#009 夏が始まる
夏休みまで、残すところあと二日。
雪那と篠ノ井との騒動も終わりを迎え、水琴という新たな部員を迎えた一日が終わった、その翌日。
外はすっかり夏に彩られ、窓の外ではこれでもかと言わんばかりに蝉の大合唱が始まり、朝からむわっと押し寄せるような熱気が町を覆う、そんな朝――――
「……風邪ね」
「あー……、だろうな……」
――――制服姿の雪那が、俺のぬくもりが残る体温計を見ながら冷静に告げた。
俺と雪那は、どちらともなく、特に約束する事もなかったのだが、毎日朝食は食堂で、一緒のテーブルで済ませる事が多い。もちろん、約束していないのだから、俺が先に座っていたりすれば雪那が来るし、雪那が座っていれば俺がそこに行ったり、と。
そこに最近、外野くんと、未だ名前の知らない霊長類某のドリル様もたまに参加しているのだが。
寝起きから、さすがにあまりの高熱に身体も怠くて起き上がれず、かと言って雪那に連絡しないままでは、寝坊でもしたのかと心配される気がして、学校を休む旨を伝えてみたところ――雪那がわざわざ様子を見に来てくれた。
くそ……、ぬかった。
昨日の帰り道でフラグを発生させ、その上成立させてしまうとは……。
巧のフラグを回収させようと躍起になるあまり、どうやら俺は自分のそういうフラグに気がつけなかったようだ。
「思い当たる節は……ありすぎるわね。むしろ一昨日の川に飛び込んだアレとか……。ごめんなさい、私のせいね」
「いや、ただの疲れだろ……。あの幼馴染ペアのテスト対策やらもやってたしな。よっと……」
「起きちゃダメよ。飲み物取って来るから、そこで寝てて」
身体を起こそうとした俺を制して、雪那が告げる。
美少女に看病されるなんて、これもまた記念すべき青春の一ページではないだろうか。
相も変わらぬ思考を巡らせつつ、雪那に言われるがままに再びベッドに横になった。
「とにかく、風宮くんと篠ノ井さんには私から伝えておくから、今日はゆっくり休むのよ。はい、お水」
「おう、さんきゅ……。伝染ったら悪いしもう行けよ、雪那」
「こういう時ぐらい頼ってくれていいのよ。そうじゃなきゃ、私が恩を返せないじゃない」
「考え過ぎだっつの……。ほら、遅刻するぞー……」
「……もう。今日は部活に行かないで戻って来るから。玄関のトコの鍵貸りていくわね」
……鍵、だと……!?
こ、これはまさかの合鍵的な流れ……。
男子諸君の夢の……――あ、無理だ。頭がボーッとしててテンションが上がりきらない。
「それじゃ、ゆっくり休んでてね」
「おーう……」
意識が朦朧とする中、俺はひらひらと手を振ってベッドの上から雪那を見送った。
◆ ◆ ◆
「悠木が欠席?」
「大丈夫、なの?」
学園に着いて早々に、私――櫻雪那――は篠ノ井さんを廊下から呼んで悠木くんの事を伝えた。別にメールなんかでも良かったのだけれど、朝はいつもギリギリに出席するらしいし、直接伝えておかないと気付かないかもしれなかったし。
まぁ、おかげで私には視線が集まってしまったけれど……悠木くんとの関係については、どうやらすでに噂になっているようだし、私も悪い気はしないので気にするつもりもない。
「ただの風邪みたいだし、安静にしていれば大丈夫だと思うわ。ただ、寮だと昼食が出ないし、熱も酷かったから、自分で用意できそうにないの。だから今日は部活休むわね。悠木くんから鍵も預かってきたから」
「あぁ、そうだな。一人だと風邪ひいた時大変だしな」
「うん……。巧が風邪ひいた時とかも、私もまっすぐ帰ってるもん」
説明してから、そう言えば合鍵を持っているなんて、どちらかと言えば驚かれる内容だとも思ったけれど……目の前の二人にとっては、別に驚く内容ではなかったらしい。
普通に考えて、私がやっている事は……その、恋人とか……、そういう関係じゃなきゃ有り得ない事なのに、どうやら私も悠木くんの今朝の弱々しい姿に、かなり動揺しているらしい。
