」
「ふぃー、いやー、助かったよー」
教科書やノート、参考書の類を閉じる。
途中、水琴が躓いていると言っていた箇所を教えたりもしたが、やはり巧達と違って基礎はほぼミスがない。
さすがは特待生とでも言うべきか、理解力の早さもあってそこまで丁寧に説明する必要はない分、結構捗った。
巧達の場合は道無き道を開拓している状態で、水琴の場合は途中で落とし穴があるような、そんな感じだった。
「頭使うとお腹空くねー」
「おいお前。食い溜めなんてやっぱりできてねぇじゃねぇか」
「あっはっはっ、そうだったねー」
「……まぁ、こんな時間だしな」
時刻は既に十三時前。
実際朝食がいつもより遅い時間だったせいか、俺も今の時間になってようやく腹が減ってきたところだが、あれだけ山のように積んだ朝食を食べていた水琴が空腹を訴えるとは。
それでも体型が維持されているあたり、栄養が身長と胸に偏っているんだろうか。
「んで、午後はどうする? 続きやるのか?」
「あー。午後はちょっと仕事片付けようかと思ってるんだー……って、あれ? 何だろう、その視線」
「いや、なんて言うか。仕事に精を出す大人っていう図が似合わないな、水琴」
「あはは、失礼だよー? ま、仕事って言っても好きでやってる事だから、正直言うと仕事って感じはしないんだけどねー」
笑ってそんな風に答えてくるあたり、水琴もずいぶんと大人というか。
もし瑠衣だったら、今の俺の言葉にはきっと盛大な罵倒が返ってくるだろうに。
「そういうもんか。……さて、と。んじゃ昼飯作るかな」
「作る? ふーん……。悠木くんってもしかして料理できるの?」
「まぁそれなりに」
「…………へぇー」
水琴の返事までに空いた、奇妙な空白。
向けられている視線に何かこう、背筋を這いずるような悪寒を感じて、思わず眉にぴくりと力が入った。
「……なぁ、水琴。今の間はなんだろうな。俺としては、どうにも嫌な予感しかしないような悪寒が走ったんだが、どう思う?」
「きっと気のせいだよ、うん。私は単純に凄いなぁって感心しただけで、別にいいネタになったとか思ってないしねっ!」
「コイツ、本心ダダ漏れてやがる……!」
サムズアップに胡散臭さを感じるなんて、深夜の通販番組の外国人ぐらいなものだと思っていたが、水琴の今の姿はまさにそれだ。
「まぁ、実害はないから別にいいが、せめて学校の連中にだけはバレないようにしてくれよな……」
「ありゃ? てっきり是が非でもやめろって言ってくるかと思ったんだけどねぇ」
「俺がどうのこうの言ったところで、頭の中身までは確認できないしな。思春期男子の妄想力に比べりゃ可愛いものだろうし」
「あー……、そう言われるとなんか納得できちゃうかもねぇ……」
水琴の妄想なんて、いくら腐った方向に傾いているとは言っても、思春期男子のそれに比べれば幾分かは健全……とは言い難いが、まぁ似たようなものだろうしな。
さすがにそっちの世界を理解してやれるとは言えないが、妄想を繰り広げるって点じゃ俺だって似たようなもんだ。
「そうやって許容しちゃうあたり、悠木くんは器が大きいねぇ」
「褒めても昼食ぐらいしか出ないぞ」
「わーい。昼食が出るなら、私はいくらでも褒めちぎってあげるとも」
なんとなく気恥ずかしくなって言ってみれば、水琴もあっさりと乗っかってきた。
そんな話をしながら簡単な飯を作っている最中、俺は改めて水琴に対して「他人の懐に入るのが自然で上手いな」と実感していた。
篠ノ井や瑠衣なんかも懐いていたし、雪那も水琴に対してはなんとなく接しやすそうに話をしている。巧に関してはどうでもいいとして。
それに俺自身、基本的には女子の名前呼びなんて、恥ずかしくてなかなかできない人間だったりするのだが、水琴に関してはあっさりとそれが定着してしまっているし、軽口をぶつけ合っても笑っていられるような空気が出来上がってしまっている。
水琴とのやり取りは、なんと言うか気楽だ。
雪那だったら呆れられるのは俺だし、篠ノ井に関しては巧さえ関わらなければ優しい性格をしている。
