#009 『再会』
大音量のヘッドフォンを通して、自分の耳を痛めつける趣味は俺にはない。ないのだが、それでも、篠ノ井の電話の声を聞く訳にはいかないのだから、こればっかりは我慢するしかないだろう。
そんな事を考えつつ、時間の流れが早く過ぎてくれと言わんばかりにパソコンのモニターと睨み合って十五分程。
ようやく、篠ノ井に肩を叩かれて俺は大音量ヘッドフォンという苦行から解放された。
「悠木くん、ありがとう……。私、帰らなきゃ」
瞳には光が戻り、表情もさっきまでに比べれば圧倒的に晴れやかなものに変わっている。
ようやく無事に片付いたのだと気付かされる。
幼馴染ペアの騒動に巻き込まれたこの数日が、どうにか終わりを告げそうだ。
「送ってやるよ。夜中だしな」
「大丈夫、巧が迎えに来てくれるみたい」
「あぁ、そっか。その前に雪那が迎えに来てくれるからちょっと待て……って、お、ちょうどメールか」
雪那もまったくもって良いタイミングで、部屋の前に到着したと連絡してきた。
本当に素晴らしいタイミングだ。
早速とばかりに扉を開けて雪那を迎え入れると、雪那は篠ノ井の姿を見た後で、何故か俺をじとりと睨みつけた。
「……ねぇ、悠木くん。篠ノ井さんが着ている痛々しい英語の書かれたシャツとジャージを見る感じだと、あわよくば女の子を連れ込んでお泊りさせようとしていたようにしか見えないのだけれど」
「おいやめろ誤解だ。制服姿のままで、泣き腫らしてたからな。とりあえずシャワー浴びさせただけだぞ、他意はない」
そんな下心をヤンデレ篠ノ井に抱けるようなタイプではないのだ。
いくら美少女であるとは言っても、篠ノ井だけは俺は恋愛対象として見れるはずもない。
雪那も冗談だったのか、真剣に否定する俺を見て小さく笑った。
「冗談よ。とにかく、その服装は男子のものってすぐに分かってしまうし、元の服に着替えた方がいいんじゃないかしら」
「制服だったぞ、さっきまで」
「……こんな時間に制服で歩くなんて、補導してくださいって言っているようなものね。いいわ、服を貸すから、一回私の部屋に行きましょ。悠木くんの服は、一度私が洗濯してから返すわね」
「別にいいぞ、洗わなくても。シャワー浴びさせた後だし……って、あー、なるほど。頼む」
雪那と篠ノ井の視線の種類に気が付いて、慌てて軌道修正する。
まぁ、さすがに女子が着た服だからってドキドキして意識してしまうような変態的な考えはないが、ここで冤罪を被せられるのは俺としても不本意だ。
「帰りは巧が迎えに来てくれるらしい」
「そう、なら私が部屋から直接送り出すわね。悠木くんが一緒だと、もしも見つかったりしたら騒ぎになりそうだし」
「だな。頼んだ」
俺と雪那、それに篠ノ井が万が一にでも見つかったりしたら、確かに騒動になるだろう。
ここは雪那に任せる事にして、俺は二人を見送る事にした。
篠ノ井が謝ったりお礼を言ったりと何やら慌ただしかったが、だったらさっさと巧と帰って元の鞘に納まってこいと軽口を告げておく。
「――お疲れ、雪那」
「それはこっちのセリフよ。お疲れ様、悠木くん」
篠ノ井を巧に引き渡した後で、改めて事情を聞きに雪那が俺の部屋へとやって来ていた。
あの飛び入り参加をかましてくれた宝泉さんが、巧に対して説教したらしい、という事も含めてありのままに事情を説明していくと、やっぱり雪那もまた考え込むような素振りをしてみせた。
「……そう。何だか釈然としないわね」
「あぁ、やっぱり雪那もそう思うか?」
どうやら思う所は同じらしい。
宝泉瑠衣が何を思って篠ノ井の肩を持ったのか――どうしても腑に落ちないのだ。
しかし雪那は小さく嘆息すると、改めて口を開いた。
「そうは言っても、こればかりは私達が考えてもしょうがないわ。ここは一つ、ゴタゴタが片付いた。そう考えるべきなんじゃないかしら」
そんな言葉を言われると、確かに俺も反論する必要はないのではないかと、そう思ってしまう。
所在なさげに後頭部を掻いて、俺は小さく溜め息を漏らした。
「ま、そりゃそうだな。まぁ今はテスト前だし、そっちに集中するのが無難かもしれないなー。それに、夏休みまであと少しだしな」
「……えぇ、夏休み、よ」
肩の荷が下りた、とでも言うべきだろうか。
何はともあれ、今回の騒動はこれで片付いた、と言っても良いのかもしれない。
テストが終われば、ようやく夏休みが訪れるし、長い休みは待ち遠しいものだ。
「……ねぇ、悠木くん。まだ、思い出さない?」
「思い出すって何を?」
あまりにも唐突な、主語のない質問。
雪那の瞳が、まっすぐ俺を見つめながら――更に続けた。
「……七年前。私は――いいえ、私達は、悠木くんと会っているの」
「……七年前……?」
――七年前。
それは、小学四年生のあの夏の出来事を忘れるはずなんて、なかった。
小学四年生の夏、俺はこの日和町へとやって来ていた。
母方の祖母がこの町に住んでいたのだ。
そんな祖母の体調が悪化したそうで、俺は両親と一緒にこの日和町へと遊びに来ていた。
とは言え、祖母はこの近くの病院で入院していて、俺は毎日、どちらかと言えば暇を持て余していたと言えるだろう。
