#002 変わる、変わらない
※ 少々の残酷描写がありますので、苦手な方はご注意ください。
「――ゆずちゃん」
「あ、お姉ちゃん」
幼い私――篠ノ井ゆず――に声をかけた女性に、幼い私は嬉しそうに駆け寄っていく。
私はその光景を、まるで他人事のように見つめていた。
「どうしたの? 珍しいね、お姉ちゃんがここに来るの」
「うん、そうかもね。それでね、ゆずちゃん。いきなりだけど、“ゆき”の事、好き?」
「んー? うん、好きだよー。あんまり仲良く遊んでくれないけど……」
「そう。でも、心配しなくていいよ。――だって、もう遊んだりする事はないから」
「え……?」
お姉ちゃん――と、そう幼い私が呼んでいた年上の少女の笑みに、小さな私は恐怖を感じ取っっていた。
いつもの優しい、自分が慕っている雰囲気はそこにはなく、ただただ禍々しい恐怖そのもの。
笑みを浮かべて、口角を吊り上げながら――なのにどうしようもなく冷たい瞳。
「あのね、ゆずちゃん。知ってるかな? ゆずちゃんのお父さんはね、悪い人なんだよ?」
「な、何言ってるの、『――』お姉ちゃん……?」
名前を口にしたはずなのに、それは私には――聞き取れない。
思い出せない。
「家に帰ったら、聞いてごらん? ねぇ、お父さん。お父さんはどうして人を騙したの? って」
「……お、姉ちゃん……?」
「そうしたらきっと、こう答えてくれるよ。お金の為だから、って。それはしょうがないって」
「や……、やだよ……怖いよ、『――』お姉ちゃん」
そこに立っているのは、紛れも無く知っている相手。
なのに、今まで思い出した事もない、名前も思い出せない少女。
その少女は、どこか似ている。
私が知っている、先程話に出ていた“ゆき”ちゃんに。
「あれ、沙那姉?」
「……悠木、くん……?」
そこにいたのは巧ではない一人の少年。
――そうだ、この人は沙那。
自分が実の姉のように慕い、自分の友達である“ゆき”ちゃん――ゆっきーのお姉さんだった、と私は思い出した。
「何で沙那姉がここにいるの?」
「……やだなぁ、悠木くん。午前中に何してるの、って前に訊いたじゃない? ここで遊んでるって言ってたから、たまには迎えに来ようと思ったの」
「そんな事言ったっけ……? まぁいいや。ん、どうした、ゆず……?」
「あぁ、そうなんだ。悠木くんもゆずちゃんの事、知ってるんだね……」
「うん。巧とゆずとここで遊んでるんだ。沙那姉も知り合いだったんだな」
「えぇ、まぁね。でも、そう……。悠木くん、いこっか。ゆきも待ってるよ。ばいばい、ゆずちゃん。さっき言った事、聞いてみてね」
遠くに歩いて行く二人の姿を見る事もできず、小さな私は恐怖からようやく身体を解放させて――泣き出した。
――――意識が覚醒する。
いつの間にか眠ってしまったらしい。
浅い眠りだったとぼんやりと頭の中で考えて、夢の内容を反芻するように思い出す。
そうして、どうしてあんな事を思い出したのかと思考を巡らせて――私は昨夜の、お母さんから聞かされた言葉を思い出した。
「巧……? 巧……!」
自分の傍にいたはずの巧がいない事に気付いて、私は声にならない声で叫んだ。
――誰もいない部屋。
急速に蘇ってくる過去を思い出して、私は頭を抱えて震えていた。
「いや……、嫌ぁぁッ!」
お父さんが死んだあの日を――私は、思い出した。
だって、私はお父さんが死んでいるその姿を、確かにこの目で見てしまったのだから。
空虚な瞳が私を映し出す事もなく、ただただ虚空を見つめている――その目を。
大好きだったお父さんが――物言わぬ姿となって、揺れていた姿を。
「――ゆず!」
泣き叫びながら、私は巧に縋り付いた。
曖昧なままの記憶は――ふとそこで途切れてしまった。
◆ ◆ ◆
「巧、巧……ッ!」
「悪い、ちょっと出てた。俺はここにいるから」
「嫌、置いてかないで……、巧……」
「大丈夫だから。ここにいるから……!」
――失敗だった。
俺――風宮巧――は泣きじゃくり、痛い程にしがみついているゆずを抱き締めながら、ただただ自分の愚かさに歯噛みしていた。
未だに悠木に殴られた頬は痛むし、その上、思考は一切纏まらない。
それでも、悠木が言う通りだった。