瑠衣の場合は、どうしてもからかう対象として見てしまうしな。
「なぁ、水琴」
「んー?」
「……いや、やっぱいいわ」
「えー、何それ。気になるなぁ」
なんというか、微妙に“そういう雰囲気”を自分から作っているように見えるなんて、俺からはあまり言うべきではないのだろうなと、そんな事を思った。
結局、水琴の分までパスタを作って少し遅めの昼食を済ませた後で、水琴は帰って行った。
この貸しはいつか返してもらおうじゃないか。
干していた洗濯物を入れたり布団を入れたりとする内に、すっかりやる事がなくなった。
昼寝できそうな程に暇だ。
ベッドに寝転んでうだうだしていた俺の耳元で、スマホが鳴る。
アプリ特有のメッセージの着信音だ。
最近は瑠衣やら水琴やらもいるし、メールで済ませるよりも比較的気楽なメッセージ用のアプリでやり取りする事が増えた。というより、「今時分メールでやり取りなんて逆に新鮮です」と瑠衣に言われたのが端を発したのだが。
雪那とは寮が一緒だし、巧達とはそもそもこまめに連絡を取り始めたのが、二年になってからだからな。そういうアプリを使うような空気ではなかった、というのもあったんだが。
――まぁそれはともかく、だ。
もぞもぞと動いてスマホを見る。
アプリを通したメッセージの送信元は、瑠衣だった。
『助けて下さいー!』
『断る』
さて、午後は何するか――――と思ったら、今度は着信。
……瑠衣だ。
「よう、瑠衣。どうした?」
『事情も聞かずに断っておきながら、何事もなかったかのように訊くとかおかしいですっ!』
なんとも、テンションが高いな。
「いや、ついノリで」
『悠木先輩がそんな性格だって事は分かってるですけど……。って、そうじゃなくて、悠木先輩、助けてほしいです!』
「命でも狙われてるのか? 悪いが俺にはどこかの組織と戦う力なんてないぞ」
『物騒ですっ! そうじゃなくて、宿題で分からない所があるのですよー……』
ふむ、なんだかずいぶんと頼られてるみたいだ。
別に悪い気分はしない。しないのだが、なんだろうな。
勉強漬けの一日になりそうな予感がしてきて、さすがにちょっとな……。
「残念だが瑠衣。俺の今日の勉強成分は水琴に取られてしまってだな」
『水琴先輩? って、勉強成分って何ですかっ! 水琴先輩も一緒なのです?』
「いや、もう帰った。と言うか、お前の場合は巧やらがいるだろうに」
『……えっと、巧先輩に勉強の事で教えてもらうのはちょっと……』
辛辣だな……。
こういう時こそ好きな相手に合法的に頼るチャンスじゃないのか。
「まぁ雪那も出掛けてるし、暇なのは暇だからなぁ。別に教えるのは構わないんだが……」
『ホントですか!? 寮に行けば良いですか!?』
「必死だな……。寮に来ても今食堂は蒸し風呂だしな。俺の部屋になるぞ」
……………………。
『へ、変な事しませんよね……?』
「切るぞ」
『わーー! 冗談ですからっ! すぐ行くですよっ!』
「電話越しに叫ぶな」
『すみませんです……。あ、寮って制服じゃなきゃ行っちゃダメとか、そういう決まりってあるですか?』
「いや、別に大丈夫だぞ」
『はーい。じゃあすぐ行きますっ! あ、そうそう、悠木先輩』
「ん?」
『……寮って、学園の敷地のどこにあるですか……?』
……まぁ、確かに学園の敷地は広いからな。
校舎から見えるような場所でもないし、そうなるのも無理はない、か。
「よしよし、じゃあ校門の前まで迎えに行ってやるから、お菓子あげるって言われても変な人について行ったりするんじゃないぞ?」
『ついていきませんー! 妙に優しく語りかけて、余計に馬鹿にされてる気分です!』
瑠衣、それは正解だ。
◆ ◆ ◆
「――そう。じゃあ姉さんも今年はこっちに来るのね」
『えぇ、もちろん。去年はそっちに行けなかったしね、課題やら何やらで』
買い物を済ませて帰路にきながら、私――櫻雪那――は小さく嘆息した。
電話の相手は姉さん。
この夏休みのお墓参りの予定も含めて、時折メールなんかで連絡をしているのだけれど、今日は久しぶりに急な電話がかかってきて、そんな話をしていた。
