#007 彼女の決断
寮の自室で、自分の復習がてらに巧や篠ノ井、それに瑠衣の予習にもなるように問題を抜粋しながら例題を作っていく。
そうした作業続けている内に、気が付けばすっかり陽が傾いていたようだった。
さすがに夏が近づいているだけあって、陽が暮れるまではまだまだ時間はかかるようだけれど、それなりに過ごしやすい気温にまで下がってくれたらしく、冷房を切って窓を開ける。
――が、このジメッとした空気はいただけない。
改めて冷房をつけようとしたところで、机の上に置いてあったスマホが鳴動した。
雪那だ。
「もしもし、どうしたー?」
『……悠木くん。今部屋の前にいるんだけど、ちょっといい?』
「お、おう」
何やら声の様子からして、元気の無さが伝わってくる。
篠ノ井達に勉強を教える事に疲れ果てたのだろうか、なんて考えながらさっさと招き入れるべく部屋の扉を開け――思わず、言葉を失う。
俯いた雪那の表情は暗く沈んだもので、それは憔悴しているようにすら見えたのだから。
「とりあえず入ってくれ」
廊下に立たせていらない噂を招くよりも、雪那が今にも泣き出してしまいそうな顔を見て、慌てて中へと招き入れる。
こくりと頷いた雪那を部屋の座椅子に座らせて、コップに烏龍茶を入れて差し出し、俺もその向かい側に腰を落とす。
そうしてしばし動かない雪那から言葉を待っていると、雪那がぽつりと口を開いた。
「――私、読書部を辞めようと思うの」
「……は? まさか、篠ノ井達のあまりの頭の悪さに絶望して、読書部に嫌気でも差したのか?」
「……からかわないで」
――ごめん、割りと本気でそんな可能性があるのかと思った、とは言えない。
まぁ実際、その程度の事で愛想を尽かせるようなタイプでもないし、有り得ないとも同時に思ってはいたが。
「一体どうしたんだ? いくらなんでも、急過ぎるだろ」
「……私の目的は果たせたもの。悠木くんとも話せるようになったし」
「へ? ちょっと待て。あれだ、お前も巧が好きだとかそんな話だったような気がするんだが……」
「あれはただの方便。前にも言ったじゃない、私は悠木くんに気が付いて、それであの読書部に入る事を決めたの。あの時の事を、どうしても払拭したくて……」
そう言われて、今更ながらに得心のいく部分があった。
実際雪那の態度は、どう見ても巧に好意を向けているようにも見えない。
雪那曰く、そもそも最初は、ただ単純に俺に気が付いていたらしい。
それでも俺が昔の事を引きずっていて、それで雪那を拒絶する可能性もあると考えていたらしかった。
実際、俺は雪那の事を七年前の“ゆき”として見ていなかったし、読書部にやって来たあの時、実際に雪那が“ゆき”だと気が付かない俺に自分からはなかなか言えなくて、巧という方便を利用して俺を無理矢理読書部に残らさせた、というのが本音だったらしい。
そこまで聞いて、俺としては……素直に嬉しくもあり、同時に複雑な気分でもあった。
俺自身、雪那に対しては巧ハーレムの一員であるとして見ていた部分もあるし、それを理由にあまり雪那を意識し過ぎないように一線を引いて過ごしていたのも本音だ。
けれど、昔の事でそこまで気負わせていたというのだから……複雑にもなる。
「まぁ、それについては分かった。けど、いきなり読書部を辞めるってのは、ちょっと飛躍し過ぎじゃねぇか? 何かあったんだろ?」
雪那にしては珍しく、視線を俯けたまま――けれど、問いかける俺の言葉にぴくりと肩を動かす姿を見て、確信する。
やっぱり、どうやら雪那には読書部を辞めるという決意をする何かが起こっているのだろう。
「……もしかしたら、ううん。きっと篠ノ井さんも風宮くんも……篠ノ井さんがどうして亡くなったのかを、まだ知らないみたい……」
「……知らない、って……」
そんな事あるのかよ、と続けようとする俺に、更に雪那が続けた。
「あなたが帰った後、風宮くんと私の間で七年前の――あの夏の話に触れる話題になったの。わ、私は、てっきり終わった事なんだと思ってた……! 私の両親と篠ノ井さんのお父さんの事も、きっと篠ノ井さんは全てを理解していて、それでも私に昔の頃のように接してくれているのだと、そう思ってた……! でも――!」
「落ち着け、雪那」
まくし立てるように告げる雪那の言葉を遮る。
どうやらかなり混乱しているらしく、そんな雪那を見るのは俺も初めてだった。
「一つずつ整理しよう――」