俺はただ、俺がどうにか楽になりたいが為に悠木の元へと詰め寄ったけれど、今はゆずを独りにするべきじゃなかったのだ。
――自分の軽率さに、反吐が出る。
悠木に言われた言葉の意味を、今更ながらに理解した。
おばさんから話を聞いた後、どうやらゆずは記憶を取り戻したらしい。
そして同時に、取り乱した。
――「ショックが大きすぎて、記憶を取り戻したら混乱するかもしれない」。
そう医師からも話を聞いていたと、ゆずが寝た後でおばさんからも聞かされていたのだ。
限定された記憶に蓋をして、自分を守ろうとする為に記憶を喪失する。それを医師は見抜いていて、おばさんもまたそうなると分かっていたのだろう。
だから、俺は傍にいると自分で自分に誓っていた、そのはずなのに――俺は悠木の言う通り、ただただどうしようもないこの状況に困惑して、きっと逃げ出してしまったのだろう。
おばさんは仕事を休めないからと、そう言って仕事に行ってしまった。
いや、正確に言えば、俺がゆずの面倒を見ると、覚悟ができているとそう言ったからこそ、おばさんはゆずを俺に託して出て行ったはずなのに……。
「……巧、嫌……ッ! 独りに、しないでよ……ッ!」
「……ッ、あぁ、ごめん。俺はここにいる。ここにいるから……」
うわ言のように何度も繰り返すゆずの声は、あまりにも悲痛で――痛い。
俺はただただゆずを慰める為に、抱き締めたまま時間が過ぎるのを待っていた。
――何もできない自分が、歯痒い。
悠木が以前俺に言った。
――「なんなの、お前。“相手の為に”って正当化して」と。
結局俺は今回も、“ゆずの為に”っていう言葉を大義名分に、悠木の言う通り、櫻さんや悠木に対して八つ当たりしただけでしかなかった。
結局のところ、何も変わっていないのは――他ならぬ俺だ。
ゆずは俺の隣に並ぶ為にって、そう言って自分が消し去ろうとして蓋をしていた記憶に今、こうして苦しみながらも立ち向かおうとしているのに。
櫻さんだって、きっとそういう過去をどうにかしたくて、自分でこの町に戻るって選択肢を選んだのだと、今なら分かる。
なのに俺は――ゆずを見守っているつもりで、ただただゆずと一緒にいるつもりになって、何一つゆずの為に、何かをしてやる事もできていない。
悠木のように、あんな風に周りを見る事もできずに、ただ状況に流されて、それだけだった。
「……ごめん。ごめんな、ゆず……」
あまりの不甲斐なさに、泣きたくなった。
◆ ◆ ◆
「おい、雪那ー! いるかー!」
男子禁制の三階――女子寮として使われている場所へとやって来た俺は、雪那の部屋のドアを叩いて声をかけていた。
今のところ廊下には他の女子が出ていないとは言え、この状況で教師か女子に見つかったらちょっとした騒動に発展しかねないんだが……今はそんななりふり構っていられるような状況でもない。
雪那は知ってしまった。
巧や篠ノ井が全てを知ったという事を。
多分、偶然にも俺の部屋の前にやってきて、中から怒鳴り合う俺達の声を聞いてしまったのだろう。
スマホを何度鳴らしてみても、雪那からの反応がない。
まさか思い余って――なんて最悪な可能性が脳裏を過ぎるが、俺が知っている櫻雪那という少女は、そんな事をする人間ではないと知っている。
とは言え、これは非常事態だ。
いくら雪那とて、この一週間危惧していた最悪の事態が降り掛かった今、放っておけるような状況ではない。
それでも反応がないとなると……まさか、どこかに飛び出してしまったのだろうか。
……仕方ない。
食堂に出て誰かに雪那が出て行く姿を見たか聞いてみるか。
階段を駆け下りて、食堂へ。
ちょうど階段を上がろうとしていた男子を発見した。
「茅野!」
「ッ!?」
「おい、茅野! 雪那見なかったか?」
「お、お、おま、ついに名前を……!」
「意味分かんねぇこと言って感極まってんじゃねぇ、こっちはそれどころじゃねぇんだ。雪那見なかったか?」
「あ、あぁ……。櫻さんなら、さっき慌てて出て行ったみたいだけど……。って言うか、お前、やっぱり俺の名前知って――」
「サンキュ!」
何だかよく分からないが、感動した様子で口をパクパクとさせながら喋る茅野くんにお礼を言って、俺は寮の外へと飛び出した。