そんな私の失態を聞いた相手が、お世辞にも普通とは言えないこの二人で良かったと密かに胸を撫で下ろす。
「ゆっきー、私達もお見舞い手伝う?」
「ううん、大丈夫よ。あまり大勢で押しかけたら、悠木くんは無理しちゃいそうだし。それに、せっかく水琴さんが読書部に入ったんだもの。彼女だっていきなり男子の部屋に行くなんて抵抗あるでしょうし、それこそ悠木くんも落ち着かないと思うわ」
言下に、大勢で来られても迷惑だと突きつける私に、風宮くんと篠ノ井さんの二人は、なんとなく腑に落ちないような表情を浮かべていた。
「今回の事だって、アイツに助けられて、こうして話せるようになったのにな……。こういう時ぐらい力になってやりたいんだけど……」
「うん……。私も、色々とお世話になってるし……」
――なるほど、と私も思う。
どうやら普段から悠木くんに世話になっている者同士、やっぱり考える事は似たようなものらしく、ついついそんな二人の言葉に笑ってしまう。
「今回は私が二人の代わりにしっかりと面倒見ておくから、そんな顔しなくていいわ。それじゃあ、私は自分の教室に向かうわね」
短く告げて、私は自分の教室に向かった。
――――今日ほど気持ちが入らない授業を受けたのも、初めてだった。
午前中は何度もスマホに何か連絡が入っていないか確認してしまったし、お昼には昼休みを利用して悠木くんの様子を見に行こうか、真剣に悩んだぐらいだった。
ただ寝ているだけならいいけれど、もしかしたらお腹が空いているのでは。
容態が悪化して、苦しんでいて連絡もできないとか、そういう状況に陥ってはいないかしら、とか。
そんな事を考えて、こうして授業を受けている時間中、どうにか落ち着こうと顔を強張らせていたけれど……きっと今日の私は、周りから見たら実に不機嫌そうな顔でもしていた事だろう。
そうしてようやく、放課後。
私は即座に寮へと帰るべく、足早に教室を後にした。
寮へと着いて、まずは自分の部屋――ではなく、まず悠木くんの部屋へと向かう。
着替えてから世話をするよりもまず、先に無事を確認しなくては気が気じゃなかった。
悠木くんの部屋の鍵を開けて中に入り、靴を揃えもせずに廊下を抜けて部屋へと入ると――そこには、冷蔵庫の近くで倒れている悠木くんの姿があった。
「――ッ、悠木くん!」
慌てて駆け寄ると、悠木くんの身体は汗だくで、息も荒く乱れていた。
必死に顔を持ち上げて額に手を当てると、熱は朝よりもあがっているようで、悪化しているのがすぐに分かった。
「……ゆ、きな……?」
「悠木くん、どうしてこんなトコに……! ベッドに戻りましょ。さぁ、立てる?」
半ば意識は朦朧としたままみたいだけれど、それでも悠木くんはなんとか言う事を聞こうと立ち上がる。
そんな彼の脇に身体を入れて立たせ、そのままベッドへと誘導する。
どうやらベッド脇のテーブルに置いておいた水では、全然足りなかったらしい。
きっと悠木くんは水を飲もうと起き上がって、そのまま倒れ込んでしまったのだろう。
「お水はここに置いておくわね。着替えてくるから、ちゃんとこのまま寝てて、ね?」
「……あり、がと」
悠木くんの、少し長めの髪をかき分けていた私の手が、悠木くんに弱々しく握られて――思わず、顔が紅くなるのが自分でも分かった。
こうして手を握られるだけで、思わず息が止まりそうになる。
きっと悠木くんの意識はないのだろうけど、その手を私は一度握り返してからゆっくりと手を下ろして、急いで自室へと戻った。
◆ ◆ ◆
「――――……ん……?」
「良かった。起きたのね……」
「雪那……?」
心配そうにこちらを見下ろし、長い髪を耳に掻きあげると、安堵したように溜め息を漏らした。どうやらベッドの上で眠ったままの態勢らしい俺の横で、雪那はベッドに腰掛けて座っているらしい。
……あれ?