なんとか雪那から聞いた話を要約すると、だ。
一年前の春、聖燐学園の入学時。
雪那が俺を見つけたように、どうやら篠ノ井も雪那を見つけて――突如として、昔の態度と変わらない態度のまま、親しげに話しかけられたらしい。
その行動に対して、てっきり“過去は過去で、親は親。親同士の問題だった事を引きずるつもりはなく、自分がそう考えているように、篠ノ井もまたそう考えているのだろう”と雪那は結論づけたそうだ。
それでも、そうは思っていても、だ。
雪那の両親が、篠ノ井の父親を奪ってしまったという事実はなんら変わらない。だから、雪那もまた篠ノ井に対してはなるべく距離を置いて接するようにしていたようだ。
クラス替えが行われないウチの学校だからこそ、そういった距離感を保っていられたという一面もあるのだろう。
けれど――そこでイレギュラーが起こってしまった。
篠ノ井の近く――つまりは読書部に俺が入部してしまった事、だそうだ。
俺と接触するか否かを迷っている最中に、俺が篠ノ井によって読書部の部員として巻き込まれてしまい、クラスの違う雪那としては、俺に接触するには手紙で呼び出したりする以外には、読書部に入るしか選択肢がなくなってしまった。
それでも、篠ノ井は相変わらず雪那を見かけると、まるで何事もなかったかのように振舞うし、雪那としても篠ノ井に思う所はないのだと踏んで、読書部へと入った。
そうして、俺に対して接触を果たす事にしたそうだ。
「――だけど……、今日風宮くんと話していて、気が付いたの……。あの子は、篠ノ井さんは私を許したんじゃなくて、きっと何も知らないだけなんだ、って。……そう考えると、怖い……。もしも何かの拍子で知ってしまったら、きっと二人は今まで通りじゃいられない……!」
「でも、篠ノ井の親父さんが死んだ事に、雪那は関係してないだろ?」
「分かってる! そんなの分かってるけど、彼女からしてみれば父親が死んだ原因となる相手の娘なのよ……!? 事情はともあれ、きっと平気な顔して接していられるはずない……!」
「……それは……」
――それはない、とは俺にも言えなかった。
最悪の場合、篠ノ井にとっては“事実を知っていながらも黙って私の友達のふりをしていた”なんていう、突拍子もない発想にいきかねない。
涙を流しながら、雪那はその整った顔を悲しげに歪ませた。
「……そう考えたら、やっぱり私は一緒にいない方がいい……。もしも知ってしまった時、私が何食わぬ顔をして彼女の傍にいたら……。もしも私が篠ノ井さんの立場だったら、きっと私も、頭では分かっていても許せないから……」
乗り越えたと、そういう前提であったからこそ雪那は篠ノ井と接してきたのだ。
その足場が不意に消え去り、不安が生まれる――それは仕方のない事なんだろう。
両手で顔を覆って泣き出してしまった雪那を見ながら、何も出来ない自分に苛立って奥歯を噛み締めた。
苦しんでいる雪那に対して、ただ傍にいてやる事ぐらいしか――俺にはできなかった。
◆ ◆ ◆
「今日は楽しかったね、巧」
「あぁ、そうだな」
夕飯を食べ終えた後、私――篠ノ井ゆず――は巧に対してそんな言葉をかけた。
巧の家でご飯を作って食べるのは、私にとっての日常。
むしろそうじゃない日の方が少ないぐらいで、私はこの風宮家も自分の家のような場所だと、そう思っている。
「おばさん、今日も仕事か?」
「うん。なんか大変みたい。夕飯は適当に済ませるからってまた言ってたんだけど、作り置きはバッチリだよ」
「そっか」
お母さんは女手一つで私を育ててくれている。
そんなお母さんの仕事が忙しいのもしょうがないので、私としてはお母さんを責めるつもりなんてないし、むしろ感謝してもしきれないぐらいだ。
だから、いつも私はお母さんのご飯も一緒に用意して、帰りを待っている。
「そういえば櫻さん、体調悪いからって帰ったけど、大丈夫だったのかな?」
「うーん、大丈夫だとは思うけど……。そういえば、巧。今日のお昼、ゆっきーと何を話してたの?」
そう訊ねてみたものの、それは私がゆっきーを疑っているとか、そんな気持ちから出た言葉じゃない。
読書部に来た当初は勘違いしちゃった事もあるけれど、ゆっきーが悠木くんに対して抱いている気持ちや普段の態度などから考えても、ゆっきーが巧に靡くような可能性はまずないと思うし。
今のところ、私の恋敵は瑠衣ちゃんだよ……!