それなりに栄えている駅前を離れ、住宅街を離れてみれば、そこには剥き出しのまま手を加えられていない自然が残る、何もない町――それがこの町に対する、当時の俺の抱いた感想だった。
東京の都会に暮らしていたせいか、日和町のどこか片田舎然としたこの町には、幼い俺も探究心に胸を踊らせた。婆ちゃんの見舞いに行く日以外は、ほぼ朝からずっと、ただ一人で町の中をブラブラと歩き回ったのだ。
小学四年生の活発さと、好奇心旺盛な年頃の行動力というのはバカにならず、それでも見慣れぬ景色はそれだけで楽しくて、あっちこっちを探索していた。子供ならではの、自分だけが知っている秘密基地を探すような、そんな感覚だったのかもしれない。
騒がしい蝉の鳴き声と、照り付ける太陽の暑さ。
そんな暑さでも、公園で水を飲んで歩き回ってみた俺は、とある川へと辿り着いた。
斜面の下に広がる、小石が敷き詰められた川辺。対岸には、手の加えられていない野山が広がった、流れも穏やかな川だ。
穏やかな川の水は驚く程に透き通っていて、真夏の太陽の下を歩き回っていた俺は、迷う事なくサンダルのまま川の中へと足をつけて、顔を洗って、その冷たさを堪能していた。
そんな時だった。
「あら、初めて見る子ね。こんにちは」
突然、鈴の鳴るような声が俺の耳へと届いてきた。
振り返ると、そこに立っていたのは年上の少女。
彼女は俺を見て小さく微笑んでいた。
明らかに自分より年上の、当時の俺にとっての年上の女性。
そんな存在に声をかけられ、俺はしどろもどろになりつつも、返事を返した。
「こ、こんにちは……」
「この辺りに住んでるの?」
他愛もない会話から始まった、あの夏の交流。
二人の少女。
年上で、俺が憧れにも似た感情を抱いた女性と、その妹で俺と同い年の少女。
当時を明確に思い出して――そして目の前にいる雪那を見て、俺は思わず、目を大きく見開いていた。
「……沙那姉……、と、“ゆき”……?」
思わず、言葉に出てしまう。
雪那は俺が気が付いたと知ると、小さく嘆息していた。
「……もう。やっぱり、お姉ちゃんの事だけはすぐに思い出すのね」
「は……? いや、そうじゃなくて、お前、あの“ゆき”なのか?」
「だからそう言ってるじゃない。雪那の“ゆき”」
頬を膨れさせながらそう告げる雪那は、確かに俺が知っている“ゆき”の姿が重なる。
紛れも無い同一人物だと、俺はようやく理解した。
しかし動揺している俺を他所に、雪那は急に俺を見て、真っ直ぐ頭を下げた。
「……ごめんなさい」
「え……?」
あまりにも唐突な謝罪に、俺も思わず言葉を失った。
「あの時、私とお姉ちゃんは悠木くんを傷付けた。その事を、どうしても謝りたかった……。あれからずっと、悠木くんはあの川にも来てくれなくて、結局私も引っ越してしまったけど……」
その謝罪の言葉に、俺は今、初めて雪那の気持ちが理解出来た気がした。
雪那は、俺を傷付けたと思っている。
「……アレに、雪那は関係ないだろ?」
「それでも……! それでも私は、悠木くんを傷付けたじゃない……!」
瞳が、溜まった涙に揺れていた。
「……あー、うん。いいんだよ、別に」
「でも、悠木くんだって気にして……――!」
「でもそっか、ゆきだったのか。うん、なんか綺麗になったな、ホント」
「……な……ッ!」
「な?」
「何いきなり言ってるの! バカ!」
「何いきなり叫んでんだ! こんな時間に大声出して、誰かに聞かれたらどうすんだよ!」
思わず俺も大声で張り合うが、本末転倒である事は気にしない。
俺は男だ。部屋の主なのだから、ただうるさいだけで済むだろうし。
そんな俺の前で、我に返った雪那は顔を赤くして、視線を落としていた。
失態に顔を赤くするとか、ちょっと写メしておきたい気分だ。
「別に気にしちゃいねぇよ、雪那の事は」
「……でも……」
「でもとかだってはやめろって。俺が気にしてないって言ってんだから、いいだろ?」
俺の言葉に、しばしの沈黙の後でようやく雪那が頷いて応える。
「んじゃ、そういう湿っぽいのはナシだな。雪那の事は、ホントに恨んでねぇよ」
「……悠木くん……」
「それより、時間も時間だし、今日は帰って寝た方が良いぞ。テスト前に体調崩したら、どうしようもないだろ?」
時刻はすっかり丑三つ時なのだ。
雪那も少しは気持ちが落ち着いたのか、小さく頷いて立ち上がった。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」
雪那を部屋から見送り、俺は部屋の鍵を閉めて、そのまま扉に背を預けた。
あの夏の事は、今でも俺は忘れてなどいない。
皮肉なものだと、そう思ってしまう。
こんなにも近くに、“ゆき”がいたなんて、俺は知りもしなかったのだ。
「……切り替えよう」
小さく、俺は呟いた。
今はただ、目の前のテストの事だけを考えよう。
そんな風に、自分に言い聞かせるべく。
俺と沙耶姉、それに“ゆき”――雪那の三人の過去。
それに加えて、雪那から聞いた篠ノ井の過去。
それらが全て、まさか繋がっているなんて――今の俺には、まだ知る由もなかった。