そういえば、さっきは冷蔵庫に向かって、そのままふらっと立ちくらみして……。
「あれ、俺……」
「ビックリしたわ、そこで倒れてたのよ」
「雪那が起こしてくれた、のか?」
「えぇ、でもなんだかんだで肩を貸しただけよ。悠木くん、自分で動いてたから」
そう言われても、俺にはそんな記憶は一切なかった。
飲み物がほしくて、キッチンに向かってからコップに水を入れて、そのまま一気飲みしたところまでは覚えているけれど……どうも倒れてしまったらしい。
「そっか……。ありがとな」
「ううん、お礼はいらないの。むしろこの前の事も含めて、お礼しているのはこっちなんだから。こういう時ぐらい、素直に甘えてくれていいわ」
「……お、おう……。助かる」
「えぇ、助けてあげる」
なんだろうな。
今日の雪那は、どうにも優しく笑顔を浮かべながらも、やけに押しが強いというか……。
……これはご褒美か……?
いや、そう単純に浮かれているばかりじゃ、危険な気がする。
そろそろ何かの罰ゲームぐらいあってもおかしくないぞ。
「風宮くん達も心配してたわ。来たがっていたけど、私が断ったの」
「あー、アイツら来たら大変な事になりそうだしなぁ……」
「それもあるけど……、ほら。寮の中に一般生徒があんまり押し入るのも、良くないかなって」
「……? 別に門限までは平気だろ?」
「それでも、よ。私がいるんだから、それでいいでしょう?」
まぁそうまで言われて文句なんてあるはずもないし、むしろ美少女に看病されるなんて俺には大歓迎である。
とは言え、篠ノ井も巧も何度かここには来てるし、俺の部屋の来客率は高いんだが。
そこまで気にする所なのか、それ。
「とりあえず、私の部屋にあったゼリーも持ってきたから、食べる?」
「あぁ、うん。助かる」
「あ、あと夕飯は私が用意してあげるから。って言っても、まだ夕飯まで時間もあるからゼリーは食べてしまった方がいいわ。ずっと寝ていて、何も食べていないでしょう? 食欲はどう?」
「お、おう、大丈夫だが……」
「そう、良かった。なら精のつくものを用意しないとね」
ベッドから降りて、雪那が鞄から机の上にゼリーを置いていく
……あぁ、なんかこういうのいいな。
こうして甲斐甲斐しく世話されるとか、なんだかこう、新婚っぽさというか、恋人っぽいというか。まぁ、雪那の今日の押しの強さと面倒見の良さを見ていると、むしろ母親っぽさすら感じられるが……。
――まぁ、俺の母親はそういう人ではなかったが。
そこまで考えて、ベッドの上で身体を起こした。
「……ん、どうしたの?」
ベッドの上で起き上がった俺に、雪那が声をかけてきた。
「あぁ、汗かいたからシャワー浴びるわ」
「気持ちは分かるけど……あ、ちょっと待って」
雪那が俺の額に、手を当ててきた。
何これ嬉しい。って言うか、熱上がるんじゃね……?
「……ちょっと熱いけど、大丈夫かしら……。だいぶ落ち着いたみたいだし、さっき倒れてた時に凄い汗だったから、そのおかげかしら」
「あー……、まあフラフラはしてないし、シャワーぐらいなら大丈夫だと思うぞ」
「……そう……? なんだったら、背中とか拭いてあげるから着替えるだけにしておいた方が……」
「いや、うん。それはなんというか、いつもの俺なら喜べるだろうが、今の俺には恥ずかしさというか、そういう問題があってだな……。とりあえず行ってくる」
「えぇ、分かったわ」
まさか雪那の方からそんな提案をされるとは思ってもみなかった。
おかげで美味しい機会を逃してしまったような気がするが……、まぁさすがにそこまでされるのは気が引ける。
とりあえず、思っていた以上に汗をかいていたらしいし、病人とは言っても女子に臭いとは思われたくないという思春期男子として、さっさとシャワーを浴びに行く事にした。
シャワーを浴びて部屋へと戻れば、雪那が作っているだろう料理の匂いが充満していた。
途端に、空腹に腹が鳴る。
シャワーを浴びた事もあって、頭もスッキリしてくれているし、なかなか快方に向かってるらしい。
よくよく考えてみれば、シャワー浴びたら美少女が料理中なんて、これを記念せずにいられるだろうか。
いや、俺にはそんな勿体無い事ができるはずがない。
「良い匂いだわー」
「まだ出来上がらないから、ゼリー食べて待っててね」