「あぁ、昼って、あの料理勝負の時の話か? あれは悠木の話だよ」
「悠木くんの?」
「あぁ。ほら、悠木と知り合ったのって俺らが小学生の頃だっただろ?」
「……? 巧が悠木くんと? どうして?」
「……あぁ、そうだった、な……」
「……あ……。もしかして、それって……」
「……うん。四年生の頃、あの夏、だよ」
言葉に詰まる巧に、私は苦い笑みを浮かべた。
私はどうしても――大好きだったお父さんが死んでしまったあの夏を、小学校四年生の時に過ごしたあの夏を、思い出せないでいる。
解離性健忘――要するに、ストレスによる長期記憶障害だと、お医者さんには言われてしまった。
何故、あんなにも元気だったお父さんが、あの夏に死んでしまったのか。
病気だったのか事故だったのかも、当時はお母さんに訊ねてみても困った顔をしてはぐらかされてしまうばかりだった。
記憶が抜け落ちるというのは、どうしようもなく不安だった。
巧がいないと周囲と話をする事もできなくなってしまったし、いつかまた忘れてしまうんじゃないかと思うと、全てを知っていてくれる相手がほしくて――私は巧にそれを求めていたんだと思う。
思い出そうとすると、酷い頭痛と動悸に襲われる。
それを繰り返せば繰り返す程、なんでかは分からないけれど、お父さんに関する記憶がぼろぼろと剥がれ落ちてしまうような、そんな感覚に襲われてしまう。
大好きだったはずなのに、忘れてしまう自分が怖かった。
だから、思い出せずとも大事にしようと決めた。
――でも、いつまでもこのままではいられない。
「……ねぇ、巧」
「どうした?」
「……私、言ったよね。私は自分で立って歩けるようになるって」
つい先日の言葉を改めて口にすると、ソファーに座っていた巧がテレビを消して、こっちに振り向いて頷いて応えてくれた。
……うん、そうだね。
私だって、いつまでも巧に甘えているばっかりじゃ、胸を張って巧の隣りに相応しいなんて、言えるはずないもんね。
「……そろそろ、お父さんの事、お母さんに訊いてみよう、かなって」
その言葉を紡ぐだけで、身体が震えて、手に力が入る。
自分で自分を抱き締めるように両腕をギュッと握って、それでも私は、それから逃げ出したりしようともせずに、ぐっとそれを堪えていた。
「ッ、ゆず……、無理すんな――」
「――でも、そうしないと変われないから……!」
昔と同じ、割れそうな頭痛が襲って来る。
それでも、なんとか心配させないように、私はぎこちないであろう笑みを浮かべながら巧を見つめた。
「ねぇ、巧。お願い。その話を聞く時は、一緒にいてくれる……?」
巧が迷っているのは、私にもよく分かった。
私はまだまだ弱いから、巧に寄りかかっていないと、一人じゃまだ何もできないから。
そんな私が無理に聞こうとするのを、止めるべきじゃないかって、きっとそう考えている。
でも――私はもう、変わりたい。
変わらなきゃ、いけない。
「……巧、お願い。情けないって思うかもしれないけど、そうしてほしいんだ」
そこまで言ってみせると――巧は、呆れたように笑って頷いてくれた。
「分かった。ゆずがそうするって、決めたんだろ? 俺も付き合うよ」
「……ありがと……」
「でも、まずは追試を終わらせようぜ。んでスッキリさせてからだ。それでいいよな?」
「……うん!」