『それで、ゆき。その、悠木くんとはどう?』
以前の電話の際に感じた違和感を思い出して、私は思わず足を止めた。
「……どうしたの?」
『うん?』
「この前からそうだけど、姉さん、ずいぶん悠木くんの事を気にしてるみたいだから」
『そんな事ないわよ。ただ懐かしい名前だから、ついね』
「……そう」
確かに懐かしい名前だけれども、こうしていちいち探りを入れるかのように悠木くんの名前を出されるのは……なんだろう、ちょっと不愉快というか、面白くない。
私にとって、悠木くんは……特別な人だ。
それが恋愛感情になりかけているのは私にも分かっている。
この前の篠ノ井さんとの一件の時も、どうする事もできなかった私に手を差し伸べて、力を貸してくれた。その後に風邪をひいて弱っている姿を見て、私は……私自身の気持ちに、改めて気付かされた。
でも、姉さんと悠木くん。
二人の間に何かがあって、それを二人は私に隠しているような――そんな気がする。
『そっちに行ってる間は、駅の近くのホテルにお父さんとお母さんと泊まる事になるけど、ゆきはどうする?』
「私は寮があるもの。顔は出すけれど、部屋は必要ないわ」
『あらら。お父さんとお母さん残念がるだろうねー。ま、仕方ないかー』
「……ねぇ、姉さん」
『んー?』
――篠ノ井さんと、“ゆず”と仲直りしたよ。
そう言おうとして、私はふと昔の事を思い出して口を噤んだ。
『あれ? もしもし、ゆきー?』
「……あ……、ううん。何でもない。ちょっと暑くてぼーっとしてただけ」
『外出てるんでしょ? 熱中症、気をつけなよ?』
「えぇ、ありがとう。それじゃ、切るわね」
『うん、また連絡するわね』
通話を切って、私はさっき――姉さんに篠ノ井さんの事を言おうとして、その時に思い出した、昔の姉さんの言葉と表情を、改めて思い返していた。
『ねぇ、ゆき。私達は大丈夫だよ』
『え?』
『だって、私達はもう知ってるんだもの。裏切るなんて事をしたら、どうなるか。だからもう間違えないでしょ?』
『……うん』
『大丈夫だよ、ゆき。悠木くんには、私から――』
――あの後の言葉が、思い出せない。
ただ、あの光のなかった目と、不釣合いに対照的な笑顔や声が、私にはどうしようもなく怖かった事だけは、今も覚えている。
私はそんな記憶を、無理矢理記憶の奥底にしまい込んでいた。
あの夏の事――悠木くんとの約束を果たせなかったあの時の事も、きっと姉さんは私と同じく落ち込んでいるのだと、そう思い込んでいた。
――でも、それは違った。
今の私には、ハッキリとそう言い切れる。
言葉の続きは思い出せないけれど、あの光のない瞳、捲し立てるような言葉。それに、一切笑っていない目をしながら、笑い声をあげるその姿。
――そんな特徴的な姿を、私は知っている。
篠ノ井さんが悠木くんに対して取っていた、あの態度だ。
そう考えると、今思えば、姉さんは落ち込んでいるというよりも……どこか、何かが壊れてしまっていた、と言う方が正しいだろう。
当時の私は、自分が落ち込んでいるから、そして小学生の自分の物差しでは計りきれなかったから、落ち込んでいる、という結論に達したに過ぎなかったのかもしれない。
思い起こせば、そんな姉さんの姿を見て以来、私と姉さんの距離は変わった。
私はあの時の姉さんが怖くて、それで少しずつ姉離れして、お姉ちゃんを姉さんと呼ぶようになったのだ。
……あ、そっか。
だから私は篠ノ井さんのあの態度が、苦手なのかもしれない。
心のどこかで、当時の姉さんを思い出してしまうから。
――いつの間にやら横道に逸れた思考が達した結論に、私は小さく嘆息して気持ちを切り替えた。
「あ……。アイス買わなくちゃ」
悠木くんはきっと本心でお土産なんて言った訳ではないだろうけれど、アイスがあればお土産と称して部屋に行ってもおかしくはないもの。
そんな風に自分に言い聞かせつつ、私はすっかり忘れていたアイスの存在を思い出してコンビニへと立ち寄る事にした。