「おう」
……何このやり取り。
ちょっとスマホを探そう。これはしっかりと記念に残しておきたい。
あれ、ベッドに置いてたはずなんだが……。
「悠木くんがお探しのスマホなら、ここにあるわよ」
………………。
「……何故にそれが分かったんだ?」
「悠木くんなら、どうせこの状況を動画にでも収めようとして撮り始めそうな気がしたから」
「くっ、バレてやがる……!」
「否定しないのね……。というか、撮らないでね、そういうの。恥ずかしいから」
「分かったよ……」
釘を刺しながら困ったような笑みで告げてスマホを返してくる。
先に釘を刺されたら撮れないじゃないか。
基本的にイエスマンな俺としては、ここで隠れて撮るという暴挙に出れる精神構造はしてないんだぞ。
「ねぇ、悠木くん。一つお願いがあるのだけど」
「はい喜んで」
………………。
「あの、悠木くん。前にも言ったと思うけど、それはどうかと思うのだけど……っ!」
「だからな、雪那。俺も前に言っただろうが。基本的に俺はイエスの方向だ」
「イエスマンって自分の信念とかなさそうなのに……っ! なんだか悠木くんの場合、芯が通ってるわよね……」
よせよ、照れるじゃねぇか。
「それで? 何だ?」
「……日和祭。その、みんなで行こうって話になったら、その……」
……いや、ちょっと待て。
「二人で行くって言っただろ? それともアレか、俺のデートイベント的なそれを破棄するつもりか! させぬ! させぬぞ……って、あ、頭フラフラした」
「っ!? ちょ、ちょっと! もう、ちゃんと座って――っていうか、横になって!」
「……さーせんした」
雪那に怒られました。
台所から慌てて介助される俺。
……切ねぇ。
「……んで、お願いって?」
「……ううん、なんでもない」
「なんだよ、それ。まぁどうしてもみんなで行きたいなら無理にとは言わねぇけど」
「あら、約束を破るの?」
「破らないっつの」
「ならいいわ。ただ、私もそうしたかっただけ」
……不覚にも、その一言に思わずドキリとしたのは、きっと熱のせいではない。
結果から言えば、あの後はただ用意してくれた飯を食って、俺は薬を飲まされて寝かされてしまった。
おかげで無事に終業式を迎えたものの、体調はあまり良くないままだった。
朝から雪那に心配されつつも、それでも終業式ぐらいは、と強行。
そんな状態で、長い一学期がようやく終わりを告げた。
――雪那の登場やら、篠ノ井の面倒な過去やらで、やたらと充実した――と言うのもおかしな話だが、そんな一学期。
締め括りに現れた、水琴。
実に事件が多い、それでもたった3ヶ月程度の日々で、俺達は色々と変わったのかもしれない。
いつまでも過去に縛られてもしょうがない。
篠ノ井にそんな対応をしてみても、結局その言葉は俺にも言える言葉だ。
――何せ、俺もまた過去を払拭したいが為にこの町に、この聖燐学園に来たのだから。
なんだかんだと言いながら、俺も結局篠ノ井には偉そうな事は言えた義理じゃないかもしれない。
「夏休みの宿題の量が、殺人的なのですよ……」
「あ、あぁ……。しかも俺とゆずなんて、これ……。増やされたしな……。悠木……」
「うぅ……、ゆ、ゆっきー……」
放課後、体調もそれなりに良かったので顔を出したのだが、何故か死にかけた四人の声に、俺と雪那は小さく苦笑する。
「手伝わないぞ」
「そうね。瑠衣ちゃんも遊びたがってたし、遊びに専念しましょうか」
その一言に、全員がびくりと肩を震わせた。
「おい、水琴。お前まで何を震えてやがる」
「あっはっはー……。ゆ、ゆっきーと悠木くんにあやかろうかなーってねー……」
「大丈夫だ、水琴。日々の努力の賜物とやらがあるんだろ? がんばれ」
「っ!?」
――――叫ぶような蝉の鳴き声に、目眩がしそうな程の眩しい陽光。
あの夏に似ている。
以前はそんな事をふと思ったものだけど、今は全く違うものに感じられた。
今頃、沙那姉はどうしてるんだろうか。
結局俺は、雪那に沙那姉については何も聞けないままでいた。
そんな俺を嘲笑う訳でも励ます訳でもなく、相変わらず外は蝉が大合唱している。
俺達の夏休みが、ようやく始まった。
あの夏とは違う、それでもあの夏に不思議と繋がってしまう、高校二年目の夏が――――。